第3話 社

 朝。

 夜の冷めた空気が暖められる中、雲龍社は制服の学ランに着替えて食卓に着いた。

 畳を敷いた広い和室には縦長の座卓が置かれている。その上に乗った母親お手製の朝食に社は手を合わせた。

「いただきます」

 白米と味噌汁と焼き魚とほうれん草のおひたしが並ぶ。味噌と魚の香りが目を覚まさせた。

「社さん。寝癖がついてるわ」

 着物にエプロン姿の母、清子が社の頭をそっと撫でた。

 長く艶やかな黒髪におっとりした表情を浮かべる清子は実年齢より随分若く見える。旅館の女将みたいだとよく言われていた。

「気付かなかったな。あとで直しておくよ」

 社は清子に触れられた場所を触ってそう言った。

 しばらくすると妹の琴音が降りてきた。

「兄さん、おはよう」と挨拶すると目を擦りながら洗面所へと向う。

「あらあら。眠れなかったの?」

 清子が心配そうに尋ねる。

「うん。本読んでたら寝るのが遅くなっちゃった」

 小学六年生の琴音は母親に髪を櫛でとかしてもらいながらそう答える。

 二人の声が社が朝食を食べている部屋まで聞こえてきた。

 二人が入って行った洗面台の前に伸びる廊下を白猫のコトラがのんびりと歩いている。

 雲龍家にとってはいつもの朝だった。

 社はテーブルの上座を横目で見た。そこに座るはずの人物はもうしばらく顔を見ていない。

 社の父親、司はたまに連絡をよこすくらいで、あとはどこにいるのかさえも分からない。

 子供の頃からそうだったので特に寂しさを感じない社だが、上座の近くにそれとは別の異変を感じていた。

 見慣れないものが置いてある。

 それは紫の風呂敷に包まれている丸みのある少し長い物だ。

「これなに?」

 社は母親に聞いた。

 すると清子は洗面所から顔を出し、社の質問に答えた。

「ああそれ? 安藤さんちのお琴よ。弾いていて急に音が変になったそうなの。修理に出してもどこも悪くないからおかしいってことで安藤さんが穂村さんの家にお願いしてたのだけど、こういうのは社さんの領分だと言われて預かってきたのよ」

「・・・・・・いや、俺が言ってるのは」

 そこまで言って社は閉口した。

 箸を置いて、上座へと移動する。風呂敷を開くと立派な琴があった。

「琴がうちに来て、琴音が寝坊か・・・・・・」

 社は面白そうに笑った。

 そしてそれに向って尋ねる。

「お前のせいか?」

「ちゃいますよ。たたの偶然やって」

 それは低い男の声を出し、関西弁で否定した。

 琴の上であぐらをかき、髭を触っている。

 それは小さな琴だった。

 琴が縦になり、小さな木の手足がちょこんと下に二つ、左右に一つずつ生えている。半円を逆さまにした目が二つ付いたそれが風呂敷の下でもぞもぞと動いていたのだ。

 社は動き、あまつさえ喋るその小さな琴を見てもさして驚きもせず、面白そうに微笑んでいた。

 社にとってはこれもまたよくある日常だった。

「琴古主か」

「そうです。どうも、おはようさん」

 琴古主とは、琴の憑物神だった。

 憑物神とは物や家系などに取り憑く物の怪のことだ。

 琴古主は江戸時代の演奏家、八橋検校が用いた筑紫琴が廃れると現われると言われている。

 琴古主は嘆息した。

「ちょっと聞いてくれます? まったく酷い話もあったもんやで。うちの人ときたらこの前家にお客を招いてわてを弾いて見せたんや。そしたら練習不足もあって見事に失敗してもうて。まあ、それはええんです。でもね? それをわてのせいにされたらかなわんわ。自分、分かる?」

