第四章 彼を支配するその者は

「さっそく皇子殿下お二人と面談なされたとか」

 凰妃としての生活が始まってから、数日が経過した午後。

 莉世の様子をうかがいにきた光琉が、感心したように言った。

「しかもどちらの口説き文句にも流されることなく、しっかりと意志を聞き出されたそうですね。素晴らしいです」

「いえ、まだ満足に聞き出せたわけでは……」

 ないんですけど、と、莉世は肩をすくめてみせる。

 とくに蒼季に関しては、彼が何をしたいのか、皇帝という地位に対して本当はどう考えているのか、謎のままだ。

「ええと……まだ時間はありますから、じっくり向き合っていこうと思います。この国だけでなく、殿下方の将来にも関わることですから」

 すると光琉は、またしても感心したように何度かうなずいた。

「次期王妃という立場に浮かれることなく、しっかり見定めようとされているとは……あなたはとても優れたお方だ。あなたが凰妃であるおかげて、皇子殿下方は最高の伴侶を得ることができるでしょうね」

「いえ、結婚の話は……」

 なくなるように努力している最中なのですが、と言いかけて、慌てて口を閉じた。不思議そうな顔をしている光琉に、「なんでもありません」とおぼろげな笑みを向ける。

「そういえば、光琉さまは? ご結婚はされているのですか?」

 ふと気になって問うてみると、光琉は「いえ私は」と、自嘲気味に首をすくめた。

「私に問題があるのでしょうね。女性とはなかなか上手くいかないのですよ」

 そうは言っても、彼は官僚の頂点に立つ人物だ。爽やかな顔立ちをしている上に、物腰も柔らか。周囲が放っておくわけがないと思うのだが。

「それより凰妃、あまり無理をなさらないでくださいね。府庫からそのように本を借りてきては、ゆっくり休む暇もないのでは?」

 光琉がちらりと視線をやった先には、山のように積み上がる書物があった。

「大丈夫です。時間はたっぷりありますし、この国に関する知識を入れておかないと」

 すると光琉の表情が、急に真剣味を帯びる。

「実際のところ、どうなのです? 朱樹さまと蒼季さまの、皇帝たる資質は?」

「それがまだまったくわからないんです」

 というよりも、今のところ朱樹と蒼季、どちらにも難がありすぎるように思える。

 しかしそう明かすわけにもいかなくて、莉世はまたしても曖昧に微笑んだ。

「それより、光琉さまにおうかがいしたいことがあるんです」

 ここぞとばかりに話題を変える。

「蒼季さまに関することで、少し気になることがあって」

 莉世の脳裏には、数日前の蒼季との会話がよみがえっていた。

 あの時、彼が慕う人物を知りたくて、『皇帝であるお父さまとか、淑妃であるお母さまは』と例に挙げてみたのだが、彼は『とくにはいない』と遮断するように言っていたのだ。

 そのため彼と両親との関係が良好ではないのかもしれない、との印象を抱いたのだが。

「光琉さまは、蒼季さまとご家族のご関係について、なにかご存知ありませんか?」

「ご家族というと、陛下や淑妃さまと、ということですか?」

「はい。あの方たちがどのような親子でいらっしゃるのか、知りたいんです」

 すると彼は、顎に手をやり、記憶を探るようにしばし考え込む。

「そうですね……陛下と蒼季さまとのご関係は、朱樹さまとのそれととくに変わりはないと思いますが」

「では淑妃さまと蒼季さまは?」

「そちらのお二人の間にも、問題はないかと思われますよ。淑妃さまは蒼季さまのことを大切に思われていますし、蒼季さまも淑妃さまのもとをよく訪ねられているようです」

「ほかには? 何か、今まで気になられたことはございませんか?」

「気になったことですか……いえ、これといってとくには」

 しかたのないことだが、やはり表面的な部分しかわからないらしい。

「結那は? 何か知ってる?」

 蒼季と深い関係にあった彼女のことだ。ほかの者では知り得ない情報を持っているのではないかと問うてみたが、彼女は「いえ」と無表情で首を横に振った。

 しかしそこで、結那の一歩前に立っていた麗佳が「あの」と口を開く。

「女官たちの間では周知のことなのですが、たしか蒼季さまは、朝晩の食事を後宮の淑妃さまのお部屋でとられているはずですわ」

「淑妃さまの? って……よくわからないんだけど、それって普通じゃないの?」

「それが……通常、成人された男性は皇子殿下といえど後宮への出入りを禁じられているのです。けれど淑妃さまがそう望んでいらっしゃるとかで」

 そこで光琉が、「ああ、そういえば」と話に入ってきた。

「その件ならば私も耳にしたことがあります。たしか、武官である蒼季さまのお体を心配された淑妃さまが、お食事の用意をされているとか」

 そう聞かされるとごく普通のことのようにも思えるが、規則を破ってまで母親と食事をともにしているという点がなんとも気になった。

「それに後宮への出入りという点で言えば、朱樹さまも同様ですよ。時折立ち入られるようですが、陛下からは黙認されているようで」

「そうですか……わかりました、ありがとうございます。麗佳も、ありがとう」

 何か腑に落ちないものを抱えながら、ひとまず話を終わりにする。

 けれどもうひとつ、ふと疑問を思いついた。

「あの二人……皇子殿下方の関係って、実際のところどうなんですか?」

 するとすぐさま光琉が反応する。

「声を大にしては言えませんが、良好ではないでしょうね。真偽の程はわかりませんが、朱樹さまには良くない噂がたくさん存在していますし……人の良い蒼季さまも、兄上殿のことは意識的に避けられているのではないでしょうか」

「良くない噂って、第一皇子の人間性に関するものとか、娼館通いのことですよね?」

 たしか報告書に、それらのことが記載されていた気がする。

 光琉は「おっしゃるとおりです」とうなずいたが、莉世はまたしても違和感を覚えた。

 彼の話ぶりからすると、皇子たちの周囲にいる者は、朱樹が異常で蒼季だけがまともだと評価しているように受け取れる。

「麗佳は? なにか知ってる?」

「光琉さまと同じ印象ですが、たしか朱樹さまと蒼季さまは、以前はとても仲良くしていらしたはずですわ。とくに蒼季さまが朱樹さまのことを慕っておられたような……私が女官として勤め始めたばかりの頃ですから、八年ほど前のことだったと思いますが」

 それと光琉の話とを照らし合わせるならば。

「じゃあそのあと、第二皇子が第一皇子を避け始めたってこと?」

「そのあたりの確実なことはわかりかねます。ですが、わりとすぐにそうなられたような」

 八年前。その頃、朱樹と蒼季の間にいったい何があったのだろう?

