第三章 玉座を狙うその者たちは
『第一皇子 朱樹に関する報告書
二十一歳。官僚の第二位の地位である右丞相の職に就く。
皇帝と貴妃である母との間に生まれる。母は八年前に病死。同腹の妹あり。
朝廷での手腕は評価されているが、人間性は冷酷とも噂されている。部下たちからはおそれられており、交流は無いに等しい。夜な夜な娼館に通っているとの噂もあり』
『第二皇子 蒼季に関する報告書
十九歳。軍事の頂点である太尉の職に就く。
皇帝と淑妃である母との間に生まれる。同腹の兄弟は無し。
仕事ぶりは優良。性格は温厚で、部下や民に対して配慮があり、周囲の人間から慕われている。一方、好色すぎるきらいがあるため、異性関係には問題あり』
「内申書代わりに、報告書を頼んでみたけど……」
皇帝と取引をした翌日の昼過ぎ。自室の机の上に広げた二通の封書を睨みながら、莉世は嘆息していた。
新しい生徒を受け持った際の経験と照らし合わせ、ひとまず皇子たちの情報を集めようと試みたのだが、届けられた報告書にはさしたることは書かれていなかった。
「お力になれずに申し訳ない」
莉世の横に立ち、ばつが悪そうに首をすくめるのは、皇帝の従兄弟である
光琉に対して抱いた印象は、言動や物腰が穏やかな常識人。なにより生まれ変わる前の自分と同じ年齢ということもあり、莉世は一方的に親近感を持ち始めていた。
そのためさっそく彼に、皇子たちの情報を手に入れたい、と願ったのだが。
「なにせ相手が皇子殿下ということもあり、皆、一様に口を閉ざしてしまうのです」
細やかな情報が集まらないのも、しかたのないことだった。
「これだけでもありがたいです。彼等の家族構成や仕事について知ることができましたし」
莉世は取り繕うように声を明るくする。
欲を言えば国政や仕事に対する関心、帝位に対しての意欲、日々の彼等の生活態度などを把握したかった。が、ここは勤めていた学校ではないのだ。あきらめるしかない。
「あなたたちは何か知らないかな? 殿下方に関して」
背後にいる侍女の麗佳と、その部下である十五歳の少女ーー結那を振り返った。
「いえ、わたくしどものような立場の者は、何も。そちらに書かれている噂話をたまに耳にする程度ですわ」
やはりそうか、と小刻みにうなずいていると、光琉が溜息を吐く。
「私が皇子殿下方ともっと親しければ、有益な情報をお知らせできたのですが……」
「そんな、お気になさらないでください。それに彼等のことを知る手段は、ほかにもありますから」
「といいますと?」
「内心書ーー報告書に目を通したあとは、面談と相場が決まってるんです。彼等ひとりひとりと向かい合って、話をしてみようと思います」
その上で各々とどう交流を深めていくべきか、検討する必要があった。
「なるほど、それは素敵なお考えですね。あなたのその真摯な眼差しの前では、皇子殿下方もおのずと本心をさらけ出すでしょう」
「そうしてくれるといいのですが」
「自信をお持ちになってください。あなたの熱意は、きっと殿下方にも伝わりますよ」
そう言って光琉は、春の日のお日様のように暖かな笑みを浮かべた。
(光琉さまって……)
すごくいい人だ、と率直に思った。
ここ鳳国の宮廷において、かなりの権力者であるはずなのに、いきなり現れた莉世にも丁寧に接してくれる、常識的で優しい人。二人の皇子とはまるで違う。
「あの、ではさっそくご相談なのですが、まずは第二皇子殿下とお話したいんです」
莉世はいまだほぼ話したことがない、蒼季に関する報告書を手に取った。
「わかりました。ではさっそく手配いたしましょう」
任せてください、と光琉は、部下とともに莉世の部屋をあとにした。
それから小一時間後。件の蒼季から、『あと一刻半後に訪ねる』との知らせが、彼の部下を通じて莉世のもとにもたらされた。
そのため莉世は、空いた時間を利用し、自室付近の探索をしてみることにした。
「あちらが後宮へ通じる通路になりますわ。そしてあちらが内廷や府庫の方角です」
付き添いながら丁寧に説明をしてくれるのは麗佳だ。来客がある可能性も皆無ではないため、もう一人の侍女である結那は部屋で留守番をしてくれている。
「それから、こちらがお部屋から一番近い庭園です。お散歩などされるとよろしいかと」
「きれいな場所。池もあるんだ」
「この宮城にはこのような庭があちらこちらに造られておりますの」
池の周りに緑が広がる、手入れの行き届いた美しい空間。そこには木々が放つ清々しい香りや澄んだ空気があって、莉世は深い呼吸を何度か繰り返した。
と、そんなことをしていた時、突如、麗佳が「まあ!」と悲鳴を上げた。
「たいへんだわ!」
何が起きたの? 慌てて彼女が向いている方角に視線をやれば、庭園の奥にある建物から、かすかな煙が上がっているのを見て取れる。
「えっ、火事!?」
「人を呼んでまいります! 凰妃さまはここでお待ちになっていてくださいませ!」
血相を変えた麗佳は、「必ずですわよ!」と何度も念をおし、すぐさま内廷の方角へと走っていった。そんなに釘を刺さなくてもどこにも行かないのに、ずいぶんと心配性だ。
しかしここからではよくわからないが、本当に火事なのだろうか? それとも誰かがたき火のようなことをしているだけ?
