決意を声に

 画面White 轟音の残響の中、枝をへし折って地面に落ちる効果音。

 きぃぃぃーん……と薄く遠退く耳鳴りに代わって、少女の逼迫した声がオーバーラップしてくる。

メルタ「--ウイ! ユウイ! 返事して! ユウイッ!」

 胸部の肌に冷たい風と、次いであたたかい、手の感触……。

メルタ「ユウイ! 生きてる! ならっ返事してよ……お願いだから……!」

ユウイ「んう……ん……」

 返事のつもりが呻き声にしかならないユウイ。メルタ驚き、伏せていた顔を振り上げる。涙が散って光る。

メルタ「っ……ユウイ!」

 ユウイの視界。まぶたが開閉しながら徐々にメルタの顔にフォーカスが合う。近い。

 メルタのデザインは、薄桃色の膨らんだボブヘアーで、顔立ちもほわっとして穏和な印象だ。

 つぶらな赤い瞳の光が、涙で濡れて揺らめいている。震える唇がようやく喜色を帯びて白い息を纏う。一気に顔が近づく。

メルタ「良かったあ!! もおおおっ心配泥棒め~~!」

 メルタ、ユウイの頭を両手で掴んで激しく揺する。治癒魔法の青い光が強まる。

ユウイ「あうあうあう……ちょっ、止めて、ください」

メルタ「あっごめん」

 上体を起こし、片膝を立てた姿勢で目を閉じ、息をつくユウイ。

 面接官にこうやって揺すられる悪夢を見た事があるな……と、原作では主人公がそう思った後、我に返ってあたりを見回す。

ユウイ「ここは……」

 と、

 空白。

 台詞が飛んだ。

 そんな重大事すら忘れ、

 ------ここは?

 我に返ってあたりを見回す……違う、それは原作小説の文だ。

 今は、アフレコ中!

 早く台本の、ユウイの台詞を!

 手には、何もない! 近くにも!

「台本……っ!」

 言ってすぐ、はっと短く息を吸った。

「すみません……」私は唇を噛む。

(NG……! こんな頭からいきなり、こんな失敗……!)

 それは私にとって、極めて珍しい体感だった。

 失敗による自責の感覚。全身の外側から胸の中へ何かが殺到するかのように、心がぎゅうっと冷えて重くなり、皮膚の上を冷たい波が這いまわり嫌な汗が分泌されていく。

(そっか……こういう感じか)

 貴重な感情の取材ができて、落胆と平行して少し喜んでしまう。

メルタ「『ここはどこ』だなんて……大丈夫? まさか雷のショックで記憶が……?!」

ユウイ「か、雷……?」

 咄嗟に台詞を返すも、激しく困惑する。

 なぜカットがかからない?

 ガラスの向こう、副調整室の音響監督を探すが、

 全周、町の夜景を除いては異界の夜が広がるばかり。

 現在地は、山々に囲まれた町を見下ろす眺望の良い丘に立つ大木の根元だ。ユウイとメルタは、この町で夜警の見習いとして生計を立てて暮らしている。

 かつては頻発した夜獣の襲撃から町を守っていた夜警だが、この時代では主に町内で人々が起こすあらゆる厄介事に対処する便利な民間警察といった存在になっている。

 メルタは膝立ちでちょこちょこ私に歩み寄って、両肩を掴んだ。

メルタ「自分の名前、言ってみて」

 真剣な表情だ。明らかに自分がさっきまで正解を連呼していた事を失念している。メルタはそういうところがある。

ユウイ「名前って」

メルタ「ほら! 言ってユウイ!」

ユウイ「いや、俺の名前は……」

 ここまで数秒、そしてこの一瞬、

 私は、自分がアフレコしている英雄異界大戦の作品世界を、実際に体験していること。

 そしてこのユウイの身体に転移したのは、主人公の就活生の意識ではなく、

 自分の意識なのだと、悟った。

 思考がかつてないほどの高圧高速で駆け巡る。

 いつ? なぜ? どうやって? 技術的な可能性は、一時昏睡ののちVRへ……いや、ゴーグルの類を着けている感覚はない。そもそも景色もメルタも高解像度すぎる。衣服の繊維、地面の草花。あまりに細緻にディテールがわかる、わかってしまう。現代日本としては明らかにオーバーテクノロジー。

