第22話 苦痛

 夕方に近付きつつある時刻になり、次の機会のために読んでいた本にリボンを挟んで、本棚に戻した。隣の椅子に座って、前読んでいた絵本と似たようなものを読む茨木にそっと声掛けをする。


「そろそろ部屋に戻るけど、まだ読んでる?」


「もうそんな時間か…俺も戻るぞ」


 絵本を閉じて、他の絵本も元あった場所に戻そうとするのを見てから書斎を後にした。

 その後に茨木が片付けるのを待てばよかったと後悔する。


「……」


「ちっ……何見てんだよ」


 階段を上がっている最中だった兄と出くわし、眉間に皺を寄せて一気に不機嫌になる。不愉快そうにしながら睨んで、そのまま部屋に向かって歩いて行った。やっぱり兄はどうしようと苦手だ。私も部屋に戻ろうと背を向けると、急に後ろに引っ張られ、バランスを崩す。倒れていく時に兄の目が見えた。


「いっ……!」


「俺がそのままにしておくと思ってんの?」


 私に対する嫌悪がその目に映っていて、悍ましい悪意に満ちている。

 今までの比じゃないくらいの圧力に目眩がする。迫る床から襟を掴んで引きずり上げ、あの人たちと同じように今にも殴り掛かりそうなくらい機嫌が悪そうだ。


「今日、お前なんかやらかしたんだって?」


「……っ」


「大人しくしろって俺言ったよな? それなのに罰も無かったらしいじゃないか」


 破れそうなくらい強く引いて、部屋とは真逆の方へ引っ張られる。


「そんなの可笑しいよなぁ? そうだ、俺が代わりにやってやるよ」


「えっ……っ!?」


 後ろ向きでは何も見えず、ただ見えたのは階段の手すり。床は段差があり、後ろには何も無い。


ーー私を階段から落とす気だ。


 足場が無く、さらにこれから起きるであろう事が分かっている状態では冷静になることはできず、こめかみから汗が伝う。

 兄はニヤニヤと悪人のように笑い、私が何か掴もうとすると首を軽く締める。


「これに懲りたらもう反抗なんかするなよ」


「待っ……!」


 襟を握っていた手はそっと手離され、支えが無くなくなった身体は背後へ倒れていく。兄は片目を細めて私の行く末を見下ろしていた。

 怖い。また痛くなる。


「雪花……っ!」


 目を閉じようとすると、私の名前を呼んで、手すりを足場にして勢いを付けて落ちてくる茨木が見える。そのどこまでも黒い反転目の真ん中にある赤い目が、私だけを見つめて両手を伸ばしている。


 一瞬のうちに目の前が暗くなった。強く抱き締められ、後ろは腕で守られた。

 何も無くて怖かったはずが、かさっきまでの怖さとは違って、温かさと安心感が冷たい身体を包み込んでいる。

 信じて瞼を閉じた。


 重いものが衝突して音を立て、ミシミシと壁は呻いている。


 どこも痛く無い。頭から足の爪先まで何一つ。

 白い髪が顔に触れていて少し擽ったいくらいで、体に異変も無く、目の前は白い髪と階段の上から見下ろす兄が見えた。


「なんだ、今の音」


「無事か?」


「……うん、どこも痛くない」


 茨木は少しだけ離れて私の顔色を確認すると、もう一度優しく抱き締めた。跳ねる髪に埋もれそうになったけれど、いやではなかった。

 少し前だったのなら嫌だと感じたけれど、今はこの距離感も心地よく、もう少しこのままでもいいとさえ思える。


日向ひなた……? すごい音したけど、どうかしたの?」


 か細い母の声が一階の方から聞こえてきた。さすがにあんな音が上からすれば気付く。

 エプロンをした母が階段を少しだけ上り、様子を見ている。覗いていると私と目が合い、目を見開いてぎょっとしていた。


「何して」


 兄が急いで降りてきた。きっと母に胡散臭い笑顔でも向けているんだろう。

 

「何でもないよ、何でも」


「だって、じゃあどうして」


 母には死角で見えない兄の片手が、血が出そうなほど強く握られている。

 そういえば兄は母のことはあまり好きではない。父とは違う他の男と寝て、私を産んだという事もあって、汚いと思っているはずだ。


「何でもないから、母さんは戻って」


「……わかった」


 一階に降りた母を見て、兄は私に振り向いて、不機嫌なのを隠しもしないで階段上っていく。


 座り込む私から移動していた茨木は、兄の背中を睨みつけて、そっと右手を翳した。私の目には見えないけれど、きっと何かしたんだろう。

 それを止めないのは私だって悔しかったからだ。


 理不尽を罰と言って、暴力を振るう。自分の自尊心を保つためにこんなことをして何が楽しい。


「……」


「雪花」


 照明の明かりを背に手を差し出す茨木は、少し哀しげだった。


「立てるから、大丈夫」


 いつもと変わらない心の重さにため息を一つついて、兄の性格の悪さと私の弱さが見えていて、どうしようと苦しさは私に付きまとうのだと悟ると、何もかもがどうでもよくなる。

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