どちらなんだろうとやきもきしていると、背後から声をかけられた。
「凰妃さま、どうぞこちらにいらしてくださいませ」
え? と振り返った先に立つのは、ひとりの女官らしき少女だった。年の頃は十六、七くらい。麗佳とはまた違った色の女官服を着ている。
「麗佳さまから言いつかりましたの。凰妃さまを安全なお部屋に案内せよ、と」
この短時間で? とびっくりしたが、それが麗佳の意向なら、と素直に従うことにした。
「じゃあ、お願いします」
彼女の後ろを歩くような格好で、莉世はその場から離れる。
向かったのは西の方角だ。莉世の記憶が正しければ、朱樹の宮がある方面だろう。途中いくつかの角を曲がり五、六分ほど進んだところで、彼女は「ここですわ」と、足を止めた。そこは通路からはやや離れた場所にある、小屋のような建物の前だった。
「じきに麗佳さまがお迎えにいらっしゃいます。それまでこちらでお休みください」
「ありがとう」
すすめられるまま、開かれた扉から建物の中に足を踏み入れた。部屋には窓がないらしい。昼間だというのに、やけに暗い。
「ずいぶん暗いけど……灯りはないの?」
すると彼女は、「ええ、ございませんわ」とあっけらかんと答えた。
「ございませんけど、どうぞごゆっくりしていらしてくださいね。――明日でも、明後日でも、明明後日まででも」
「え?」
どういうこと? と首をかしげた瞬間、背後で扉が閉まる音がした。
まさか、と慌てて振り返るが、すでにそこに女官の姿はない。どうやら莉世だけを建物内に残し、外から戸を閉めたようだ。部屋の中はいよいよ真っ暗になってしまい、莉世は勘だけを頼りに扉へ走り寄った。
「ねえ、ちょっと待って。明日とか明後日とかって、どういうこと?」
とにかく一旦、外へ。そう思いながら取っ手を握って押したり引いたりしてみるが、びくともしない。向こう側から鍵を掛けられているのだろう。お願い、開いて! 必死に何度も繰り返してみるが、結果は変わらなかった。
「やだ、冗談でしょ……? ねえ、開けてってば!」
懸命に叫ぶが、返事はない。
(どうしよう……こんなとこに閉じ込められるなんて、冗談じゃない!)
麗佳から命じられたと言っていたが、それは嘘だったのだろう。あの場で待つよう釘を刺されていたのに、うかつにも動いた結果、面倒な事態に陥ってしまった。
「ねえ、どうして……? どうしてこんなことをするの?」
莉世は握った両手を扉に叩きつけながら問うた。
それでも彼女は答えてくれない。なぜだろう。かすかに聞こえる息づかいや、草を踏む音――扉の向こう側には、彼女がいる気配が間違いなくしているのに。
(なんなのよ、もう……いったい何の目的があってこんなことするっていうの?)
ほとほと嫌になった莉世は、衣装が汚れるものかまわず、その場にくずおれた。拍子に指先にざらりとした感触を覚える。今初めて、足元が乾いた土であることに気づいた。
と、その時、建物の外で、誰かの声――男性のものと思われる低い声がした。
「おい、そこで何をしている?」
この声は、もしかして。抱いた予感を胸に、息を殺して耳を澄ませる。
「そこはただの倉庫のはずだが、一女官が何の用だ?」
「い、いえ、わたしはただ、上司に命じられて荷物を取りに来ただけで」
「そのわりには何も持っていないようだが?」
「それは、その……ここではない倉庫にあるものだったようで……!」
しどろもどろになって答えているのは、先ほどの女官らしき少女だ。
(嘘つき!)