 それともSF映画で見たような、肉体は昏睡状態のまま、意識だけが仮想空間で……その方が実状にはずっと近い。しかしそれも技術的に実現可能なのか、この水準の世界と身体感覚を……。

 月光の下の細く白い手。動かそうとすれば動き、触れた箇所からの反発、圧力の感覚……当たり前の事が、全くそのまま当たり前に感じられる。違和感がない違和感。

 混乱で思考が絡まる。それでも思考だけは止める訳にはいかない。

 この世界が作り物か否かは別として、もし、今後の展開が原作あるいはアニメと同様に推移するのなら、

 今も刻々と、数千万の命が潰える未来が近づいているのだ。

 そしてその馬鹿げた数の中には、目の前で心配そうに眉をひそめて言葉を待つ少女の命も含まれている。

 台本で既読なのは第二話まで。原作小説は九巻、次巻で完結というところまで発売されており、私も目を通し内容をほぼ全て記憶している。

 メルタは、第一話にして早々にユウイを庇って命を落としてしまうのだ。

(じゃあ行きながら考えよう)

 決意は、簡単だった。

 無音で速く、深く、身体の内圧を高めるように息を吸う。

 メルタをまっすぐに見据えた。

「私の名は有井声」

 反応を観察する。一秒。メルタはわずかに目を大きくし、その後息をつきながらどこか寂しげに微笑んだだけだった。

「ユウイの身体に降りた精霊の一種だと思って。今はユウイの意識はない。けどわたしはユウイの過去も未来も知っている。この町のことも、メルタのことも、全ての未来を知っている」

 台本無視! それが私の選択だった。

 ユウイは原作において数々の仲間の死、市街の崩壊、あらゆる生命の苦鳴を浴びて独り行く旅人だった。死にゆくキャラクターたちの最期の輝きがこの作品の色であり、またユウイの成長の糧となっていた。

 しかし、

「私は、この世界を最速最善の道で救う」

 決意を声にして放つ。今や目には見えない台本を手に、それを超えると決めて破いた。

 立ち上がる。風が沸き立ち外套が舞う。

「行こうメルタ」私は手を伸ばした。「日常パートをやる時間はない」


「……っ」メルタは戸惑いつつ、手を握る。「行くって、どこへ……?」

 私は駆け出しながら応じる。

「上流区。国災クラスの魔獣が来る--いや、もう来ているかも知れない」

「国災? そんなの……接近した時点で早鐘が鳴らされるはず」

「通常はね。今回のは、この町に直接転送されるし辺りの魔力も乱さないから発見が遅れる」

「それって……ただの魔獣なの? 気配を絶てるなんて、まるで人間の力……」

「そう。それを吸収する」私は頷く。「多数の人間を捕食して巨大になっていく」

「……普通じゃないことはわかったよ」メルタは引き締まった顔つきで頷いた。

 さらさらと甘やかな声質に、本当の、生きた意思が加わっている。

 先程までの演技がかった声の調子とはかすかに、けれど明確に異なっていた。

 どうやら懸念のひとつが解消された。もしかしたら、これから起こる出来事をいくら変えようと試みても、何らかの修正力が働いて台本通りの悲劇的な進行になってしまうのではないかと疑っていたのだ。