 顎に手をやって考え込んでいると、光琉がぽんと莉世の肩を叩いてきた。

「あなたがそのように頭を悩ませる必要はございませんよ。母が違う皇子殿下同士、互いを避けようとするのは当然のことでしょう。なにせ二人で王位を争うのですから」

「たしかに、そうなのかもしれませんけど……」

 しかし先日、夜更けにこの部屋を訪れた朱樹は、蒼季のことを高く評価しているようだった。少なくともあの時の彼からは、弟をむやみに避けようとしている印象は感じ取れなかったのだが。

(よくわからないけど……彼等の間に、何か重要な出来事があった?)

 今なお母と食事をともにする蒼季。そして彼は、慕っていたはずの兄をいつしか避けるようになってしまった。そこにいったいどのような理由があったのだろう?

 どうにも気になってしまった莉世は、そのあとの光琉との会話も、どこか上の空になってしまったのだった。



 部屋でひとり、あれこれ頭を悩ませていても、何かがわかるわけでもない。

 ひとしきり考えた末にそう思い至った莉世は、昼食後、麗佳を連れて府庫に新たな本を借りに行くことにした。そしてその帰路、自室に向かって外廊下を歩いていたところで、前方に派手な一団を見つけることとなった。

「ねえ、あれって……」

「このような場所で珍しいですわね。淑妃さまでございますわ」

 金色の衣をまとい、背後に幾人もの侍女を従えた美しい人は、蒼季の母――淑妃だった。

「陛下のところにお出かけになられるのでしょうか」

「こういう時は、道を開けて膝を付かなければいけないんだよね?」

 前もって麗佳に教えられていた礼儀を口にすれば、彼女は「ええ」と足を止める。莉世も同様に膝を付こうとし、けれど淑妃がふと立ち止まったので、様子を見ることにした。

「あら、わたくしの蒼季。こんなところで何をしているの?」

 どうやら偶然、息子である蒼季と遭遇したらしい。莉世たちが立つ場所がちょうど柱の陰になっているため、こちらの存在にはいまだ気づいていないようだ。

(これで二人がどんな親子か、少しはわかるかも……)

 またしても盗み聞きになってしまうが、あえて声はかけないことにした。

「ごきげんよう、母上。今から光琉のところに所用を済ませに行くところです。そのあと凰妃を訪ねようかと」

 蒼季の口から急に自分の呼称が出てきたので、びっくりした。

「それはいいことだわ。なるべく部屋に通って、なんとしてでもあの者を出し抜きなさい。いい? 皇帝になるのはあなたよ。あなたはそのために産まれてきたのだから」

 思いがけず耳にしたのは、なかなかに危うい会話だった。

 莉世の心臓が、無意識のうちにばくばくと高鳴り始める。

「何かあればこの母を頼りなさい。先日のように、すぐに用意するわ。あれはあの小娘に渡したのでしょう?」

「ええ、仰せのままに」

「では検討を祈るわ。いい? 絶対に皇帝になるのよ。あなたの存在価値は――」

「そこにあるのだから、ですよね? ……重々承知しておりますのでご心配なく」

「ふふっ、かわいい子。ではまた夕餉の時にね。時間に遅れず、必ず部屋にいらっしゃい」

 やがて蒼季と別れた淑妃たち一行が、こちらに向かって歩いてくる気配がした。

 盗み聞きをしてしまった今、できれば顔を合わせたくない。そう考えてあたふたしていると、幸いにも彼女は手前の角を曲がってくれたようだ。一方の蒼季も、莉世たちから離れるように外廊下を歩いて行く。

 よかった、と息を吐いて背後を振り返ると、麗佳が「まだですわ」と言わんばかりに首を横に振った。そのため莉世は、もうしばらくその場にとどまってから部屋へ戻ったのだ。



「やあ、僕の花嫁。今日のご機嫌はいかがかな?」

 空が橙色に染まる夕刻。件の蒼季が莉世の部屋を訪ねてきた。

 つい数時間前に、淑妃との会話を聞かれていたとは夢にも思ってもいないのだろう。その顔にはいつもと変わらぬ笑みが浮かべられている。

「……こんにちは。ううん、もうこんばんはかな」

 窓の外からは、気の早い秋虫たちのさえずり声が聞こえている。

「今日は仕事は休みなの? それともまた抜け出してきた?」

 先日もそうだったが、彼はきちんと伺いを立ててから部屋の中に入ってくる。朱樹とは違い、一般的な常識は身についているらしい。

「今日は午後から休みだったんだ。所用を済ませていたらこんな時間になってしまったけど、どうしても君の顔が見たくてね」

 そう言いながら、蒼季は机の横に立つ莉世の前まで歩いてきた。

 面と向かって顔を合わせるのは、あの日――彼が結那に、厳しい態度をみせた時以来だ。彼の本性の一端や、母との関係性を知ってしまった莉世は、やや緊張して着席をすすめる。