莉世はまたしても扉を激しく叩いて、自身の存在を訴えた。
「お願い、ここから出して! その人に閉じ込められたの!」
すると即座に、「失礼します!」と、女官の上擦った声と、慌ただしい足音が聞こえてきた。どうやら彼女は、逃げるようにこの場から去ったらしい。
「あっ、卑怯……! ちょっと、ここから出してってば!」
座ったまま、今度は体当たりするように扉に肩を打ち付けた。
と、次の瞬間、いきなり扉が開き、莉世は前のめりに地面に倒れ込む。
「おまえは……こんなところで何を遊んでる?」
振ってきた声に顔を上げるが、差し込む光がまぶしくて、目を細めずにはいられなかった。逆光であるため、そこに立つ背の高い人物の顔を見て取ることはできないけれど。
(朱樹……)
声でそうに違いないと判断した莉世は、胸中でその名を呼んだ。
「まったく……あちこち汚れてひどい格好だな」
彼がしゃがみ込むように膝を折ったため、ようやくその表情がわかった。朱樹は呆れたような、かつ少し心配そうな顔をして、地面に倒れ込む莉世を起こし上げる。
「どこか痛むところは?」
「だ、大丈夫。ありがとう……」
「本当か? 手や足を打ってるんじゃないのか?」
彼は確認するように、素手で莉世の衣装の汚れをはらい始めた。
「待って、あなたが汚れちゃう!」
「いいからおとなしくしてろ。ほら、頬や額にまで土がついてるぞ」
今度は自身の袖で顔の汚れを拭ってくれようとしたので、莉世は座ったまま後ずさる。
「じ、自分でできるから」
「暴れるな。よけいに汚れたいのか?」
大きな手に後頭部を押さえるようにされれば、途端に身動きができなくなった。莉世の顔のあちこちに向けられる琥珀色の瞳。それがあまりに間近にあるものだから、鼓動がひとりでに高鳴ってしまう。
「あの、朱樹さま……そろそろお約束のお時間ですが……」
声をかけられ初めて気づいたが、朱樹の背後には数人の部下がいたようだ。
しかし朱樹は、「黙れ」と部下を一喝する。
「今はこれのほうが大切だ」
そうして莉世の背中と膝裏に腕を回し、ひといきでひょいと抱き上げた。
「ひゃっ……ちょっと、何!?」
いわゆるお姫様抱っこのような体勢に、莉世は目をぱちぱちさせる。
「おい、先ほどの女! ――あるいはそれ以外の者も、あたりにいるんだろう!?」
突如、朱樹は周囲に響き渡るほどの大声で呼びかけ始めた。
「つまらぬ嫌がらせのつもりだろうが、その代償は大きなものになることを覚えておけ! 二度は許さぬからな!」
「って、ただの嫌がらせなの!?」
食い入るように問うた莉世に、朱樹は「だろうな」とあっさりうなずく。
「おそらくあの者ひとりの仕業ではないだろう。指示した者、あるいは協力者がいるはずだ。それが誰なのかは知らぬがな」
そんな、と驚いた莉世は、思わず言葉を失っていた。
「嫉妬が渦巻く後宮などではよくある話だ。よほどおまえがうとましかったんだろう」
つまり、いきなり次代の王妃に決まった莉世に対する、つまらぬ意地悪とのことらしい。
「あっ、朱樹さま……! いったいどちらに行かれるおつもりですか!?」
戸惑う部下たちを尻目に、朱樹は莉世を抱いたまま歩き出した。
「これを部屋まで送っていく。仕事はそれからだ」
「って、必要ない! 自分で帰れるから!」
「おまえ、どうやってここまで来たか覚えているのか?」
問われて「う……」と詰まってしまった。まさか嫌がらせだとは予想だにしていなかったため、この場所への道順など覚えることもなく侍女のあとを付いてきてしまったのだ。
「じゃあせめて下ろして。自分の足で歩けるから」
「おまえが怪我を隠している可能性もあるからな、このまま送っていく」
「やめて、そんなことされたら……」
優しくされたら、調子が乱れてしまう。傲慢で尊大。莉世にひどいことをした彼なのに、こんな一面があるのだと知ってしまえば、怒れなくなってしまうじゃないか。
「しかし幸運だったな。閉じ込められたのがあの場所でなければ、数時間後には凰妃が行方知れずだと騒ぎになってたぞ」
偶然にもあの場所は、朱樹が内廷に向かう道すがらだったらしい。たしかに彼が助けてくれなければ、莉世はしばらく暗闇の中で過ごすことになっていただろう。
「……ありがとう」
ぽつりと呟いた声が聞こえたのか聞こえなかったのか、朱樹は何も言わなかった。