 台本外の言葉が聞けた。そこに連れ出せるという希望が見えた。

 当然まだ気を抜くことはできないが、ひとまず条件のひとつはクリア。

 運命を塗り替えて、世界を最高最上の形で救うための一歩目。

 そう……。

 もう踏み出している--台本にも原作にもない、未知の荒野へ飛び出しているのだ。

 走りながら抜刀と素振りを試していた手を寸時止め、強く握りこむ。

 定められた台本を、運命を変えたその反動。

 重いドアを押して通った時のように、身体に応力の余韻が残った。

「どうやって対処するの、ユウイ--じゃなくて」メルタが言い淀む。「アリイ……」

「ユウイでいいよ。ずっと」私は自身にも含めてそう伝えた。「嫌じゃなければ……」

 肩越しにメルタの首肯を確認して、当座の問題について語りだす。

「対処の仕方は、まず私の知っている未来を短く話してから。その未来での私は、メルタにこの世界について色々教えてもらいながら君の家へ行き、記憶の回復を試みて少し休養する。そして何人も犠牲になった段階でようやく魔獣が発見される。すでにこの町の戦力では対処できない程の力をつけている。斬りかかって返り討ちにあった私は、とどめを刺される瞬間、力を解き放ったメルタに転送されて助かる。そして残ったメルタは敵と相討ちになって町は壊滅する。中広場区の生存者はゼロ」

 ドラマ性は高いかも知れないが、自身が直面するとなると最低な第一話だ。八千余名もの犠牲が出て、主人公は急転送によって気を失っているだけ。しかし目覚めた後は、優しい少女の献身を思い出す度に己の無力さを噛み締めることとなる。更には、やがて身体に残るユウイの記憶が徐々によみがえっていき、メルタへの想いに胸焦がれて苦しむのだ。救いがないどころか追い討ちしかない。

「という地獄なのでそれは絶対回避する。対処方については、今話す間に少し試した感じだと、たぶん私一人で勝てる。とにかく早く見つけよう」

「え……あの、素直に言っていい?」

「うん」

「全部信じられない」

「だよね……」私は苦笑した。「まず私が善良な精霊かどうかから疑っておくべきだし」

「それは……邪悪な気配はしないけど、とにかく言うことがめちゃくちゃすぎる」

 いくらこの世界において精霊及び精霊憑依者への信頼が厚いといっても、単なる狂人や性悪の精霊も存在しているのだ。予言を信じて欲しければ、やはり実際に的中させねばならない。しかし的中するほどに信じて欲しい相手がいなくなってしまうリスクが高まるというジレンマ。

 すでに上流区に入っていた。地理的にも居住者もその名の通り上流のエリアだ。

 ここガントロウの町は温泉地であるため、冬季には首都の有力者や各地から富豪たちが保養に訪れる。上流区にはそうした人々の別荘や高級宿泊所が競って高い位置に建っていた。縄張り意識が強いのか、各建物の間の距離は遠く、しらみつぶしの捜索では苦労する。しかし幸い、目指すべき施設は探せば目立つ上に数も少ない。

「あの転送宮……ひとつ目で当たりかな」

 転送宮は人間を安定して転送するための施設で、巨大なガラスの球体が、平面にくっついたシャボン玉のような形で主として屋上に設置される。

 今ぼうっと青く発光しているのは、転送前後しばらくは内部空間の魔力が活性化するため。

 夜ではあるが、その光は埋もれていた。この時期この町は暖をとるため循環される蒸気が寒さによって一層白く町中に漂い、街灯や家々の窓に照らされているからだ。特に上流区の邸宅はどこも競って高いコストをかけて光を放っている。

 そんな財力自慢の彼らであっても、個人所有の転送宮となるとそう易々とは手が出せない。原作ではヘリポート程度の贅沢度という説明がなされている。

 二人は敷地外周の鉄柵に沿い、平静を装って歩く。

「下からじゃよく見えないけど」メルタがそわそわと周囲をうかがう。「ここバレない?」

「あの奥の木に登って、目標が居たらそのまま跳ぶ。メルタは木の影にいて」私は言い残して駆け出す。「私の着地後、警笛が聞こえたら住民の避難を」

「待って……!」

 とメルタは声を震わせ、祈るように一瞬目を伏せた。「あなたが未来を知っているのなら、ひとつだけ教えて」

「……なに?」

「わたしはまた……ユウイに会える? わたしの知っているユウイに……」

 哀切な声とともに、白い呼気が揺らぎ消えていった。

 嘘のない言葉を送る。それしか彼女にできることはない。

「それはわからない。今は、私はユウイの記憶の一部を知識として知っているに過ぎない。けど時間が経てばこの身体の持つ記憶が実感として甦ってくるはず。人格については、ずっと今の状態のまま変わらないと思う」