「こちら果南産のお茶と菓子でございます」

 隣室の侍女部屋から、速やかに姿を現したのは麗佳のみだった。結那も控えていたはずだが、麗佳に待機を命じられたのかもしれない。

「良い香りだ。果南……僕の母の故郷だね」

「今日、光琉さまにいただいたの。質の良いものが手に入ったからって」

「うん、たしかにおいしい」

 顔を上げた彼と、初めてまともに目が合った。

「それ、つけてくれてるんだね。翡翠の耳飾り」

 莉世の耳には、緑色の大きな石が特徴的な、金細工の耳飾りが下がっていた。

 蒼季は、莉世との間にある机の上に、身を乗り出すようにしてくる。

「僕が贈ったものをつけてくれているってことは、少しは期待してもいい?」

 なぜすべてそっちの方向に持っていこうとするのか、戸惑わずにはいられなかった。

「もっとよく見せて。……うん、君の栗色の髪に、よく似合ってる。でも、耳に口づけるときは邪魔だろうな。まあ、その時は僕が外してあげるけど」

 彼の細い指先が、莉世の耳たぶにふれる。軍の総指揮者として、普段から剣を握っているのだろう。華やかな顔立ちに似合わず、指先の皮膚はこわばっていた。

「ちょっと、やだ、なにをする気?」

 逃げるように立ち上がると、追いかけるように彼も椅子から腰を上げた。

「気持ちのいいこと」

 彼の指が、莉世の耳元やうなじを、好き勝手に這おうとする。

「こんなことまでして……何を考えてるの?」 

「どうしたら君に好きになってもらえるのか、そればかり考えてる」

「皇帝になりたいからでしょ?」

「君に恋したとは思ってくれないのか?」

「自分の容姿の程度くらい、ちゃんとわかってるもの」

 やがて彼のもう一本の手が、莉世の腰に回された。

「……わかった。あなたがこういうことをするなら、わたしもはっきり言わせてもらう」

 このままではらちが明かないと、莉世は彼の紫色の瞳をひたと見つめた。

 そして、言う。今、莉世が確信していることを。

「あなたはわたしになんて興味ない。わたしが凰妃だから、皇帝になる必要があるから口説いてるだけ」

「……ひどい言いようだな」

 大きな手に力がこめられ、ぐいと引き寄せられる。彼の顔が、互いの前髪がふれ合う距離にまで近づいてきた。

 けれど莉世は動じないふりをする。なぜなら今こそが彼の心にふれるチャンスだからだ。

「ねえ、あなたはなぜ皇帝を目指すの?」

「その質問ならこの間、答えたはずだけど?」

 たしかに彼は言っていた。『この国には数多の問題があり、それを解決するだけの能力が僕にはある』と。そして『指揮を執るのは僕が一番の適任だと言われ続けてきた』とも。

 それを誰に言われ続けてきたのか、あの時彼は『皆に』と答えたけれど。

「あなたが皇帝を目指す理由は、お母さまにそう言われ続けてきたからね?」

 そう問うた刹那、蒼季はその表情を凍り付かせた。

「なにをいきなり……どうした? 誰かに何か言われたの?」

 誤魔化すように言いながら、莉世からゆっくりと離れていく。おかしい。そう思わざるをえないような態度だ。

「帝位を望むのはあなたの意志ではなく、あなたのお母さまの意志? 『指揮を執るのはあなたが一番の適任だ』って言葉は、お母さまの言葉なんでしょ?」

 すると今度は、明らかに蒼季の全身の動きが止まった。紫色の瞳が、動揺に揺れる。その様子を見逃さなかった莉世は、いよいよ確信した。やはりそうだったのか、と。

「だからこうしてわたしを口説くのね? 今までおとしてきた女の人たちみたいにわたしをおとして、あなたを皇帝に選ぶようしむけるために」

「それは……さすがに推測がすぎるな」

 ようやく反論をしてきた彼だったが、その声はどことなく力がないように感じられた。

「僕はただ、君と親しくなりたいだけだ」

「これ、返すから」

 莉世は蒼季の胸の前に、小さな布袋を差し出した。

「それもお母さまが用意したものだったんでしょ?」

 眉をひそめた彼は、中をのぞき見るなり、雷に打たれたように顔をあげる。

 袋の中には先日、蒼季から贈られた翡翠の耳飾りが入っていた。つまり今、莉世がつけているものは、彼がプレゼントしてくれたものとは違うものなのだ。

 用いている石の種類は同じでも、そのデザインは大きく異なる。彼が本当に自分で選んだのであれば、すぐに気づくと思っていたのだが。

「今日の昼間、聞いたの。外廊下での、あなたとお母さまの会話」

 決定打とばかりにその件を明かすと、彼はかすかに眉根を寄せた。

「この間、操り人形ってあなたは言ってたけど……」

 やはりそれは、母である淑妃の、ということだったのだ。

 そして母の操り人形として玉座を目指すことを強要されているからこそ、彼自身、やりたいことがわからない――いや、それについて考えることすら許されなかったのだろう。

「悪いけど、今日は帰ってくれるかな。わたし、行くところがあるから」

 彼と向かいあうために、避けてはとおれない道がある。まずはその人に会って、話をして、見極めなくてはいけない。

 そうはっきりと認識した莉世は、蒼季の返事を待たずに部屋の戸口へと向かった。



「いくらなんでも無謀ですわ。お約束もされていないのに訪ねるなんて……!」

 夕暮れの後宮を早足で歩く莉世のあとを、慌てた様子の麗佳が追ってくる。

「門前払いされるに決まっています! それどころか無礼を咎められる可能性も――」

「でも今すぐお会いしたいんだもの。それで、次の角は右? 左?」

「それは左ですけど……凰妃さま!」

 幾度の制止に応えることなく、赤い柱が立ち並ぶ外廊下を進む。一歩を踏み出す度に、衣装の裾や、髪に挿した簪がせわしなく揺れる。あたりに響くのは、莉世と麗佳の沓音だ。

 しかし後宮という場所は、いったいどれだけ広いのだろう。いくつもの似たような扉や、大小の庭園――麗佳の案内がなければ、たちまち迷子になってしまうところだ。

「ああ、そちらじゃありません。その角を右に曲がって最奥のお部屋になりますが……」

 いよいよあきらめてくれたのか、麗佳が小走りで莉世の前に出た。

「まずはわたくしがまいりますわ。なんとか取り次ぎをお願いしてみます」

「ありがとう。協力してくれるんだ」

「ご希望が叶わなかったら申し訳ございません。こちらで少々お待ちくださいませ」

 その言葉に従い、ひときわ大きな扉の前で立ち止まる。はやる気持ちを抑え、呼吸を整えていると、やがて麗佳が戻ってきた。

「凰妃さま、僥倖ですわ。お会いしてくださるそうです! よかったですわね」

 そうして通された部屋の中には。

「いったい何事なの、いきなり訪ねてくるなんて……そなただから許したものの、次からはこうはいきませんよ」

 背後に数人の侍女を従え、金色の椅子に悠々と腰を掛ける淑妃――後宮最上位の女性がいた。銀糸の刺繍が見事な衣装をまとった彼女は、やはり艶やかで美しい。

(なんて豪華なお部屋なの)