ただ前を向いたまま、莉世を抱いて淡々と歩き続けたのだ。
「申し訳ございませんでした、凰妃さま。まさかこのようなことになろうとは……」
部屋に戻った莉世に、麗佳は幾度も頭を下げてきた。
「気にしないで。待ってるよう言われたのに、勝手に付いていったのはわたしなんだから」
汚れた衣装を脱ぎ、新しいものに着替えた莉世は、こともなげに笑ってみせる。
「しかし、あの火事――結果小火でしたが、あれも凰妃さまから私を引き離すよう仕組まれたものだったようですわ。いったい誰がこのようなことを……」
「朱樹は嫌がらせだろうって言ってたけど」
そんなことを話していると、部屋の扉がノックされた。
「会いたかったよ、僕の花嫁。ご機嫌はいかがかな?」
第二皇子である蒼季が莉世のもとを訪ねてきたのだ。
「待たせてごめん。仕事を抜けるのに手間取ってね」
その言葉のとおり、勤務の最中だったのだろう。彼は昨日とは大きく違う格好――黒い装束を身にまとい、手には籠手のようなものを着けている。太尉という職は、軍事の頂点だと報告書に書いてあったが、訓練の指揮でも執っていたのだろうか。
「わざわざすみません。お仕事が終わってからでかまわなかったのですが」
「まさか君から『会いたい』と言ってくれるなんてね」
「それは……確かに言いましたけど、それは面談――お話をしたかったからです」
「堅苦しいな、その言葉遣い。もっと楽に話してくれないか? つまり、僕に心を許してほしいんだ」
会話がまったくかみ合わない。華やかな顔立ちに甘い笑みを浮かべて、紫色の瞳でひたとこちらを見つめてくるのだから、ついペースを乱されてしまいそうになる。
「じゃあお言葉に甘えて、敬語は無しにさせてもらいます。わたし、あなたたちの教育係になったわけだし」
「零玄から聞いたよ。なんでも僕たちを立派な皇子にしてみせると言い切ったとか。――で、君は僕になにを教えてくれるつもり?」
彼は意味ありげに指で唇をなぞりながら、机の横に立つ莉世のもとへとやってきた。
「できれば男と女に関することがいいな。そう、たとえば恋にまつわる情事について」
「そんなに近寄らなくてもちゃんと聞こえてるけど」
「頬が赤いね。僕を意識してくれてるとうぬぼれてもいい?」
「だ、だから近寄らないでって言ってるの!」
「あの、凰妃さま……お茶はどちらに……」
怒濤の接近に戸惑う莉世の背後で、お茶を運んできた麗佳がやはり戸惑いの声を上げた。
しかたない、こうなれば早々に予防線を張っておいた方がいい。莉世は腰に回されようとする蒼季の手から素早く逃げ、彼の前で空手の型を作ってみせる。紫色の瞳をじっと見据え、臨戦態勢をとった。
「お願いだから離れてくれる? あなただって痛い思いはしたくないでしょ?」
「……見たことない型だな。なんていう武術?」
「前世のわたしの国に伝わる武術で、空手というの」
「なるほど、これで兄上も君を抱けなかったわけだ」
蒼季は苦笑しながら、両手を上げて降参の格好を作った。
「口説こうとして拒否されるなんて、初めての経験だな」
と、その時、部屋の戸口がノックされ、廊下側から麗佳の部下の侍女――結那のくぐもった声が聞こえてきた。麗佳から用を託され遣いに出ていたのだが、戻ってきたらしい。
「遅くなって申し訳ありません。ただいま戻り――」
ました、と言い切る前に結那は、驚いた様子で大きな目をさらに丸くした。
「蒼季さま……!」
瞬く間に彼女の可愛らしい顔が、桜色に染まる。
「お久しぶりです、蒼季さま! ああ、どんなにお会いしたかったことか……!」
「結那、殿下とお知り合いなの?」
莉世の問いかけに、彼女は高揚した様子で「ええ!」とうなずいた。
「しばらくお会いできていなかったのですが、お元気そうでなによりです」
けれど蒼季は、にこやかな表情を崩さぬまま、こともなげに言う。
「ごめん、誰だったかな? 女官はたくさんいて、なかなか覚えられなくて困る」
途端に部屋の中の空気が凍り付いたような気がした。
「そんな……たった二月前のことなのに、もうお忘れになってしまわれたのですか?」
「それより莉世、僕に何の用? まだ仕事があるからね、あまり長くはいられないんだ」
「え、でも……」
