声優異界大戦

伊奈利

アバン


 都内某所のレコーディングスタジオ。

 期待の大作アニメ『英雄異界大戦』の初回アフレコを迎えるこの日は、黒い嵐の迫る荒天で、朝の十時と思えぬ光量だった。

 相対的に、スタジオ内の廊下は明るい。

「緊張するよ俺だって」寝不足顔の監督が、後に続くスタッフに語る。「すげぇ人たち集まってんだから」

「ほんとオールスターキャスト結集って感じすよね……! いやもう今世紀最強でしょう」

 息巻く若いスタッフを横目に、監督は血色の失せた唇を歪ませる。

「それもだけどね、色んな偉い大人たちも勢揃いしてるそうだから。今日」

「げっ。どんなですか……?」

 原作出版社、ネット配信会社、地上波放送局、レコード会社、各種媒体の記者……監督が列挙するにつれて、スタッフの足取りがカクついていく。

「ぼく、帰っていいすか?」

「いいよ。退職金出せないけど」

 二人は疲れた笑みを交わして、レコーディングブースを望む副調整室へ向かう。

 その副調整室では、音響監督が準備万端ながらも迫る本番を思い身体を強張らせていた。

「(帰りたい……)」

 今日これから始まる第一話・二話及び各種告知用映像のアフレコで、この作品に初めて声が--魂が吹き込まれる。

 その今日の出来不出来によって、2クール23話に及ぶ全体の完成度が、ある程度予測できてしまうのだ。

 成功を義務づけられた大作である。もしも万が一の事があれば……。

「いや、今日の演者の皆様は神。神しかいない……大丈夫だ。大丈夫」

 神と呼ぶのが比喩ではなくなりそうなメンバーが、ガラス越しのブースに集結している。あまりにも伝説的な光景だった。

 名だたるベテラン、歌えばドームを埋める人気声優が複数、普段は主役級の声優たちが脇を固める奇跡の布陣。見る間に緊張と興奮で胸が張り裂けそうな集合絵の中で、ふと視線が止まる。

 異界に転移後の主要キャラを演じる、新人女性声優たちだ。

「(すごいな……三人とも落ち着いている)」

 収録の経験自体が少ないであろうその上に、周りを囲むのは未曾有の豪華キャスト。加えてブースから見えるこちら側には偉い大人たちがぎっしりである。まともな人間なら緊張する。

 しかし彼女たちは震える事もなく自然な動作で台本をめくり、大先輩から声をかけられればにこやかに応じているのみ。

 正直、緊張で崩れないかという不安材料であった新人たちが、オーディションの時より格段に頼もしく見えるくらいであった。役を得て、自覚を強めたのだろう。

 ただ三人の真ん中で静かに座る彼女は、別格。当初より突き抜けた存在だった。

 今もただ、超越的にそこにいた。

「何者だ……有井こえ……」

 初アニメ出演で初主演。この作品の主役を射止めた正真正銘シンデレラガール……いや、むしろすでに女王の貫禄さえあった。触れてはならぬ神聖な、堅く閉じた精妙な気配を纏っているようで、草原の暖かな木漏れ日のように密やかに優しく開かれている印象でもある……極めて不思議な、矛盾の内包さえも許しうる稀有な存在であろうことは確かだった。

「(本当に……いわゆる人生何周目ですかっていう人だな……)」

 オーディション時の演技は当然の如く完璧であった。

 彼女の一声。

 完璧すぎて一瞬間は無印象だった。が、ちょうど剣豪に斬られて遅れて身体がずれる時のように、衝撃が走った。

 そして美しい残響が、生涯にわたる祝福のごとく香って、彼の人生をこの一声以前・以後に分けた。

 同じ台詞のどんな変奏でも対応する。僅かな指示でニュアンスを掴み、要求以上の答えが得られる高揚をいまだ鮮明に覚えている。

 この域に至ると、もはや技術の上手い下手といった地平を忘れさせる。ただただ恐ろしいほどに本物の、新たな世界に意識を飛ばされる。

 上手いか、下手か。そんな些事が届かぬ天上。

 真なる人間の声とは、言葉とは、想いとは、生命とは。

 宇宙の謎を突きつけられたような、途方もない空間に一点、呆然と漂いながら目の当たりにする。人が声を発すること、その神秘を。

 以来、音響監督は録音した有井声の演技と事務所サイトのサンプルボイスを繰り返し聴き、その度に人智を越えた宙に意識を泳がせて過ごした。

 そうして気づけば、今日を迎えてしまっていた。

 と--

 有井こえが、こちらを見ている。

 監督が入室してきていた。

「監督遅いっすよ……!」

「悪い、そこ廊下がすっごい(偉い大人で)渋滞してた」

 スタッフたちの話す声に、いよいよという緊張が増す。伝染するからやめてほしい。

「雷大丈夫ですか。ここ古いから」

「大丈夫でしょ、まだ鳴ってないし」

「じゃあ原作再現ならず、ですね」

「ふぅ……」と一息後、立ち上がった音響監督が決意の眼差しで、

「では監督……向こうに挨拶、参りましょう」

 いよいよ演者たちへの挨拶とディレクションののち、決戦が始まる。

 有井こえが、静かに台本を閉じた。


 英雄異界大戦 #1 『喪失と旅立ち』


主人公「貴殿のご活躍をお祈り申し上げます……っと。だから祈りは要らん! 内定をくれっ……うぅ!」

 夏岡義光は転移前の主人公役。堂に入ったむせび泣きが、無音のブース内で唯一響く。

 このあとすぐ主人公は落雷によって絶命し、夏岡の出番は終わる。あまりにも豪華なロケットの一段目だ。そして異世界、中性の少年ユウイの肉体で目覚めて以降、主人公のCVは有井声となる。

主人公「うっわ、すんげぇ雨……。これなら泣いてもバレないな……って、さすがにもう枯れたわ。へへぇ」

 彼女の出番が近づく。

 この作品は一口に言えば、主人公が異世界の二極間大戦争において大活躍する話である。しかし最強無双の連戦連勝といった爽快な話ではない。むしろ序盤はその逆で、たとえば初戦ではあっさり死にかけ町を滅ぼされてしまう。そんな失意の底から師を得て努力し、這い上がっていくという、ある種オールドタイプのストーリー--それが英雄異界大戦である。


 一歩。

 有井声がマイクに向かう。

(さあ、決戦だ……)

 リップノイズを起こさぬよう、ほんの微かに唇を開き、無音で息を整える。

 モニター。いよいよ雷雲から巨大な光の一撃が、

 白く--


 光が世界を覆い尽くす。

 魂を異界に導くほどに強烈極まる爆雷が、

 都内某所のレコーディングスタジオに、落ちた。






 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る