 少なくとも、世界を救うまでは。そう結んで、また走り出す。自ら放った言葉の先を早く確かめるために。

 彼女を真に救うのは、世界を救うよりも難しいのかもしれない。

「……戻ってくるまで守るよ、ユウイ」メルタは遠ざかる背中に聞こえぬよう、けれど届くようにとささやく。「絶対に……!」


 太い枝を目指して跳躍。すると勢い余って樹上へ飛び出しそうになった。

「わ……っ! ぶな……」

 慌てて枝を掴んで半回転のち倒立、足の甲を別の枝に引っかけて落ち着く。

「肝が冷えた」

 お腹に風が当たって表面温度も下がる。もし葉が繁っていたら大きな音がしただろう。その意味でも危なかった。

 どうやら精霊力の行使については、精度はともかく思った以上の威力を引き出せそうだ。

 この世界における精霊とは、各属性のエレメントに加え、人界の死者たちの霊魂を混合した広い存在を指す。序列で言えば、各属性の精霊が神のごとく君臨している下で、英雄たちの霊魂が多数存在している。

 武術でも学問でも、何かを専一に究めた人間は死後も思念を残し、高比重ゆえか昇天せずに人界を漂う。その思念に感応できる者が意識的に、あるいは無意識に影響を受けて各テーマを引き継ぎ、また死して精霊に加わる、という循環だ。

 例えば炎の魔法を究めていくと、ある段階で限られた者は精霊からコンタクトを受け、覚醒する。この際、指導霊と出会って徐々に目覚める場合や、直接に意識の一部に同居したり、極端な場合はユウイのように全人格が精霊に置き換わる例もある。そうして精霊の協力によって、個人の発揮しうる力の限界を遥かに超えた力を扱えるようになった者は精霊力者スピリアと呼ばれる。

 力の比較として、通常の魔道を最高に究めた者が巨大な火柱を一度起こして限界とするなら、自身の魔力のみならず精霊の力や叡知にアクセスできる精霊力者スピリアは平然と同じ火柱を無数に起こす。更に上位の、炎の精霊そのものを識る神話級の人物であれば小国を領土丸ごと灰にすることもできたという。

 原作のユウイは雷の精霊に射抜かれたことで全身の神経と精霊の世界がリンクし、あらゆる英雄の身体能力や操体術をダウンロードできるようになった。通常、精霊と人間の協力は、両者が霊的な相性によって結ばれ、互いが近くに居る場合にのみ発動できるものだ。ユウイの壊れ性能な点は、そういった縛りが無いこと。英雄のゆかりの地で意識を向ければ出会いイベントが発生し、何か無念を解消してやるなどクエストをこなせばその英雄の力が解放、その後はどの場所においても雷精のネットワークで使用可能になる、といったもの。

 英雄異界大戦のユウイは、そうして各地を旅して徐々に強くなるのだ。

 が、彼がその能力を自覚し、使いこなす入り口に立つまで半年ほどの修行期間を要した。

 当然、私にそんな時間の猶予はない。


 精装ロード 大草原の戦士アギロ!