まだ結那との話が済んでいなさそうだったので、莉世はもごもごと口ごもった。すると結那は、顔をうつむけたまま麗佳の背後に下がる。なんだかひどく傷ついているように思えて、莉世はますます彼女の様子が気になってしまう。
けれど「さあ凰妃さま、ご用件を」と麗佳にうながされれば、口を開くしかなかった。
「あの、あなたに聞きたいことがあったんだけど……」
すると蒼季は、来客用の椅子に座り、「なんなりと」と足を組んだ。
「じゃあいくつか質問させてね」
彼と机越しに向かい合うよう腰掛ける。
「まずは率直に、皇帝という地位に対する、あなたの意欲を聞かせてほしいの」
「なんだ、そういうことか」
どのような質問をされると予想していたのか、蒼季は残念そうにしながら口を開いた。
「そうだな、真剣に答えるなら、僕はぜひ皇帝になりたいと考えている。なぜならこの国には数多の問題があり、それを解決するだけの能力が僕にはあると自負しているからだ」
まるで就職試験の面接時のように、当たり障りのない返答をする。あまり心がこもっていないようにも感じられるのは、莉世の思い過ごしだろうか。
「数多の問題って?」
「大きいところでは隣国や諸国との外交、民の貧富の差、地方の生活環境の整備、時折起こる流行病への対策――あげ始めたらきりがない」
「それをあなたなら解決できるの? ほかの人では――第一皇子ではいけない?」
「指揮を執るのは僕が一番の適任だと言われ続けてきた」
「言われて続けてきたって、誰に?」
返答まで、しばしの間があった。
「……誰というわけではなく、皆にだよ」
蒼季は取り繕うように、すぐさま声を明るくする。
「それより、もっと違う質問は? できれば僕の私的なことを君に知ってほしいな」
「じゃあ質問を変えるね。――あなた、尊敬している人とか、慕っている人はいる?」
「それは……とくにはいないかな」
嘘だ、と直感した。なぜなら彼の声音に迷いが滲み出ていたからだ。
「本当に? たとえば皇帝であるお父さまとか、淑妃であるお母さまのことは――」
「だからとくにはいないよ」
遮るように強く言われたことで、家族との関係は良好ではないのかもしれない、との印象を受けた。彼の母親はあの淑妃だ。なかなかに強烈な人物である。
「じゃあ趣味は? あなたの好きなものとか、興味のあるものはなに?」
「今は君かな」
今は、って。
「あなた、かなりの女好きなんでしょ? 好色すぎるきらいがあるって噂だけど」
「心配? でも気に病む必要はないよ。これからは君だけだ」
「だからそういうことじゃなくて……」
いいかげんうんざりして、莉世は続く質問を喉の奥に押し込んだ。
何を聞いても甘い笑みと軽い文句ではぐらかされてしまいそうで、なかなか核心へと踏み込むことができない――いや、彼が意図的に踏み込ませないようにしている。
人当たりはいいが、それはおそらく表面だけ。けれど多くの人は、その表面に騙されてしまうのかもしれないと感じた。
(だからといって、あっさり誤魔化されるつもりはないけど)
長年、多くの生徒と向き合ってきた莉世をなめてもらっては困る。取り繕った外面になんて興味はない。莉世は彼の内面にこそふれたいのだ。
「さて、そろそろ仕事に戻らないと。部下が僕を捜し回っている頃だろうからね」
立ち上がった蒼季は、ふと胸の袷から小さな布袋を取り出した。
「これ、君に似合うと思って。次に会う時にはつけていてほしいな」
「え……ありがとう」
袋の口を少し開けてのぞいてみると、中には耳飾りらしきものが入っていた。
「お仕事中なのに時間をくれてありがとう。またお話ししようね」
立ち上がって頭を下げると、一方の蒼季も胸に手をあて優雅な礼を返してきた。そして部屋から去っていく。甘い花のような、かぐわしい香りを残して。
(なかなか手強い……早く本音を語ってくれればいいけど)
早速大苦戦だ。朱樹といい蒼季といい、一筋縄ではいかない相手だと再認識する。
「あの、私、少々所用がございますので、もう一度出かけてきてもよろしいでしょうか」
唐突に願ってきたのは結那だった。
「うん、いいけど……」
莉世が了承すれば、彼女は「ありがとうございます」とさっそく部屋から飛び出していく。ずいぶんと慌てたその様子を目にして、莉世と麗佳は自然と顔を見合わせた。
「すみません、凰妃さま。わたくしも行ってまいりますわ」
「えっ、どうして?」