 広い室中に置かれた調度品は、金の香炉、金の燭台、金の飾り棚と、ほぼ全てが金色に輝いていて、思わず溜息がもれそうになった。天井に描かれた絵は、これまた金色の大輪の花だ。床に敷かれた深紅の絨毯は、足首まで埋まってしまいそうなほどに柔らかい。

「いつまで呆けたように立っているつもり?」

 苛立ったように急かされ、莉世はその刺々しい雰囲気にのみこまれそうになった。

「あの、突然申し訳ございません。けれど、すぐにでも淑妃さまにお会いしたくて」

 彼女の前で膝を付き、頭を垂れる。

「で、何用なの?」

「それは……家庭訪問です」

 少々考えたのちに宣言すると、一方の淑妃は怪訝そうに眉をひそめた。

「家庭訪問……? 意味がわからないわ」

 ならばわかっていただかなければと、すぐさま口を開く。

「わたしがご子息――蒼季さまの教育係となったことは、ご存知ですか?」

「わたくしの皇子に関することですもの、もちろん知っているわ。けれど教育係など子供の遊びのようなこと、本気で言っているわけではあるまい?」

 彼女はくすくすと小刻みに肩を揺らし始める。

「いえ、本気です。それで蒼季さまご本人と面談をしたのですが、ちょっと気になる点がありまして……ですからぜひ淑妃さまにお話をおうかがいしたくて」

 そのような場合、莉世が勤務する高校では、保護者に学校まで足を運んでもらうことが常だ。けれどそれが叶わない時には、教師が家庭訪問をすると決まっている。

「いったい何だというの」

 淑妃が手にしていた扇が、はらりと音もなく開かれる。

「まさかわたくしの皇子に何か問題でも?」

 それで隠された口元からは、すっかり笑みは消えているように思えた。

(ひっ……完全に怒ってる)

 どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。けれど、ここで怯んでいたら前には進めない。

 莉世は淑妃の蔑むような眼差しを、どうにか受け止めた。震える拳を握って立ち上がれば、無意識のうちに背筋がまっすぐになる。

「あの、まずお聞きしたいのですが、淑妃さまはご子息の『やりたいこと』や、『夢』をご存知でいらっしゃいますか?」

「はっ……! なにを言い出すかと思えば馬鹿げだことを。あれの夢? 玉座に座ることに決まっているでしょう」

「玉座……本当にそうでしょうか」

 莉世は首をかしげる。

「蒼季さまにおうかがいしたところ、『自分がやりたいことなんてわかっていない』とおっしゃられていました。それから、自分は操り人形だ、とも」

「操り人形……? あれがそのようなことを?」

「はい。では誰の? と考えたのですが……」

 淑妃の怒りを買うのがおそろしくて、数秒の間もごもごと口ごもる。

(でも言うしかない……はっきりと!)

「淑妃さまの操り人形、ということかと思いまして、確かめにまいりました!」

 意を決して口にした途端、「なんですって?」と、彼女の顔色が変わった。だからこそ莉世は、間髪入れずに口を開く。そうしなければ彼女の圧力に負けてしまいそうだから。

「単刀直入にうかがいます! 淑妃さまはご子息に、『皇帝になること』を強要されていませんか?」

「そなたはいったい何が言いたい?」

 射るような眼差しがこちらに向けられる。けれどあえてそれに気づかないふりをした。

「ここ数日、蒼季さまと言葉を交わす機会が何度かありました。それで気づいたんです。彼には二面性があって、人当たりのいい態度の裏側で、自分を利用した女性をとても憎んでいる、と。……どうやら彼は、幼い頃から女性に利用され続けてきたためそうなってしまったらしいのですが、では誰にそうされてきたのか? その答えを知りたくて、今日、ここにまいりました」

「それがわたくしだとでも?」

 昼間盗み聞いた、淑妃と蒼季の会話。それから判断するならば、そうなのだろう。

 それに皇帝の制止を気にもとめず、自分の息子を必ず次代の王に選べ、と莉世に強要してきた淑妃のことだ。それ以上の圧力を蒼季にかけていてもおかしくない。

「そうではないと願いたいのですが……淑妃さまにとって蒼季さまの存在価値とは、皇帝になってこそ、なのですか?」

 だからこそ蒼季は、あのような人格になってしまったのではないか?

 だからこそ王になることを望み、莉世を口説いてくるのではないか?

