北へ発つ


 二頭立ての小さな鉄道馬車が、蒸気で朧に輝くガントロウの夜景を背に、ゆるい登りの街道を北に向かっていた。

 小さな鉄道馬車、とはいえ貨車一両に御者車と、ちょうどトラックをばんえい馬が引いているような、そんな見た目通りの重量と迫力があった。

 常闇の冬の底で、馬達は白い息をばふばふとたなびかせながら交易品と二人の若い護衛を運ぶ。

「きれい?」

 荷台の後部、幌の隙間から外の夜景を見ていた私は、向かいに座るメルタに視線を移す。

「ごめん寒かった?」

「ううん。私も見る」とメルタは毛布にくるまったまま、私と反対側の隙間から外を覗く。「北側はあまり来たことないけど、やっぱりいつものって感じ」

「綺麗だよ。雲の中にある町みたいで……見られてよかった」

「あんな湯気より、その素がいいんだよ」メルタは横目を飛ばす。「温泉。せっかく入れたのに」

 町を悲劇から救ったメルタと私は、半日もしない内に町中から歓待を受ける英雄となった。精霊の力を借りまくった私も去ることながら、メルタの女神級のまばゆい活躍はやはり隠せるはずもなく、そこに深手を負いながらも大喜びのベダンの姿が、「あの鬼ヅラ隊長がズタボロとは」「マジでやばかったのか」「すげえんだなあの子たち」と話の信憑性を高める役を担ったせいで、余計に早くに口伝てが広がってしまった。

 そうして二人の若き夜警が同時に精霊力者として覚醒し、突如壊滅の危機に瀕した町を救った--という鮮烈な事件が新たな歴史として刻まれた。

 そこに、いち早く賢しい上流宿泊施設の者が私達に「祝勝会のご用立ては是非当館で」と誘いを持ちかけてきた。庶民が半月暮らせるほどの宿泊代を無料に、加えて上流の原泉大浴場の貸しきりという餌に食いつきかけたメルタを引き剥がし、代わりにベダンを食いつかせて逃れてきたのだった。魅力的な誘いではあったが、祝勝会も温泉回もやる時間はない。

「あんなに走り回って、ほとんどそのまんまの格好で町を出るなんて……」メルタのため息。「長い悪夢」

「下着は換えられたでしょ」私は大火に一滴の慰めを投じた。

 静寂。私の作り笑顔だけが残った。


 五歳で身寄りを亡くしたユウイは、以後七年間メルタの家で暮らした。そして夜警見習いとして入寮した後も、なにかと彼女の家には世話になっていた、とある。

 さきほど町が救われた直後、夜警を辞して今すぐに町を出ると宣言した私を、メルタは諦めた笑顔で睨んだ。複雑な表情で参考になる。

 そして私が「一緒に来て」と言う前に、彼女は家族へ別れの挨拶を、と私を家に招いた。

 正直断りたかったが、彼女を連れて旅立つ上で避けがたいヒロイン実家イベントだった。

 メルタの家は暮らしぶりこそ慎ましくも、古まで代々名を辿れる由緒ある血筋の良家だ。父は夜警の高官としてメルタが生まれてすぐ聖帝連合カーラン首都の千万都市ニル・カーラン勤務、いわゆる中央勤めのエリートコースに入ったが、わずか数年で病に倒れ、療養後も歩行困難となりガントロウの生家に戻った。そして祖父母とともに細工物でようやく暮らしを立てている。

「入れ」とノックの返事があり、私たちはその父の部屋におずおずと入った。

 ベッドにくっつけ並べた同じ高さの道具棚の上に座り、作業机に向かっていた父が私たちの入室に合わせて身体の向きを変える。傍らにある杖とベッドの飾り脚の一本は仕込み刀だろう、という原作中での疑いは、その眼差しを肉眼で受けて私の中で確信となる。

 立て続けに緊張する相手と対面するボスラッシュで、精神が悲涙に濡れ細る心地がした。

 メルタは偽りなく、けれど嘘にしか聞こえない不都合な部分は伏せて見事に説明してのけた。

 いわく、私とメルタは今日の夜獣襲撃の騒ぎで殊勲を立てて、ベダン隊長の指揮する旅鳥連部の所属となり、早速、極北との中継町リースクグへ向かう貨物車の護衛の任を賜った。その後の指示は当地にて休養しながら待つように、とのこと。要は以前数回あった短期研修出張よりは長く、最長で冬の間は家に戻らないだろう、という旨を伝えた。