「あきらかに不自然な様子でしたもの。おそらく蒼季さまのあとを追ったのではないかと」
「だからって、あなたもあとを追うの?」
「部下が皇子殿下に失礼を働いたら大事ですわ。この目で確かめる必要がございます」
「じ、じゃあわたしも行く。結那はわたしの侍女でもあるわけだし」
何が何だかよくわからないまま、莉世は麗佳とともに結那を追いかけた。
そして内廷へと繋がる外廊下をしばらく進んだところで、必死の形相で蒼季の胸元にしがみつく結那を発見する。
「ひどいです、蒼季さま! 本当にお忘れなんですか? またお会いできるのを楽しみにしておりましたのに……!」
「凰妃さま、隠れてくださいませ」
麗佳に腕をひかれ、戸惑いながらも近くの建物の陰に身を隠した。これでは盗み見だ、と心が痛くなったが、いつしか二人の会話に耳を澄ませている自分がいる。幸いなことに、あたりに人影は見当たらないようだ。
「あの夜、蒼季さまはおっしゃってくださったじゃありませんか。私のことを『好きだ』って、『かわいい』って、何度も、何度も!」
結那は声量を抑えることなく、自らの想いをぶつけている。今の彼女に、周囲を気にする余裕はないのかもしれない。
しかし『あの夜』ということは、二人はかなり深い関係にあるのだろうか? その光景をうっかり想像してしまえば、たちまち気恥ずかしくなった。
「あれは嘘だったのですか? 私とこうしていても、蒼季さまはもう何も感じませんか? お願いですから、蒼季さまのお気持ちを教えてください!」
するとようやく蒼季が口を開いた。
「僕の気持ちは変わらないよ。今でも君をかわいいと思うし、好きだとも思う」
「ではまた私と……!」
「ただし君だけじゃなく、女の子みんなのことを、ね」
「え……」
結那の声から、急速に力が失われたような気がした。
「僕に猫みたいにすり寄ってくる女の子のことは、みんな好きだ。かわいいし、夜を共にすれば楽しい。けれどそれだけだよ」
「それだけって……どういうことですか?」
「どうもこうもない。君が僕と寝ることを望んで、僕もそれに応えた。それ以下でも以上でもない話だろう?」
蒼季は微笑を浮かべたまま、淡々と二の句を継ぐ。
「君は僕に何を望んでる? もう一度、抱かれること? それともまさか僕の妃になりたいとでも?」
望んでない、とは言い切れなかったのだろう。結那は顔を赤くして押し黙っている。
「そこまで愚かじゃないなら助かるな。そんな浅ましいことを望まれても、困るからね」
くつくつと笑う声が、秋めいた風に乗って空へと昇っていく。
「今のところ君をまた抱くつもりはないけれど、僕の気もいつ変わるかわからない。相手に不足する夜もあるかもしれないからね。その時は声をかけるよ。それでいいだろう?」
「そんな不確かな機会を待て、と……?」
「不満? でも僕が声をかければ、君はきっとすぐにその脚を開くんだ。僕をねだってね」
「ひどい……! そんなこと……ひどいですわ、蒼季さま……!」
さすがに耐えきれなくなったのだろう。結那は踵を返して蒼季のもとから走り去った。
その表情を見て取ることはできなかったが、彼女は泣いていたように思えた。
(この男……!)
莉世の胸中に生まれ出た怒りが、息吐く間もなく爆発する。
「あっ、凰妃さま! お待ちください!」
麗佳に制止されたが、もう止まらない。莉世は建物の陰から勢いよく飛び出していた。
「この最低男……! どういうつもり!?」
こちらを振り返った蒼季は、莉世のいきなりの登場にさすがに面食らっているようだった。しかしすぐさまその顔に、貼り付けたような微笑が戻る。
「盗み聞きなんて趣味が悪いな。そんなに僕のことが気になる?」
「本当にそう思ってるなら、あなたの頭の中は相当おめでたいことになってるのね」
「なかなか手厳しいね。まあ、そういうところも新鮮だけど」
「手厳しいのはあなたでしょ? なぜあんなにひどいことをするの?」
さきほどの結那とのやりとりで、彼の本性の一端を垣間見ることができた。報告書に『好色すぎるきらいがある』とは記されていたが、まさかここまでだったとは。
「火遊びの後始末もできないなんて、ただの子供じゃない。なにが皇帝よ。女の子ひとりを大事にすることもできないような人が、国を大事にできるなんて思えない」
「ずいぶんな言いようだな」
