第25話 風呂

 一通り平仮名もカタカナも書き終たところで時間はかなり過ぎていた。風呂に入るために、今日はもうやめてまた明日に持ち越すことにする。

 今の時間なら誰も入っていないだろうから空いているだろう。下着とパジャマを持って風呂場へ行くと、予想通り誰もいない。


 いつもなら痣だらけの身体だから、学校がある日に傷が一つもないのは本当に珍しい。


 身体を洗って浴槽に浸かるとお湯の温かさが全身に滲む。長湯はしないつもりだけれど、もう少しこのままでもいいと思ってしまう。

 まるで暖かい布団に包まれているようで、目を閉じると、頭で考えるのがどうでも良くなるような、ふわふわした感じになる。

 この密閉された空間も心地良い温度も、誰も入ってこない安心感も全てが良い。

 風呂で寝てはいけないと言うけれど、ほんの少し寝ても大丈夫だ。頭が沈まなければ溺れないし。


「すこしだけ……」


「だめだ起きろ死ぬぞ」


「……はっ!?」


 聞いてはいけない声がした気がする。いや気のせいか?

 入り口を見ても誰もいないし、念のため脱衣所も見たけれど、何の気配もなかった。気のせいだと思い、また浴槽に入ろうとすると、上から誰かに見られている、ような。まさか。


 そういえば聞いたことがある。視線を感じて左右確認してもいなければ、上を見てみると何かがそこにいると。

 もし迷信ではなく、本当なら天井に張り付いている可能性が大きい。しかしそれは最低だ。勝手に風呂に入りこんできた挙句に、裸を見ているなんて。


「う、上に……」


 意を決して恐る恐る天井を見上げた。目を細め、ほんの少しずつ瞼を開けていくと、そこにはただの白い天井だけがあった。

 所詮その程度。視線は気のせいだったのだ。それもこれも茨木が来て、普通に接してきていたから、印象に残っていただけ。大したことはない。


「さすがに覗きなんてする奴じゃないし」


 もう一度ゆっくり浸かって身体を温かくするため、浴槽に入ってため息をついた。少しだけ入ったらすぐに上がって寝ようと決め込んだ。閉じていた目を開けた。


 湯気越しに赤い瞳とパチリと合った。


「うおああぁぁぁぁ!」


「っだぁ!」


 女らしさのかけらもない叫び声をあげ、温まっていた左腕で振り払うために振り回すと、顔に当たってしまったらしく頭がのけぞった。

 それでも尻餅をついたり、倒れたりしないのはさすがは鬼と言うべきなんだろうか。




「ご、ごめん。つい……」


「いや、こちらこそすまん……」


 風呂から上がって今は反省会のような、重い空気が漂う部屋にいる。そして私はなぜか謝っている。

 とりあえず、なぜ茨木が風呂場にいたということを聞かなければこの雰囲気を脱出することはできない。


「なんでいたの?」


「その、心配で」


「だからってあそこにいる必要なくない? というか、声とか、かければよかったじゃない?」


「確かに。だが、こう……見守りたかったというか」


「ん?」


「いや何でもない」


 予想の斜め上を行く存在だとは思っていたけれど、ここまでだったとは思いもしなかった。これってストーカーとかも同じ審理してるんだろうか。


「もうこういうことしないでね」


「しかしまた風呂場で寝てしまっては今度こそは死ぬぞ」


「そこは私も気をつけるよ」


 残念そうにしているけれど、これ以上はプライベートの侵害。確かに危ないことをした。反省するし、きっともうしない。しかし茨木は分からない。


 次やったら少ない信頼も全てなかったことにする。念を押してもうやらないと誓わせておいた。

 ベッドに入って今日は眠ることにする。茨木は、ベッドを背に床に座って欠伸をした。その髪の毛引っ張ってやろうかと考えついたけれど、やめておく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る