 話す内容は良かったのだが、残念ながら話し方がまったく落ち着きなく、いたずらを誤魔化す子供そのものといった挙動で、アフレコと画が合っていなかった。バレバレだ。

 ちなみに実際の順はというと、

 私は本部(組織上はガントロウ支部)に帰還して早々、剣と警笛を部長の机上に捧げ置き辞職の挨拶もそこそこに踵を返し、ベダンを捕まえ馬の入手法を訊ねた。

「馬ってお前」ベダンは私の軽くなった腰元を見て笑みを消す。「どこ行って何する気だ?」

「北に三日ほど行って、そのあたりに、まあ」あまり詳しい事は話すべきではないと思い濁す。

「メルタ、お前も一緒か」

 と問われて、私の背後からメルタのため息が聞こえた。「……はい」

 祝勝ムードの取り巻きから孤立するように、当事者三人は疲れたオーラに包まれた。

 そしてベダンは文句たらたらながらも速やかに取り次ぎ手配してくれた。転属にあたって誰それに書類を貰えだの、北にその距離ならリースクグに鉄道馬車で行き、そこから馬を駆った方が日数的にも身体への負担から見ても合理だと諭され、貨車護衛の任がすでに決まっていた隊員を急遽呼びつけて譲って貰うなど、「俺は今日くらい早く帰りたい日はないんだ」と急ぐ理由をこじつけて既にすっからかんを過ぎて借金だらけの力を尽くしてくれた。

 こうして、正式に転属が受理されるのは数日後となるが、ベダン直轄の旅鳥連部の夜警となった二人は無事に北へ向かう最速最安値の切符を手にした。

 メルタの説明を聞き終えた父親は、「承知した。助け合って任を遂行しなさい」と頷いて黙る。

((?))

 あまりの呆気なさに私たちが呼吸を忘れていると、父は思い出したようにメルタを目で招く。

「石を見せなさい」

「んぐっ」メルタはあからさまにぎくりとし、胸元から石を引き出しお縄を頂戴とばかりに渡す。

 光石の沈んだ水ランプの黄色光を近づけ、単眼鏡を右目に据えて石の表面、次いで金具の目立たない機巧の番を確かめる。それぞれ時間にして数秒。「ふふっ」

「えっ……」メルタがのけぞる。

 信じがたいことに、父は笑ったらしかった。

「開いたのか?」石を返しながら、父が娘に聞いた。「魔力が枯れかけているのはわかるが」

 和やかな口調だった。まるでジャムの瓶について話しているかのように。

「開いて、閉じました」メルタがおそるおそる正直に話す。

「勝手にか?」

「はい。気づいたら……」

「そうか……」深く息をつき、瞑目する父。

 沈黙。不思議な時間が流れる。メルタが一度振り返って私を見た。かわいい。地獄に花だ。

「詳しい話は帰ってから聞かせてくれ」と父が言う。「時間をとらせた。支度しなさい」

 それで緊張の対面は終わりだった。私は「はい」と最後に返事しただけで済んでしまった。

 支度といっても、私はすでに寮の自室で済ませていたので、メルタが支度する間に軽く食事をごちそうになった。ここまですべての景色、建物、触れる家具のディテールが疲れを忘れさせてくれていたが、この食事はその極点だった。

 紫麦の緻密なパンとクリームチーズに濃色のハチミツ、黄金色のハーブティーと簡単な品目ではあったが、そのどれもが最高の味わいだった。パンは噛む回数が必要で、なかなか飲み込めない硬さと粒度なのが幸いして、ゆっくりと味を楽しむことができた。麦のプチプチもちもちした食感と香味が、なめらかチーズとナッティーなクセのあるハチミツを受け止め絶妙に調和していく感動。そしてお茶の熱さと穏やかな香気が、喉と鼻腔を幸せに洗い次のパンを口に誘う。

 すっかり平らげると、この家では食卓のみに置かれる油を燃やす方式のランプの火が目に入り、吹き消しておく。おそらく食べ物を照らすには火の光の方が良いという考えなのか伝統なのか。

 原作では、光石の水ランプと通常の火のランプでは地域差もあるがコスト的にほぼ同等とあり、火災の危険性を鑑みれば光石が優勢となるだろうとは思う。

 光石とは各地で産出する便利な畜光石で、水に浸けて初めて発光する性質が光の保存を容易にし、極夜圏では特に生活必需品であった。高純度となるほど白色透明の結晶に近づき、濁ると多種にわたる色がついて光量寿命ともに落ち、安価で取引される。

 とりわけ色の濃い、一見して宝石に似たクズ光石は、お守りとして主に子供に持たせる風習があり、メルタの魔法石もこれを装って下手な金具で覆い隠したのだろう。本来の価値を思えば、なんとも豪胆な家宝の保管方法だ。