言いながら彼は、莉世の手を包むように握ってきた。
「君にはあんなことしない。傷つけないように、壊さないように、誰よりも大切に扱うつもりだけど?」
そのまま艶っぽい眼差しをこちらに向けてくるのだから、さらに腹が立つ。
「わたしにどうするつもりかを聞いてるんじゃないの」
やめて、と彼の手を振り払う。すると蒼季は、またしても薄く笑い始めた。
「じゃあ逆に聞こう。あの子を大事に、と君は言うけれど、僕にすり寄ってきては調子のいい言葉を囁く彼女たちのことを、なぜ大切にする必要がある?」
気づけば紫色の瞳の奥に、なげやりな感情が見え隠れしているようにも思えた。
「いつだって僕を利用することしか考えていない、打算的な浅ましい女たちだ。それでも大切にしろと?」
「利用って、べつにみんながそう思ってるわけじゃ――」
「彼女たちは、僕のこの容姿と、皇子という地位を好んでいるに過ぎない。いつだって僕をどうすれば自分のためになるのか、そればかり考えているんだよ」
ちがう、と言ってあげたいと思った。皆が皆、そんなことはないはずだ、と。
けれどそんな無責任な発言はできなかった。なぜなら莉世は彼のことも、彼を取り巻く環境のことも、まだよく知らないのだ。
「だから僕も彼女たちを利用させてもらう。つまり、それで互いの欲が満たされ、良好な関係を築けているんだ。問題ないと思わないか?」
「だけど、それじゃ悲しいじゃない」
「悲しい? 誰が?」
「よくわからないけど……あなたが」
無意識のうちにそう口にすると、蒼季はきょとんとした顔で二、三度目を瞬いた。そしてくつくつと肩を揺らし始める。少し困ったように眉をひそめて。
「だったら君がなぐさめてくれる? ……まあ、物心ついた時からずっとそういう環境で生きてきたからね、僕は悲しいなんて思わないけど」
「物心って……いつから? あなたは最初に誰にそうされたの?」
そこに今の彼が形成された始まりがあるような気がした。
「さあ、誰だろうね」
蒼季のことをじっと見つめる莉世の頬に、彼は手をのばしてくる。
「それを教えたら、君を僕のものにすることを、許してくれる?」
おどけるようにそう言った彼の手の温度は思いの外熱くて、莉世は身じろぎせずにはいられなかった。
(これが……本当の彼?)
見極めなくてはいけないと思えば、手にじわりと汗が滲んだ。今の蒼季からは、先ほど莉世の部屋で会った彼とは、また違う印象を受ける。
だからこそ今なら、彼の本当の気持ちが聞けるかもしれない。そう直感した。
「ねえ、教えてほしいの」
頬に伸ばされた手をとり、彼のほうへとそっと押し戻す。
「さっき、あなたは『皇帝になりたい』って言っていたけど、それは本当?」
あの時、莉世は、彼の言葉にあまり心がこめられていないように感じていたのだ。
「それは本当にあなたのやりたいことなの? 『指揮を執るのは僕が一番の適任だと言われ続けてきた』って言ってたけど、皇帝になることは、あなたの意志じゃなくて、ほかの誰かの意志ってことはない?」
まれにあるのだ。生徒の進路選択の際に、誰かの意志が強く介入し、本人の望む道とは別の進路に進むことが。
まあ、たいていそういう時は、生徒の親が干渉していることがほとんどなのだけれど。
「それを聞いてどうするんだ? たとえば僕が『違う』と言ったら――」
「だったらあなたの本当にやりたいことを聞くに決まってるじゃない」
そう。そして。
「あなたがその道を目指す手伝いをする」
それ以外に何があるの、とばかりに言うと、蒼季は一瞬、虚を突かれたような顔をした。 そして笑う。腹を抱えて、心底面白そうに。
「ははっ! 無駄だよ、そんなこと」
「どうして? なにが無駄なの?」
「だって僕自身、自分がやりたいことなんてわかっていないんだから」
「だったらそれを見つける手伝いを――」
「それでも無駄なんだ。だって僕は操り人形だから……そうしてずっと生きてきたからね」
やがて彼は胸に手をあて、莉世の前で優雅に一礼をした。
「ではまた。僕の未来の花嫁」
* * *
(操り人形って、どういうことなんだろう……)
夕食や風呂を済ませ、麗佳や結那も隣室の侍女部屋に下がらせた夜更け。莉世は蒼季との会話をぼんやり思い出していた。
操り人形。彼はそう言っていたけれど、ではいったい誰のそれなのだろうか?