 ーーここに走って来るまでの間、私はずっと、原作の知識を総動員して知りうる限りの英雄の霊魂一人一人の居場所に意識を向けて名を呼びコンタクトをとっていた。あるものには要請を、あるものには取引を、あるものには思考空間の中で力を示し、あるものには助言を、あるものには子孫の名を、あるものには人気小説の続きを、思考速度の許す限り全速全開でやりとりを交わし、すでに数名の協力を取り付けていた。

 疫病で滅んだ草原の一族の戦士アギロが望んでいたことは、ただ、この美しい草原が失われずに守られること。

『ここに悪い風が吹くのを止めるというのなら、力を貸そう。仔兎よ』と彼は言った。すると雷精が即座にその力を読み込み、私の身体に再現した。

「うわ……見える! 見えるぞ!」

 思わず台詞っぽくはしゃいでしまった。視力が驚異的に高まり、屋上の装飾にある家の紋章まで見えた。

 そして使者とともに転送宮に向かって歩く、ここに居るはずのない人物の顔も。

「ベダン隊長……!?」私は原作を思い出す。「そうか、中央に出頭前か!」

 原作で悲劇の起こるその時に、最高の戦力である彼は呼び出しを受けて不在だった。元々この町直属ではなく、太陽から逃れるように各都市を渡る特殊な夜警の隊長である。とはいえ、こうも異変の直前で町から離されるとは露骨に怪しい。

 まるでこの国の内部で手引きして今回の被害を拡大させようとしているかのようで、

「まあ実際そうなんだけど」

 とにかく、この転送宮ははずれだ。

 微細な赤い光点が流れた。

「ーーっ!」

 遠い。この眼でもギリギリだったが、放物線を描いて下流側へと跳んでいく影が見えた。

 おそらく、人型の。


 精装ロード 樹海の疾風クート!


 幹をしならせ反動で跳ぶ。音も空気抵抗も殺す空中姿勢。

 樹木を利用した機動を極めた森の狩人クート。彼が助力の条件に突きつけたのは、ひとつの問いに答える事だった。

『完璧な答えだ……。一体それを、どこで知りえたのか……いや、問いはひとつと言った口だ。聞かぬ。さあ、我ら代々継ぎしこの力、使いこなして見せるがいい。仔鹿よ!』

 ……どうも部族系の英雄は、若輩者を仔動物扱いするのが好きらしい。

 屋上、ベダン隊長の背後に着地して一度身体を転がし駆け出しつつ警笛を吹く。

 人間に聞こえる音ではないが、近くの夜警の笛は共振して意思は伝わる。

 短音二回。最短にして最悪の急を告げる際の合図だ。

「なッ!」ベダンが即座に反応し、背後を振り返る。「……あぁっ!?」

 私は素っ頓狂な声を背に受けて、すでに高価そうな石材を踏み割って宙にいた。さすがに高級邸宅の屋根材で踏み切るのは不馴れらしい。しかし木を選んで飛びつき、しならせ、また次の木へと跳び続ける無駄のないリズムは、夜気を切り裂く感触と合間って爽快だった。