「だから拗ねて音を狂わしたのか」

「そうですねん。こっちにも意地があるんでね。変な音がするって言われたからその通りにしたまでや。それをお祓いってあんた。こっちはまがりなりにも神でっせ?」

 琴古主は腕を組んでぷいっととそっぽを向いた。

 社は苦笑した。

 それを見て琴古主は言った。

「あんさん、わてが見えるんですな。いやあ、珍しい。ええ目をおもちですわ」

「そりゃあどうも」

「前に持って行かれた坊主のあんちゃんも見えてたし、この町はおもろい人がぎょうさんおりそうでんな」

 琴古主は雲龍の家を見渡した。

 和風の部屋には清い空気が流れており、それの中心に社がいた。

「それで、どうしたらお前は機嫌をなおしてくれるんだ? 正直こんな重いものをお祓いするのは大変なんだ。楽にすむならそっちがいいな」

 社は楽しそうに笑いかけ、それに琴古主は頷いて答えた。

「簡単ですわ。わてはどこも壊れてない。悪いのはあの人の腕やと証明してほしいねん」

「なるほど。それができたら正しい音を出すのか?」

「もちろんです。出雲に誓って出しましょう」

「わかった」

 社が頷いた時、その後ろで母の清子が不思議そうな顔で立っていた。

「誰とお話していたの? お電話?」

 清子が社の手元を覗き込む。

 しかしそこには預かった琴があるだけで琴古主は見えていない。

「いや、独り言だよ。それよりもこの琴、なんでもないみたいだ」

 そう言ってから社は琴を弾き始めた。

 雅で美しい音色が澄んだ朝に調和する。

 不思議な、聞く人の心に染み渡るような音色だった。

 それは大きな日本屋敷であるこの家にとても似合っている。音の一つ一つが楽しそうに弾んでいるみたいだと清子には思えた。

 社は琴を弾き終わると母親に言った。

「ほら、どこも悪くない。きっと安藤さんの調子が悪かったんじゃないかな?」

「そうねえ。そうかもしれないわ。だって、こんなに良い音が出るんですからねえ」

 清子はうっとりと余韻に浸りながら頷いた。それを見て社は嬉しそうに琴から手を離した。

 すると触れてもいないのにぽろろんと綺麗な音がした。

「いやはや、おみごと!」

「どうも」

 感嘆する琴古主に社は厭みなく答えた。

 そして琴を風呂敷に包み直し、朝食に戻った。

 

 通学路を歩きながら社がそのことを話すと、詩織は驚いていた。

「つまり、琴に宿った神が音を変えたんですか?」

「うん。随分古かったし関西弁だった。きっと色々な人の手を渡ってうちに来たんだろう。それだけ良い琴だってわけだ。けど琴に弾き手は選べないからな。多分ここ数年、あまり上手くない人にあたってばかりいたんだろう。自分はもっと良い音が出せるって言いたかったんだよ」

 そう話す社に道にあるポストや電柱、置物の狸に憑いた小さな神達が「おはようございます」とお辞儀した。

 だがそれに気づく者は社以外は誰もいない。

 社の薄い鼠色の目だけが彼らを捕えていた。

 話を聞き詩織は不安そうに肩に掛けていた細長い鞄を見た。中には弓道の道具が入っている。

「私も気をつけないといけませんね。精進しないと。道具に嫌われてしまったら困ります」

「滅多にあることじゃないさ。神が宿るってことは逆に言えば愛していた証拠だ。そこまでいけば喧嘩も些細なことでしかない。あいつだって本当に恨んでいたわけじゃないだろう。もしそうなら音が変わったどころじゃ済まない。そしてそれはあいつもそうだ。祓わなければならなくなるのは誰の本望でもない。人を呪わば穴二つ。それは楽器だって同じだよ」

 いつもに増して機嫌の良い社を見て、詩織も嬉しそうに目を細めた。

「もう少し早く迎えに行けばよかったですね。私もあなたの演奏を聞きたかった」

「縁があればそのうちまた聞けるさ」

 社は楽しそうに笑い、横断歩道の前で立ち止まった。

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