 それらはまだ推測の域を出なかった。けれどもしそうであるなら。

「わたしは本当のことを知りたいんです。蒼季さまが何を考え、どのような道を進みたいと願っているのか、彼の意志を」

 そして彼の想いに寄り添い、彼が本当に望んだ未来をつかむ手助けをしたい。

 なぜならそれが教師の――凰妃でありながら教育係となった莉世の役目だと思うからだ。

 だから莉世は願った。

「蒼季さまの意志を聞き出すことを……彼が意志を持つことを許してくださいませんか? そしてもし彼が望まないのなら、皇帝を目指すことを強要せずにいてあげてほしいんです」

 するといよいよ我慢できないと言った様子で、淑妃は高らかな笑声を上げる。

「黙って聞いておれば、好き勝手にあれこれと」

 ばかばかしいと思ったのか、あるいは取るに足りないことだと思ったのか、淑妃は「去れ」とでも言うように、莉世に向けて二度ほど扇を振った。

「昨日今日現れたばかりのそなたに何がわかるというの。あれは望んで帝位を得ようとしているの。それをそなたにどうこう言われる筋合いはないわ!」

 しかし次の莉世の言葉で、淑妃は余裕の態度を引っ込めた。

「そうしてくださらなければ、わたしは偏見なく蒼季さまを評価することができません」

 そう、ということはつまり。

「――今のままでは、蒼季さまを皇帝に推すことはできません!」

 それは淑妃とて、とても聞き逃せない言葉だったはずだ。なぜなら鳳凰の意志を受け、凰妃として皇帝を選ぶのは、ほかでもない莉世なのだから。

「そなた……本気で言っているの?」

「はい、本気です」

 彼女の重苦しい気迫に負けないよう、莉世は拳を握った。

「わたくしの皇子を選ばない、と」

「残念ですが、今のままでは」

「ではあの男を――あの女の息子を選ぶというの? あの忌々しい女の血を……!」

 朱樹のことを言っているのだろう。淑妃の顔色が、瞬く間に怒りで真っ赤になる。

「そんなことは許さないわ。そんなことをするくらいなら、いっそそなたをここで――」

「何をしているんです!」

 その時、聞き慣れた声が割って入ってきた。

「莉世……なぜこんなところに?」

 外廊下に面した扉から姿を現したのは、ほかでもない蒼季だった。

「ちょっと待ってくれ。行くところがあると君は言っていたが、まさかここのことだったのか?」

「ええと……あなたのお母さまにちょっとお話をおうかがいしたくて」

 するとそこで待ってましたとばかりに淑妃が口を開く。

「蒼季、この凰妃とやらはまともではないわ。いきなり現れて、あなたに問題があると言うの。それからあなたの意志を聞き出したいとか、あなたが意志を持つことを許せとか、わけのわからないことをわたくしに迫るのよ」

「莉世……本当にそんなことを?」

 問題があるとまでは言っていないが、内容に相違はないため、首を縦に振った。

「それから、あなたを偏見なく評価することができないとか、今のままでは皇帝に推すことはできないとか、それはまあ馬鹿げた話をつらつらと!」

「馬鹿げたなんて、ひどいです。わたしはただ彼が本当に望むことを――」

「莉世、ちょっとこっちに」

 蒼季に腕をひかれて、続く言葉を遮られた。

「え、なに? わたし、まだ淑妃さまとのお話が終わってないんだけど」

 しかしそのまま強引に外廊下へ連れ出され、扉を閉められる。慌てた様子の麗佳が、すぐさまあとを追ってきた。

「いいか莉世、これ以上よけいなことは口にせずに、今すぐここから去るんだ」

 めずらしく蒼季は、切羽詰まったように唇を噛んでいた。莉世の両肩をつかみ、「わかったね?」と必死の形相で説得してくる。

「どうして? あなたは何をそんなに焦ってるの?」

「君は知らないから……彼女がどんな人なのか」

 彼女。おそらく淑妃のことだろう。

「あの人に話なんて通じない。気に入らなければ、その権力であらゆることを自分の思い通りにする人だ。彼女と敵対して消えていく人を……この目で見てきた。もう何度も」

「だからあなたは、お母さまの言うとおりにしてるの?」

 下手に逆らえば、周囲を巻き込んでの大問題に発展する可能性があるから?

 そう推測して問うと、彼は困ったように頭を振った。

「べつにそういうわけじゃない」

 けれど左右に泳ぐ視線が、「そうだ」と告げている。

「わたしは、あなたのことが知りたいの」

「僕のことならいくらでも教えると――」

「作り上げられたあなたじゃなくて、あなたの心の中を……本当のあなたを知りたいのよ」

 願いを込めて言えば、蒼季は虚を突かれたように目を瞬いた。

「僕の……心の中だって?」

 今の彼は、いつもとはまるで別人のようだ。取り繕っている余裕などないのだろう。軽薄で軟派な印象は、どこかへ消えている。

「本当の僕、か……そうやって調子のいいことを言う女は、たくさんいたな」

「女という存在をひとくくりにするのはどうかと思う」

「だが君がほかの女と違うと、どうやって信じろと? 今までずっと、欲の塊のような浅ましい女たちに……自分の母親にだって、都合良く利用されてきたんだ」

「やっぱりあなたはそう感じていたのね……?」

 その紫色の瞳が悲しみに染まっているような気がして、莉世まで心が痛くなった。

「じゃあ聞くけど、わたしはあなたをどう利用すればいいの?」

 そう。そもそも莉世には、蒼季にこだわる必要などまったくないのだ。

 なぜなら凰妃として覚醒した時点で、次の王の妻となることが定められているのだから。

「逆にわたしを利用しようとしているのは、あなたたち皇子じゃない」

 言われてそうだと気づいたのだろう。「たしかに」と、蒼季はすんなりうなずく。

 あっさり認められれば、それはそれで腹が立つのだが。

「とにかく、わたしは本当のあなたを知って、そして判断したいだけ。あなたが皇帝に適しているのかどうかを。そしてもしあなたが皇帝になるよりもやりたいことがあるなら、教師――教育係として、そのお手伝いをするだけだから」

 すると彼は、しばし考え込んだのちに、消え入りそうな声を絞り出した。

「皇帝、か……そうだな、本当は僕は――」

 けれどその時、淑妃の部屋の扉が開き、彼の言葉が遮られる。

「お二方とも、淑妃さまがお呼びでございます。お早くいらしてくださいませ」

 部屋の中から現れたのは、淑妃の背後に控えていた侍女のひとりだった。

 莉世と蒼季は一瞬、どうする? と探るように顔を見合わせる。が、従うしかないと判断し、再度、淑妃の部屋へ入室した。するとそこには。

「母上、これはいったい……! 何をされるおつもりですか!」

 驚くことに、剣を手にした数人の兵士たちがいた。彼等は莉世を取り囲むように、すぐさま部屋のあちこちへと移動する。

「蒼季、あなたは何も心配する必要などないのよ。ただ少し凰妃にお願いをするだけ」

(そんな、まさか……力ずくで、というわけ?)

