落下

えわじてんわ

落下

 目が覚めたとき、目の前は真っ暗だった。暗い緑色が、眼前をかすめていく。はじめのうち、私は、何が起きているのかわからなかった。しかし、徐々にはっきりしとしてくる意識が、上へと昇っていく石垣の隙間の、あみだ模様を知覚した時、逆さまの体に受ける、激流のような風を感じたとき、私の理性は、どうしようもない、恐怖の結論を導き出した。私は、落ちている。


 「助けてくれえ、誰か、誰か」


 たとえ、だれかが来たとしても、叶わないであろうその願いを、私はひたすらに叫んだ。きっと、これはなにかの間違いだ。どうして、こんなことになっているのだ。そう考えるが、目を開ける以前の記憶がまったく思い出せない。私は、はち切れんばかりの鼓動の音をはっきりと聞いた。

 死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。

頭がくらくらしてきて、目の前が途端にうるみだす。こぼれだした雫は、吸い込まれるみたいに、闇へと消えた。私は、目と口をぎゅっとつぐんだ。これから走る衝撃は、こんなことをしても、すこしも和らいだりはしない。私の体を一瞬のうちにかけめぐって、気づく間もなく、こっぱみじんにされるだろう。そんなことは考えることもなくわかっていた。これから起こる死など、とうに予測していた。だが、それでも、本能が言っていたから、そうしなければならなかった。


 「……………………………………………………………」


 あれ、どういうことだ。

私はそっと目をあけてみた。するとそこには、先ほどと変わらない、無情の黒が昇っていた。


 「はぁ、はぁ」


とぎれとぎれの呼吸は少しずつ思考をまわしてく。そして、この状況を少しずつ整理し始めた。


 「死んでいない、私はまだ死んでいない」


 言い聞かせるようにつぶやいた。まだ手足は風を受けている。耳をかすめる風の音も鳴り響いたままだ。その事実にたどりついたとき、整理された私の頭は、また、ぐちゃぐちゃになってしまった。


 まだ死んでいない。死んでいないということは、生きている。あっ、でも、落ちているじゃないか。いつかは地面とぶつかってしまう。嫌だ死にたくない。死にたくない。死にたくない。


 私は、わけのわからない大声をあげた。なんと言っていたのかはわからない。ただ、自分をこんなめにあわせた何か、運命だとか神みたいなものに向かって憎悪を飛ばした。声は次第に弱々しく、うす暗くなった。

 

 「どうしてこうなった。いったい何をしたから、こんなめにあうのだ。どうして、どうして」

 

 涙にまみれながら、私は嘆いた。何度も、どうしてと言った。だれも答えてはくれない。だが、答えは最初から決まっていた。「わからない」。私は答えを知っていたが、でも、そうすることしか私にはできなかった。


 ああ。もう疲れたや。どうでもいい。どうでもいいや。


私は再び目を閉じた。さっきとは違って、眠るみたいに優しく閉じた。耳を打ちつけていた鼓動はどこにもない。あるのは、轟々とした風の音だけだった。


 どのくらい時間がたったか。短いようで長いのか、もしくはその逆か。私は、はっと目を開けた。

 

 おかしい、あきらかにおかしい。なぜ私は死なないのだ。だいいち、こんな深い穴が存在するのか。


一度放棄したはずの思考は、疑問として戻ってきた。風の音は止まず、落ちていることにも変わりはない。しかし、この特異な状況が、通常ではありえない考えに現実味を帯びさせた。

 

 思い出せない、ここに来る前のことが。つまり、そもそも、その前なんてものは無かったのだ。ということは、これは私が見ている、とてつもなくリアリティのある夢、なのか。それならば、つじつまが合う。…そうだ、そうに違いない。


 私は、力任せに舌を噛んだ。だが、いっこうに世界は変わらない。どれだけの痛みがはしっても、所詮、痛いだけであった。何度もまばたきをした。力を入れ、目をおもいっきり見開いたりもした。

 

 大丈夫。これは夢だ。でなければおかしい。でなければなんだ、ここは地獄とでもいうのか。嫌だ。嫌だ。起きろ。起きろ。

 

必死だった。唇も噛んだ。息も止めてみた。だが、目覚めようと実践した行為はすべて、私が生きていることを実感させるだけだった。

 

 このまま、落ち続けるのだろうか。


そう頭によぎった時、私の耳に、今までとは違う、明らかに別の物体の音がした。

 

 パガァン


背中から心臓を突き刺すみたいに音が響いた。その瞬間、私の思考は完全に停止し、何も認知できなくなった。だが、共鳴するその音は、すぐに私を引き戻した。

 全身の血が抜かれたみたいだった。ぞわぞわと鳥肌がたち、奥歯ががたがたと笑う。見えなくともわかっていた。死が間近であることを。


 「助けてくれ。だれか。頼む。だれか、助けて…助けて…」


深い深い墨色の底から、終わりを告げる音がした。





「博士。本当にどんな役でも演じられるのですか」


大人ほどの大きさの、カプセルだらけの部屋の中、スーツを着た男は言った。


「えぇ。私は、アンドロイドに感情を体験させる技術を確立しました。これにより、どんな役でも高い演技力でこなせます。あっ、ちょうどこのアンドロイドたちには、死の感情を体験させておりまして…」


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落下 えわじてんわ @jinius48

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