 しかし中流域へ入るに従い建物が密集していき、樹木は少なくなる。そろそろ屋根の上を走ろうとした時、  

「ーーいた!」

 屋上から飛び降りる影。屋根材が散って石畳に落ちて割れる派手な音。 

 人型魔獣は完全な隠密行動はしないらしい。だが人々を叫ぶ間も与えず瞬時に絶命させる力は十分にある。存在が露見するまで数軒の被害は免れない。しかしそれは、

 “私”がいなかった世界での話だ。

婦人「(家の中から)坊っちゃま!? またイタズラなさって……」

 住居の前。婦人が出てきてステップを降り、落ちた破片を見つけて屋根を降り仰ぐ。

 蒸気に浮かぶ赤い眼光。魔獣の荒い息づかい。

 婦人の後ろ姿へ、徐々に加速していくズーム。

婦人「ーーひっ!」

 硬質な衝撃音。

 蒸気を裂き晴らして、爪を受け止めた剣の下でユウイが叫ぶ。

「家の中へ入れ!」

 もう片腕の爪が、内蔵を狙って薙がれる前に全力で蹴り飛ばす。

「早く!」

「はっ……」婦人は痙攣したように頷き、ドアを閉める直前に、「頑張ってぇ!」

 台本にない本物の、ほとんど悲鳴の声援を受けて、死の脅威と向き合う。

 作品ではフレーム内に写されない、初めて見る吸収前の形態。

 顔はどの獣とも断じ難い。長い耳も鼻もないが、姿は狼男に近いか。

 黒く、全身を覆う体毛は離れて見ると鱗のように模様が浮かぶ。前傾して両腕を垂らし、呻くように息を吐いた。

 さあ、ここからだ。

 ーー彼女の最初の台詞で、犠牲が出る悲劇の予兆シーンに入ったと知れたのは大きかった。

 おかげで夜獣の出現位置、タイミングがわかって俄然有利となったのだ。

 しかし悲しいかな間に合うのが精一杯で、そのため先手を打ち込むどころか、死のリスクを負う間合いに飛び込み受ける形となってしまった。

 もし相手が想定以上の怪力だったら、もう終わっていた。

 いや、相手の力は想定以上だった。人間を吸収する前であればまだ比較的弱いだろう、などと甘く見ていた自分を悔いる。

 その悔しさも、今も命があるからこそ味わえているのだが。

 本当に、こちら側の強化が反則級で助かった……。

 

 精装ロード 剣聖リグステリア


 それは神の名でもあり、現世最強の剣士が死後に呼ばれる称号でもある。遥か太古の神代より続くとされる剣闘術の道の開祖にして、全ての剣士が仰ぐ頂点。

 雷精が脳に映した剣聖は、リグステリア流、二百代ぶりの女性当主エミス・リグステリアの若き全盛期の頃の流麗な姿だった。

 天にも届く塔の頂上、そこに石をひとつ積み加え、神のもとへと至った超人。

 謁見の瞬間、私は感じたことのない高揚に震えた。

『目を見せろ』

 魂の奥底までも見通し、かき混ぜられるような眼だった。

 時間経過の感覚が溶ける。

『剣とは、何だ。答えろ』

 震撼ーー原作には無い問いかけ!

『迷うのか? 急いでいるのだろう』

 それは冷たく煽るような言葉だったが、むしろ励ます熱を感じた。

 そう……そもそもこの剣聖の力を原作のユウイは九巻まで度々借り受けようとして未だ部分的にしか使えていないのだ。今ここで、彼女に助力を願う事がすでに大それた挑戦。

 私は一歩一歩、世界を変え続けるんだ。どんな未知にぶつかろうと揺らぐな!

「わかりません」

『ほう』エミスは愉快そうに高く言い、しかし表情は不変不動。『続けろ』

「さっき初めて持って、数回振りました。今の筋力に合っている物だと思います。それが私の現状すべての体験と感想です」

『君は身体ができていない。もっと若い頃の私を写すといい』

 な? 唐突に、承諾を得られた……のか?