『気に入らなければ、その権力であらゆることを自分の思い通りにする人だ』

 先ほどの蒼季の言葉が、頭の中でぐるぐると渦を巻く。つまり淑妃は、莉世に身の危険を感じさせ、蒼季を皇帝に選ぶよう迫るつもりなのだろう。

「母上、彼女は鳳凰に選ばれし凰妃です! そして次代の王妃ですよ。その者にこうして刃を向けるとは……父上が知れば黙っておりません!」

「そうね。けれど何の問題もないわ。そもそもここで起きたことは、決して外には漏れないようになっているのだから。――凰妃、そなたが口を開かぬ限りはね」

 優雅な口調とは裏腹、冷ややかな眼差しを向けられる。彼女はどこまでも莉世のことを脅すつもりらしい。

(剣って……正気なの?)

 兵士たちが手に握る刃が、燭台の火に照らされ、きらりと光る。瞬時に恐怖を感じ、今すぐここから逃げ出したくてしかたがなくなる。

 けれど理不尽な脅迫に従うわけにはいかない。なぜならそれを許してしまえば、何も変えることなどできないからだ。

(一、二、三、四……相手は全部で四人……)

 震える拳をどうにか握りしめ、脚を肩幅よりやや広めに開く。

「莉世? 何をするつもりだ!」

 蒼季がさらに血相を変えた。

「何って……戦うしかないじゃない。もし向こうが攻撃してくるなら」

「ばかを言うな、死にたいのか?」

「死なない。だってわたし、生徒たちから『ヒト属最強』って呼ばれてたんだから」

 動揺する気持ちを押し隠し、どうにか強がってみせる。ヒト属最強。そのあだ名を、決して気に入っていたわけではなかったけれど。

「いいからおとなしくしてるんだ。君を……君に死なれたくはない」

 それは彼の本心からの言葉のように感じられて、莉世の胸の内はほのかに温かくなった。

「私だって死にたくなんてない。だってあなたとちゃんと向かい合うことができるって、そう確信したんだもの」

「ほう、わたくしに抗うつもりね? おもしろいわ。そなたがどこまで強がれるのか、楽しませてもらいましょう」

 直後、淑妃が兵士のひとりに向けてちらりと目配せをした。

(――来る!)

 そう確信すると同時、莉世の左斜め前に立っていた兵士が、剣を握る手に力をこめる。

(先手を取るしかない……!)

 多勢に無勢、しかも剣対素手だ。取り囲まれて攻撃されればたちどころに負けてしまう。 そう判断した莉世は、とっさに全力失速。最後の一歩を大きく踏み込み、兵士の手元めがけて回し蹴りを繰り出した。「くっ」と顔を歪めた男の手から、騒々しい音を立てて剣が落ちる。すかさずそれを蹴り、部屋の隅へと遠ざけた。

(まずは一人! ――次は? 誰が来るの!?)

 ふたたびかまえた莉世の前に、我先にと二人の兵士が立った。

「やめろ……! やめるんだ! 誰も動くな!」

 さすがに見ていられなかったのだろう。蒼季が間に割って入ってきた。

「蒼季、そなたまさか……この母ではなく、その女の味方をする気?」

 地を這うような低い声で問うたのは淑妃だ。

「違うわよね? 蒼季、さっさと退きなさい」

「母上、僕は……!」

「今すぐ『違う』と言いなさい。でなければどうなるか……もちろんわかっているでしょう? あの女のように……八年前のように、この者もあの者も消えることになるのよ?」

 瞬間、蒼季は魂を奪われたかのように息をのんだ。

 見開かれた目、あっという間に額を濡らす汗。どうしたのだろう、あきらかに様子が変だ。莉世を庇うように広げていた腕が、力なく下ろされる。

「ねえ、あの者って……誰のこと?」

 莉世は蒼季の背にしがみつくように手をのばした。

「消えることになるって、どういうこと? あなたもなにか脅されてるのね!?」

 しかも一瞬で彼の顔色を変えてしまうほどの、無慈悲な内容で。

(そんなひどいことってない……!)

「淑妃さま!」

 気づけば必死に願っていた。

「お願いだから彼を解放してあげてください! 彼を自由にしてあげて……!」

 しかしその言葉は、やはり淑妃にはどうでもいいことのようだった。

「この娘を消しなさい。わたくしの皇子を選ばぬ凰妃など、この国には必要ないわ」

 彼女はまたしても兵士たちに攻撃を命じる。今度こそ絶体絶命。彼等は呆然とする蒼季を押しのけ、四人揃って莉世へと剣を振りかざしてきた。

(こんなの無理……! 避けきれるわけない!)

