第19話 静かな

 私に距離をとって、離れたところから見ていると、茨木はそちら側へゆっくりと歩いていく。

 側まで行くと、端にある椅子を掴んで荒々しく揺らした。壊れそうなくらいガタガタ音を立てて揺らしていると、焦って悲鳴と一緒に、転びそうになりながら走って廊下へ出て行った。


 今日はもうやらないということでいいんだろうか。

 初めて暴力無しで帰れそうだけれど、その分の不満や欲求は溜まっていくだろう。

 それを知らず茨木は追い払って私の前までやってきた。私と茨木以外誰もいない静かな教室の中で、茨木は口を開いて私に話しかける。


「怪我をしていないか? 大丈夫か? すまない、俺がもっと早く来ていれば」


 怪我はしていないし、悪口だってあまり言われてはいない。舐められてはいるだろうけど、さっきの顔を見て少しスッキリした。

 自責している茨木は今にも泣きそうで、悪く無いはずなのに少しだけ罪悪感が滲む。


「大丈夫、怪我してない」そう言うと安心した顔でそっと呟く。


「そうか、良かった。今度は間に合ったみたいだな」


 あの手から変化して、人の形の手で両頬を優しく撫で、悪意が無い微笑みを見せた。

 でも私にとって良い結果だったと喜ぶことができない。


 撫でる片方の手を掴んで茨木の目を見る。今までこんなことをしたことがないから、驚いているけれど、痛くない程度にぎゅっと力を入れた。


「あのね、私を守ってくれたことは嬉しいと思ってる。でも、今が無事なら良いってわけじゃないんだよ」


「明日も明後日もずっと、こんなことが続いたら必ずどこかで大きな仕返しがやってくるの」


「なら俺がどんなことでもそばにいて守ってやる」


 きっと茨木は何にでも守ると言って聞かないだろう。でも、でも違うんだ。

 どんなことでも守れるはずがない。


「目に見えるものなら守れるかもね。力が強いし何にも負けないかもしれない」


「じゃあ目に見えないものは? 知らないところで変な噂を立てられて、奇異な目に晒さられる苦しさからも守れるの?」


 あの兄なら私のためならどんな手を使ってでも仕返ししてくるだろう。広い情報網で誤解を生むような噂を広めて、どこにいたって周りを不愉快にさせることをばらまくに決まってる。

 やっと安心できたとしても、ふとした時に、事故に見せかけて消してくるかもしれない。


 そう言う性格なのを知っているから、極力目立ちたくなかったんだ。


「あんたは何も分かってないよ」


 きっと、ただ守ることだけだと括って、何も周りを見ていない。深く考えずに行動して、後悔ばかりの典型的なタイプの馬鹿だ。


「私に変に関与しないで」


 冷たく突き放す言葉に眉をひそめて俯いてしまった。少し言い過ぎたかもしれない。それでも、もし、私のわがままを許してくれるなら、理解して頷いてほしい。


 おもむろに茨木は、懐に手を入れて何かを探っている。中から取り出したのは二輪の青紫色の綺麗な花、アヤメだった。


「さっきは、すまなかった。許されるわけではないが、これを」


 静かに近付いて、茨木はそっと私に差し出した。

 さっきまでいなかったのはこれを取りに行っていたから、だろう。どこから見つけてみたのか知らないけれど、ここらでは見かけていないから少し遠くに行ったのかもしれない。


「えと、ありがと……嫌いじゃないよ、この花」


「それなら少し遠くに行った甲斐があった。良かった」


 折角の花を受け取らないわけもなく、茎が折れないように優しく受け取る。

 それに満足したようで、少しは機嫌が直った、気がする。

 間近ではみたことがないから、受け取ったアヤメをじっと見つめてしまう。


 このままみているのも良いけれど、ずっと持っていてはしおれてしまいそうだ。初めて貰った花をこのままにしておくのはもったいない。

 どうせ今日はこのまま帰れるはずだ、花瓶を買っていこう。


 どこかまだ不安そうな茨木の袖を、引っ張ってみる。小さく口を開ける茨木に、行こうと言う意味で気付くだろうか。


「今日はもうここに用はないよ」


「……そうだな、行こう」


 袖を掴んでいるところを見て、茨木が嬉しそうに口角を上にあげている。案外こういうことをされるのは好きなのかな。


「近くに百均があるからそこで花瓶を買おう」


「分かった、折角だし見栄えが良いものにしよう!」


「ちょうど良いのがあればね」


 まだ暗くない放課後が久し振りで、隣みたいに笑うほどではないけれど、今はきっと、いつもよりましな顔をしているはずだ。

 なんせ花をもらって嬉しくない女の人は、花粉アレルギーの人くらいだと思うから。

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