「はぁ……お待たせ」

 戸口に現れたメルタは結局、支度前とほぼ同じ格好だった。

 濃紺色で丈の短いトレンチコートといった形の外套。私たち夜警の冬の制服だ。ウエストのベルトを締めるかどうかに加え、オプションで腰までの長さのマントがボタンで脱着・付ける位置の変更ができる為、着こなしにバリエーションはある。背中と左右どちらかの腕を隠すように付けるか、ひだを寄せつつ背中のみに付けるか。彼女は右腕側を隠す付け方で、私はそれの逆側だった。ちなみに私は、そのマントごと左肩に大きく穴を開けられてしまったので、本部でマントだけ新しいものに換えさせてもらっていた。

 着心地も材質も悪くはない。薄手の帆布のようなごわついた外布に、細かな毛玉がびっしり付く内布、その間には不織布がサンドされているため、内部でヨレて妙な凹凸が浮く代わり、この一着だけでもだいぶ暖かかった。

 メルタはその下に、制服ではないが同系色のテーパードパンツにショートブーツという軽めの旅装だった。これは首尾一貫してそうなのだけど、かわいい。

 しかしこうも暗色コーデだと余計に目立つピンク髪と色白の童顔だが、きっとカバンに乗っけているフード付きのマフラーで覆うのだろう。そう願う。

「回って」とつい言ってしまい、私は自省した。「--いや、なんでもない」

「え? 背中側、なんかへん?」メルタは回ってくれた。

「何も変じゃないよ。ありがとう」

「なんの感謝……?」

「駅は下流の方だっけ」私は目をそらす。「ここからどれくらいかかる?」

「歩いたら二〇ギットくらいだけど」メルタは約四〇分と答えて、目を見開く。「えっ……うそ。もうこんな時間?」

 柱時計の見方は私もわかる。事態は一ギットを争う。

「忘れ物は無いね?」私は席を立って自分の背嚢とメルタの鞄を持つ。

「ありがと、あ、ちょと待って」メルタは私のカップにお茶を注いで飲んだ。

 カップをゆっくりあおるメルタの顔を見つめていたら一度目が合う。

 心が満充電となった私は玄関へ向かった。残念ながらもうヒロインを愛でている時間はない。

「ゆっくり飲ませてよ」彼女の文句が背後から届いた。「いってきますお母さん、手紙は返信不要ね!」

「ごちそうさま!」私も挨拶してドアを開け、先にメルタを促す。「ちょっと走ろう」

「はぁあ……」メルタは外気にぶるっと震えた。「せっかく下着替えたのに……」

 私はマフラーを彼女に渡す。「道案内よろしくお願い」

「温泉に着いちゃったらごめんね」

 町を救った覚声女神の澄んだ笑顔が、白い息を残してくるりと前へ向いた。


 駅は首都へ向かう南側こそ大きくて客車の便数も多いのだが、北側は秘境の無人駅といった風情だった。聞いた通り客車も一日一便しかないようだ。

 南側なら荷の上げ下ろし用のホームも多数あり迷うこと必至だろうが、ここではひとつの小さなホームで事足りるため時間前にたどり着くことができた。私は初めて行く駅の場合は時間に余裕を持ちたいので、すこし走るペースが速すぎたかもしれない。久々に歩行へ戻す。

「こうして走って着くと駅に来たって感じがするね」と私は息をつく。

「どう着いても駅は駅!」メルタは首もとを開け、肩で息をしていた。「次来る時は転移魔法使うから……絶対」

「北方面には転送宮無いみたいだけど」仮にあったとしても、言わばファーストクラスの移動手段だそうなので庶民には無縁だろう。

「いいもん。精霊さんに頼むから」メルタは瞳を左に動かし、そちら側の髪を手でふわりと微かに押し上げる。

「魔力が回復しきって余ったらね」

「ちゃんとした事も言うよね……」メルタが私を見る。「する事はずっとめちゃくちゃなのに」

「メルタだって相当無茶な事してるでしょう」

「死病患者がくしゃみに祈らないで」

 意味がわからなかったが、たぶん“お前が言うな”というニュアンスだろう。

「……それ、ことわざかなにか?」

 そう訊ねると一瞬、メルタは泣きそうな表情をしてすぐに押し隠した。私が元のユウイではない事を再認識したのだろう。思えば今日という日は彼女にとって、本当にどうしようもなく運命の分岐点なのだ。