 間近に迫る銀の刃に、心臓が凍り付きそうになる。

 と、その時、異変が起きた。

「淑妃さま! たいへんでございます!」

 部屋の扉が前触れなく開き、ひとりの侍女が転がるようにして駆け込んできたのだ。

「下がってなさい! あとで聞くわ」

「ですが、後宮の入り口に先触れがいらっしゃいまして、まもなく皇帝陛下がこちらに訪れる可能性がある、と……!」

「……なんですって?」

 途端に淑妃の顔から表情が消えた。

「陛下が……ここに……?」

 カタンッと音を立て、朱と金で塗られた派手な扇が彼女の手中から滑り落ちる。

「そんな、まさか……嘘でしょう? なぜ今さら陛下が……」

 狼狽した様子の彼女はすっくと立ち上がると、いきなりあれこれ指示を出し始めた。

「おまえたち、剣をしまってさっさと消えなさい! それから凰妃をすぐに外へ! 蒼季も……あなたもここにいないほうがいいわ!」

 その場にいたすべての者たちがそれぞれ動き出し、部屋の中がただちに騒々しくなった。

「まさかこうしていることを知られたんじゃ……いえ、そんなことあるわけがないわ。ああ、ほら早く! 陛下の席をお作りして!」

「凰妃さま、今のうちですわ」

 耳元で囁いてきたのは麗佳だった。彼女は莉世の腕をひき、強引に外廊下へと連れ出す。

「お怪我はございませんか!? どこか痛いところや苦しいところは……!」

 二人になるなり、麗佳は必死の形相で莉世の身を案じてきた。

「だ、大丈夫……びっくりさせちゃってごめんね」

「まさかあのようなことになるなんて……今日のところは事なきを得ましたが……」

 淑妃と敵対することになった結果を憂いているのだろう。その表情は暗い。

「わたしもここまでのことになるとは思ってなかったんだけど……」

「莉世」

 背後から名を呼ばれて振り返ると、そこには同じく外廊下に出てきた蒼季がいた。

「大丈夫か? 怪我は?」

「してないみたい」

「そうか……それはよかった。――が、君はなんだってあんなことを」

 悩ましげに額をおさえた彼は、けれど次の瞬間、はじかれたように顔を上げる。

「兄上……!」

 数メートル先の柱に、腕を組んでよりかかる朱樹の姿があったからだ。

「兄上、なぜこのようなところに……?」

 問いながら朱樹に走り寄る蒼季だったが、その答えは自分で見つけたようだった。

「そうか……兄上がされたのですね?」

「どういうこと?」

 首を傾げながら、莉世も彼等の元へと進む。

「おかしいと思ったんです。もう何年も後宮を訪れていない父が、急にこちらに来るなんてありえないと」

 そうなの? と麗佳を振り返ると、彼女は神妙そうな顔でうなずいた。

「陛下は第一皇子殿下の御尊母さま――貴妃であった雪鈴さまのことを、ことのほか大切にされておられたそうなのです。ですから雪鈴さまがお隠れになられたのちは、後宮を訪れることは一度もないのだとか」

「兄上、あなたがされたことなのでしょう? 莉世を助けるために」

 つまり『皇帝が来る』との情報が淑妃の耳に入れば、彼女は莉世と対峙している場合ではなくなる。それを見越した朱樹が、あえて部下に先触れのふりをさせ、偽りの情報を流した、というのが蒼季の見解のようだった。

「さあ、どうだかな」

 ようやく口を開いた朱樹は、素っ気なくそう言った。

「しかしずいぶんと派手に暴れたようだな。ここにまで騒動が聞こえてきたぞ」

 あきれたような眼差しが、莉世に向けられる。

「淑妃の部屋に向かった、との報告を受けた時から嫌な予感はしていたが……まさか兵士を相手に戦おうとするとはな。いくらなんでも跳ねっ返りがすぎないか?」

「報告って、誰に聞いたの?」

「おまえの行動を見張れるやつを買収してある」

 朱樹は悪びれることなくそう明かした。どうせそんなとこだろうとは思っていたが、まったく、この男は。

「いったい誰を買収したの? 警備兵のうちの誰か?」

 しかし朱樹は、それには答えてくれなかった。 

「無事で帰ってこられたのならそれでいい。が、ほどほどにしろよ」

 そう言うなり彼は、莉世の頭の上に大きな手をぽんと置いた。そしてすぐさま踵を返して歩き出す。紺色の衣の裾を優雅になびかせながら。

「お待ち下さい、兄上! なぜ何も言わないのです……! 今回のことも、八年前のあのことも!」

 突如、蒼季が感情を露わにした。

「どうせ怒ってらっしゃるのでしょう? 憎んでらっしゃるのでしょう? だったらそう言ってくださったほうが幾分ましだ!」

 吐き捨てるように言ったあと、彼は「ははっ」と自嘲気味に笑う。

「それともまさかどうでもいいと? はっ! だから何も言わないのですね? なるほど、僕は兄上にとって怒る価値もない存在か……! ははっ! だったらしかたない!」

「蒼季」

 弟の言葉を遮るように、朱樹が振り返った。

「おまえが気に病む必要などない。すべての罪は親父にある」

「そんなの詭弁だ!」

 蒼季は切羽詰まったように顔を歪め、衣の胸元を握りしめた。朱樹に対して何か思うところがあるのだろう。いつもの彼からは考えられないような、食ってかかるような態度だ。

(八年前……?)

 昼間、麗佳によってもたらされた情報が頭をよぎる。八年前、朱樹と蒼季は仲の良い兄弟だった。けれどそのあとすぐに、蒼季が朱樹を避け始めたのだ、と。

「ねえ、八年前あなたたちに――」

 いったい何があったの? と口に出すより先に、朱樹が琥珀色の目をすがめた。

「そうだな、ならばひとつだけ釘を刺しておくか」

 ひとりごとのように言ったのち、彼はくすりと笑う。

「蒼季、そいつには手を出すなよ」

 いきなり話題が変わったのでびっくりした。そいつ――つまり莉世のことだ。

「その跳ねっ返りは俺のだ。少々手を焼かされてはいるがな」

「ちょっ、やめてよ! わたしはあなたのものになるつもりなんてありませんから!」

 けれど朱樹は、楽しげに口の端を上げたまま、ふたたび歩き出す。莉世の反論など、まるでどうでもいいことのように。

「兄上……なじってもくれないのですか……」

 遠ざかっていく朱樹の背を、蒼季はひたと見つめ続けていた。

 その姿を目にして、例の質問がふと思い起こされる。

『あなた、尊敬している人とか、慕っている人はいる?』

『それは……とくにはいないかな』

 あの時莉世は、それが嘘であると直感した。なぜなら彼の声音には、迷いが滲み出ていたような気がしたからだ。

(もしかして、蒼季の慕っている人って……)

 正しい答えが、朱樹の背を見つめる蒼季の瞳の中にあるような気がした。



   *   *   *


 すっかり日も暮れた頃。蒼季と別れ、自室へと戻った莉世は、まず夕食を済ませた。そして府庫から借りてきた本でも読もうと机の前に座ったのだが。

(今日はいろんなことがあったから、さすがにつかれちゃった……)