「……あ、ありがとうございます!」

『頼ると死ぬぞ』エミスは射抜くように言った。『君自身がすべてだ。しかし使える物はすべて使え。すべてに頼れ。相反するが、正しく両立させろ』

「それは……剣よりもわかりません」

『では一言、声援を送る』

 剣聖は、神々しく光に帰しながら、鋭く微笑んだ。『死んだら死ぬ程しごいてやる』

 訳もわからないままに、身体は剣を扱う神経回路が完璧に構築されていた。

 なぜ力を借りる事ができたのか、まったく推理のしようもない。おそらく気に入られたとか、間接的にでも現世で剣が振りたくなったとかの、存外気まぐれな理由かもしれない。

 そうして再び剣を振ってみたのが移動中の事。

 剣が、驚くべき速度で鳴った。

「剣……好きかも」この感情は重篤な副作用と思われる。


 刃先はたった一度受けただけで、がたがたに損耗していた。

 身体にも、ここまで過剰な機動を強いた反動が、着実に重く染み広がっていく。

 爪を確実にかわしつつ振り払うのでは、剣に体重が乗らず断線は浅かった。それも見る間に塞がって消える。

「まずいな……。まさかこんなジリ貧負けムードとは」

 と努めて軽く言って、我ながら空々しさに悲しくなる。死。その恐怖の引力が接近するほどに全身と思考を呪縛していく。

 恐るべきは異形の人型魔獣の凶々しい力。輪郭に沿って大気が揺らめいているのは、体温によるものだけではない。

 来る。

 倒れながら重心移動して回避、旋転、二撃目の振り上げに被せるように斬り下ろす。

 初めて力が乗った。

「っくーー!」

 血の滴を宙に残し、後ろへ跳ぶ。

 夜獣の前腕から、白刃が抜け落ちて鳴る。

 骨が断てずに、剣は半分の長さになっていた。

 爪が掠めた肩から流れる血が、袖を濡らしていく。その不快に張り付く面が広がる速度で、傷の深さを見る事なく知る。

「やっぱり……異常だ。強すぎる」

 原作での、幾名か人を吸収した後の状態よりも明らかに強い。最初の戦闘イベントかぁ、などとヘラヘラ挑んだ原作のユウイですら、今の私よりいい勝負をしていたのだ。

 フィクションと現実の違い?