「そうだよ。覚えなくてもいいけど」彼女は微笑んだ。

「後でもっと色々教えて」私も笑みを返す。

 立ちはだかる運命を蹴散らし続ける日々が始まる。せめて最後まで、彼女を守るのは最低限の私の義務だ。

 馬車の後部が近くなって来た。代表者を探す。

 荷の積み込みは終わっているらしく、今は馬車の各部分のチェックをしている男が一人だけだ。その男に声をかけると、御者車の方へ呼び掛ける。

 すると細い葉巻をくわえた初老の渋面が窓から現れ、私たちを見て片眉を上げた。

「どっちだ?」とぶっきらぼうに短文で聞く。

 元々この馬車の護衛担当は一人だったため、私たちのどちらかしか乗らないと思ったのだろう。

「おう、早いな英雄ども」

 御者に説明する前に、他方からベダンがこちらに向かって歩いてきた。

「わりぃな。先に来て話を通しとくつもりだったが」とベダンは言い置き、初老の御者と窓を挟んで親しげに話し出した。どうやら旧知の仲らしい。

 そちらは任せて、私は比較的若い男の方へ話しかける。

「私たち二人で乗りたいんですが、平気ですか? もちろん報酬は同額のままですので」

「あぁ……」男は視線を貨車の後部と前方の御者車と何往復かさせ、結局前へ聞きに行った。

「今聞いた。場所空けてやれ」と報告を遮って窓から手が振られるのが見えた。

 貨車の後部の幌を上げて留め、男が素早く麻袋らしい積み荷をいくつかずらしてスペースを作ってくれた。といっても一畳分くらいしか床は見えない。

 ベダンを見ると、御者から葉巻を一本貰ったらしく鼻にあてて匂いを嗅いでいた。

「ふぅん……俺ぁ葉っぱでいいな」と御者へ返そうとするが、こちらを向いて結局持ってきた。

「じっさんからおめぇらにってよ」ベダンが薄茶色の細い棒を差し出す。

 葉巻だったら困るところだったが、近くで見るとシナモンのようだった。礼を言って受け取る。

「それとユウイ、俺からはこいつだ」ベダンは腰元から鞘に収まった短刀を外して私に渡した。

ユウイ「これは……」

「旅鳥団の剣が貰えるまでは、それで繋いどけ」

 私たちは町専属の夜警を離れるにあたり剣を返納していたので、この餞別はとてもありがたい。私が部屋で調達できた武器らしいものといえば、それをナイフと呼んでいいなら、指より短い刃のものが一本、外套の隠しの中に粗布に包んで持ってきただけ。小枝から箸を作るくらいしかイメージできない代物だった。しかしそうした戦力的な意味以上に……、

ベダン「抜いてみろ」

 二十センチほどの、大ぶりなサバイバルナイフに似た刀身が街灯の明かりを反射した。

ユウイ「これ、俺に……?」

 思わず台詞をなぞっているが、私は胸が熱くなるほど嬉しかった。部屋で一人ならジャンプしてただろう。

 原作で失意のまま町を出るユウイに、ベダンが古い愛刀を渡す切なくも最高のシーン!

 それの、これ!

ベダン「死ぬなよユウイ。死ぬなら先にそれ返しに来い、いいな」と奇跡的に真剣な表情。

ユウイ「約束はできない。誰とも……」即座にダウナーぶる私。このトーンの発声は収録に向けて完璧に仕上げてある。

ベダン「さっそく俺みてぇなこと言いやがる。そいつは昔長く使ったもんだから、俺がうつったとしても不思議じゃねえが……とにかく、自棄と無理だけはせずにな」

 この瞬間、ユウイの記憶が呼び起こされ、稽古や食事、助けられたこと等ベダンとの数々のシーンが脳裏をよぎっていく。白い霞がかったフィルターがかけられて、絶妙に郷愁と涙を誘う。

ベダン「おい、お前……」

ユウイ「あれ……? どうして俺…………泣いて……?」

「えっ、なんで泣いてんの?」ベダンは素っ頓狂な声を上げた。「うっそー!」

「隊長……刃に変な毒塗ってないですよね? 揮発性の」メルタもすごい事を言う。

「バカか普通の油だあ!」ベダンが愉快そうに返す。

「おーい!」御者が窓から肘と頭を出して叫ぶ。「ちと早いがもう行くぞ。馬がてめぇから逃げたがってしょうがねえ!」

「はっはぁ!」ベダンの豪快な笑い。「そいつら別れのキスしてやるぜ。サービスだ!」

 ベダンは私たちに向き直って、ひとつ頷くと、しみじみと笑顔で言った。

「それじゃあ元気でな。……そうか、お前らもキス要るか?」

「要らないよバカっ!」

 私はベダンを突き飛ばし、メルタを連れて貨車に飛び乗り幌を閉めた。

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