 無意識のうちに、溜息をひとつ。両手を天井に向け、座ったままの体勢で身体をのばす。

 本日――とくに午後からは光琉や蒼季の訪問など、なにかと慌ただしかった。そして極めつけはそのあとだ。莉世自ら淑妃を訪ねたことにより窮地を迎え、なぜか朱樹に助けられるという結末を迎えた。

(あの人……おかしなことばかり言うから、助けてくれたお礼を言えなかったじゃない)

 朱樹の端整な顔立ちが、脳裏にパッと浮かんでくる。

 次に会った際には、必ず今日の礼を伝えよう。彼に対していろいろと思うところはあるが、感謝の気持ちはきちんと表さなければいけない。

 そんなことをぼんやり考えていた時、部屋の扉がノックされた。

 こんな時間に誰だろう? 小走りで戸口へ走り寄る。

「遅くにごめん」

 顔を見せたのは蒼季だった。

「どうしたの……? 何かあった?」

 彼とはつい二時間ほど前に別れたばかりだ。ひとまず中へ、と着席を進めるが、彼は椅子に座ろうとはしない。

「君が本当に怪我をしていないか、確認したくて」

 それを気にして、あらためて訪ねてきてくれたらしい。

「擦り傷ひとつしてないから安心して。あのくらい、たいしたことないから」

 と言いつつも、実際には血の気が引くほどに恐ろしい出来事だった。けれど気にしないで、となんてことのないように笑ってみせる。

 蒼季は、真剣な面持ちで莉世の腕をつかんできた。

「さっきは取り乱して、見苦しいところを君にみせてしまった。……幻滅した?」

「そんなことはないけど」

「ならよかった。……君に幻滅されると、つらいからね」

 言い終えたあとに浮かべるのは、いつもの貼り付けたような笑みだ。どうやら彼は、軽薄で軟派な仮面をまだかぶり続けるつもりでいるらしい。

「そういうの、もうやめにしない?」

「でも、これが本当の僕だし、本当の僕の気持ちだ」

「嘘」

 もう誤魔化されない。なぜなら本当の彼には今日、淑妃の部屋で出会ったからだ。

「本当のあなたはそうじゃなくて……」

 しかし莉世は、そこではっとする。

 もしや今、彼は迷っている最中なのではないか?

(ううん、違う。迷ってるんじゃなくて……)

 おそらくどうすればいいのかわからなくて、戸惑っているのだ。突然、想定外の出来事が起こり、素の自分を莉世に見せてしまったから。長らく嘘の自分を演じ続けてきた彼は、今後、どのような態度をとるべきなのかわからなくて、ただただ困惑しているのだ。

 そしてわからないなりに出した答えが、仮面をかぶり続けるというものだったのだろう。

(だったら……あえて追求しないほうがいいのかもしれない)

 なぜならそうすることによって、彼を追い詰めてしまう可能性があるからだ。

 ならば莉世の次の一手は。

「――ねえ、これから毎日、朝食を一緒に食べない?」

 唐突な提案を口にすると、蒼季は数秒の間、固まったようだった。

「……それはまた大胆な誘いだな。つまり夜を一緒にすごそうってこと?」

 その問いを無視し、莉世は話を押し進める。

「時間は……朝の七時までにここに集合っていうのはどう? それなら仕事に影響ないでしょ? あの人にも声をかけておくから」

「あの人って、まさか」

「朱樹のことだけど」

 予想外だったのだろう。蒼季はぎょっとした様子で目を見開く。

「兄弟を仲良くさせようって魂胆? でもそんなことをされても困るだけだ」

「じゃああなたはやめておく? わたしは朱樹ともっと交流して、あの人が皇帝に適しているのかどうか、判断しようと思うけど」

 そう。ということはつまり。

「これも皇帝選びの一環なの。もしあなたが断れば、協調性が無いってことで候補から外すことになるけど、どうする?」

 すると蒼季は、一瞬、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 これで彼は、莉世と朱樹とともに朝食をとるという選択をせざるを得なくなる。

 そうなれば母の淑妃と過ごす時間も自然と減ることになり、彼女と引き離すことができるだろう。淑妃にしてみれば面白くないだろうが、莉世はこれを『皇帝選びの一環』と宣言した。淑妃とて、蒼季を参加させないわけにはいかないはずだ。

(それに朱樹ともっと関わらせれば……)

 莉世の目には、蒼季が朱樹に対して何らかの特別な想いを抱いているように映った。となれば、朱樹に影響され、蒼季自身にも変化がみられるかもしれない。

「ね? 明日、朱樹に話してみるから。開始は……三日後の朝なんてどうかな」

「わかった、とは言えない。少し考えさせてくれ」

「うん。それでも待ってるから」

 あなたが来てくれることを、と、莉世は蒼季の紫色の瞳をじっと見つめた。

 そして仕切り直すように、ひとつ、深呼吸をする。

「…:あなたはさっき、今日の騒動を謝ってたけど、わたしはああいうことになってよかったと思ってる」

「なぜだ? 危ない目にあったし、これからも……」

 あうかもしれないのに。沈黙がそう語っているような気がした。

「だって今日一日で、だいぶあなたを知ることができたような気がするもの」

 蒼季は不本意そうに眉をひそめながらも、反論することはしなかった。

「……あなた、わたしに耳飾りをくれたじゃない?」

 彼自身が選んだものじゃないことを知って、今日、突き返してしまったけれど。

「今度はあなたが選んだものを贈って」

「僕が?」

「うん。どんなものでもいいから」

 そう。高価なものでなくても、道ばたに咲く花の一輪だっていい。

「だってそのほうがずっと嬉しいから」

 黙り込む蒼季の瞳を見つめたまま、莉世は静かに微笑んでみせた。

「三日後の朝、ここで待ってるね」

 この気持ちが、どうか彼の心に届きますように。そう願いながら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僭越ながら、皇帝(候補)を教育します ただし、後宮入りはいたしません 秋月志緒/ビーズログ文庫 @bslog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