 いや、それより相手の形態が違うんだ。原作ではもっと、人を取り込んだ分なのか大型化して、描写も獣らしい姿ーーゴリラと猪を合わせたよう、とされていた。

 しかし今目の前にいる夜獣は、発達した両腕以外には人型から逸脱する所のないシルエットだ。

 もしや、別個体? 今は他には、エミスの知覚力でもそんな気配は感じないが未だ現れていない、という可能性も。

 いや。もっと単純に、こいつは……、

「人を食うほど弱くなる……?」

 まさか。逆なら、人を取り込み人型になって強くなるならわかる。こいつはその反対に獣の姿に近づいていき、その上弱体化するなんて……道理がわからない。

 塀を背にして数撃かわす。跳び登り、また降りて砕かれた穴を通って裏へ。

 跳躍。元の側へ戻る。移動していって危険を広げるのも、また再び家の中にいるようにと声を張り上げる力も惜しい。

 とにかく探せ。ここで仕留める術を。

 ーー風。

「おっらぁあああ!」

 夜獣の、振り下ろさんと掲げた腕の先が飛ぶ。

 剣を振り抜き、完璧なフォームでありながらも顔を歪めた隻眼の大男。

「ベダン隊長……!」

「関節通してギリかよ」ベダンは即座に距離をとって叫ぶ。「ユウイ!」

「わっ」アンプルが投げ渡された。回復薬だ、と認識する頃には手が肩へ動いて振りかけられた。

「どんな精霊が憑いたか知らんが」ベダンはここで初めて一瞬、顔をこちらへ向けた。「頼るぞ、ユウイ!」

 歯を剥く笑顔。子供はもれなく泣くが、身近な者には頼もしい事この上ない。

「頼られた……!」

 反射的に頷く。

 既知のキャラの見せ場を思いがけず生で目撃し、しかも頼られ、ただ興奮しただけのような返事になったが。

「オレは今ので打ち止めだ……」

「えっ」

「奴を見て勝てねぇことはわかったからな。スカしても反撃くらわねえ位置に全力を叩き込んだ」

「え、え?」

「オレの剣技は傭兵剣術。成果の分だけ報酬として力を持ってかれんだよ」

「それで、え、まさか……」

「すっからかんさ……もう帰りてぇ」

「はぁ?! 何言ってんのオジサン!」

「うるせえな」ベダンは小さい声で怒る。「あんな化けモン、普通終わりだろ。手ぇ斬り落とせる人間もこの世にゃそうは居ねえぞ」

 だとしても……そんな急に縮こまった中年の哀愁を見せないでほしい。

「人間の出る幕じゃねえ……」ベダンは言う。「それこそ完全に大精霊のレベルだ。見ろ」

 私も目は離していない。魔獣は落ちた左手を切断面に戻し、数秒で治癒させてしまった。

「そういやお前も治ったか」ベダンの急に老けた笑い声。「やっぱ上等なモンは腐らねえんだな」

「いつ買ったやつですか?!」

「オレが生まれた後だ。来るぞ!」

 ベダンは前に出て、向かうと見せてステップ。紙一重で攻撃をかわした。

「ユウイ! オレが死ぬ前になんとかしろ!」

 その後も相手を誘う距離を保ち、先ほど私がしたヒット&アウェイの態勢となった。やはり腐っても隊長。地力がある。

「格好良いのか悪いのかはっきりしてよ……」

 他の夜警は来ても餌食にされるだけと判断したか、ベダンはすでに警笛で近づかないよう合図していた。おかげで犠牲者は最小数で済む。もちろん私がここで勝てなくては被害は何千倍にもなるが。

 しかもただ倒すだけでは終わらない。その後があるのだ。

 ここで苦戦するレベルの強さでは全然足りない。

 もっと、どこまでもどこまでも行ける力が、

 力が要る……!

『剣とは力そのものだ。アリイ・コエ』

 身体が熱を帯びていく。エミスのささやきが蜃気楼のように揺れて尾を引く。

『そうだ……。すべてを使え』

「力……」

『”その先”を見せろ。私に……世界に!』

 折れた剣の先がある。歩く。

 電光。剣先が誘引されて飛び、繋がる。元の長さになり、ほのかに光を放つ刀身。

 歩く。

「ユウイ……!?」

 後ろから肩を掴まれたベダンの横顔に、

「すこし、借ります」


 重精装オーバーロード リグステリア+ベダン!


 跳ぶ。前へ。

 電光すら置き去りに。

「おらぁああああっ!!!」

 脳天めがけて叩き下ろす!

 力が足りないのなら、足りない分は後払いだ!

 一閃ーー剣先がめり込み石畳が爆散。

 通り過ぎた肉と背骨は帯電して妖しく光り、黒い瘴気を遅れて放った。

 倒れる音を両側から聞き、立ち上がる。

「すげえっ……バカかよお前!」ベダンがゆっくり首を振り、笑う。「めちゃくちゃしやがる!」

「ユウイ!」

 家の角から、息を切らしてメルタが駆け寄ってきた。「もうっ! 速いよ!」

 メルタが両膝に手をついて息を整えているのを見て、私も片膝をつく。

「おい、大丈夫か」ベダンが背中に手を置く。

「ちょっと、もう怪我しないでよ!」メルタも触れてきて治癒魔法をかけ始める。「わたしの魔法じゃ痛みを取るくらいで傷は塞げないんだよ!」

「知ってる……」私はすこし笑って見せる。「でも助かるよ。ありがとう」

「……もう」メルタは顔を伏せた。

「しっかしこの瘴気はただ事じゃねぇぞ。そりゃ強えぇ訳だ」ベダンが油断なく魔獣の身体の半分に剣の鞘を引っかけて移動させている。「……けど中身を見ると人間みてえだな」

 内蔵は確かにそんなような感じであったが、正視はしていない。平和であるらしいこの時代において、やはりベダンは並の人生は送っていないようだ。よくぞその移動役をやってくれた……。

「まあ仮にコイツにまだ再生する気合いがあるとしても、こんだけ離しときゃくっつくまい」

 ご丁寧に砕けた塀の岩を重石に乗せて、手をはたくベダン。今日一番かっこよく見える。

『まだまだ……』

「え?」

「あ……」メルタが指をさす。「あれは……?」

 瘴気が吹き集まる渦の中心、

「ちっ……」ベダンの舌打ち。「そっちか……」

 蠢く不定形の闇が、理に逆らい上方へ滴るように伸びて立った。

 世界を切り抜いたかのように完全な線。人間のシルエットで。

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