「やっぱり母親の、とかかな……」
彼の母親はあの淑妃という女性だ、と彼女のことを思い起こしながら呟いたとき。
「何をぶつぶつ言っている」
頭上から低い声が降ってきて、口から心臓が飛び出そうになった。
誰!? とはじかれるように顔を上げると、あろうことかすぐ眼前に背の高い男が立っていた。夜のように黒い髪に、満月のような琥珀色の瞳。
「朱樹……!」
驚くあまりに、思わず面と向かって名前を呼び捨てにしてしまっていた。
「なっ、なな、なんで……!」
「顔を見にきてやった」
偉そうにそう言うけれど。
「頼んでない!」
莉世はつい声を大きくする。
「凰妃さま、何事かございましたか?」
侍女部屋にも響いてしまったのだろう。騒ぎを聞きつけ、麗佳が顔をのぞかせた。
「おい、茶を用意しろ」
朱樹はそう命じるなり、莉世の向かいに置かれた椅子にどかりと腰を掛けた。やがて麗佳と結那は茶や菓子を用意し、「去れ」と朱樹に命じられるまま、隣室へと戻っていく。
「ねえ、『ありがとう』は?」
彼に言ってやりたいことはやまほどあったが、まずはその横柄な態度が目についた。
「麗佳と結那はもう休んでたのに、あなたが無理を言ってお茶を用意させたの。だったらお礼を伝えるべきじゃない?」
「それが侍女の仕事だろう」
朱樹はこともなげに言う。
「そうかもしれないけど、何かをしてもらったら『ありがとう』が基本だと思わない? たとえ仕事でも、そう言ってもらえたら嬉しいもの。それが気遣いだと思うんだけど」
「なぜ俺が下のものを気遣わなくてはならない」
「あなたって……」
あまりに強固な特権意識に、あらためて驚かされる。高貴な生まれゆえにしかたのないことなのかもしれないが、上に立つ者としては、他人を思い遣れる心を養うべきだろう。
「そもそも、あなたこの部屋に勝手に入ってきたでしょ」
「何か問題でも?」
「他人の部屋に入るときはまずノック」
「のっく?」
「戸を叩いて自分が来たことを知らせて、中に入っていいかどうかおうかがいを立てるの。そして夜ならまず『こんばんは』の挨拶。それをするのが常識でしょ?」
「警備兵には止められなかったが」
「それはあなたが皇子だから……」
莉世の部屋の周囲には、常に数人の兵士が配置されている。といっても、外からの侵入者を警戒するというよりは、莉世が逃げ出さないよう監視しているように思える。
「警備兵はあなたが皇子だから止めないの。でもいくら身分が高くても、誰かの部屋を訪ねる時は、ちゃんと手順を踏んだほうがいいと思う」
「ばかばかしい」
「ばかばかしくても次からはそうして。じゃないとあなたとは話をしないから」
まずはそこから。基本的な常識や心持ちから身につけてもらいたかった。
「で、なにをしに来たの? 来てなんて頼んでないけど」
「ずいぶんな態度だな。蒼季をここに呼んだというから、次は俺だろうとわざわざ来てやったというのに」
昼間の行動が筒抜けだ。いったいどこから情報を仕入れているのだろう。
「だからって、こんな遅い時間に来られても困る。お風呂だってもう済ませたのに……」
あとは就寝するのみ、という状況の莉世は、白い薄手の寝間着を一枚、身につけただけの姿だ。なんだか急に心許なくなって、胸元の袷を無意味にかき合わせる。
「風呂? ああ、髪の根本がまだ濡れてるな……よく乾かさなかったのか?」
朱樹の大きな手が、ふと莉世の額にのばされた。前髪の生え際にふれられた瞬間、小さく身体が跳ねる。「やめて」と発した声は、少し上擦ってしまったかもしれない。
「……そんな反応をするな。今すぐ押し倒したくなる」
「は、反応って、べつにわたしは普通ですけど!」
「その顔もだ。抱いてくれと言っているようなもんだぞ」
って、いったいどんな表情をしているのか、自分ではまったくわからなかった。
「そ、そもそもあなたが悪いんだからね! あの夜……」
いきなりキスなんてするから、否応なしに意識させられてしまうのだ。
「あの夜がなんだ、言ってみろ」
気づけば朱樹は、色香を滲ませたような眼差しをこちらに向けていた。まるで獲物に狙いを定めた美しい猛禽類のようで、ついどぎまぎしてしまう。
「俺の口づけでよくなったのを思い出したか?」
「やめて。おかしなこと言わないで」
なんだか妙な雰囲気だ。このままではまずい、と察知した莉世は、仕切り直すように咳払いをした。
「せっかく昼間の件では見直したのに、やっぱり非常識なんだから……第二皇子もとてもまともとは思えないし、この国の未来が心配だわ」
ついぶつぶつ愚痴をこぼすと、朱樹が「ちょっと待て」と眉根を寄せる。
「蒼季はなかなかにしっかりした男だぞ。軟派な態度のせいで、誤解されがちだがな」
「え……」
まさか彼のこと――自分以外の皇子のことを褒めるとは思わなかったので、びっくりした。弟といえども、皇位継承権を持つ者同士、競争相手だ。どちらかといえば厳しい評価を下すものだと思っていたのに。
「……そうなの? 彼のこと、あなたはどう思ってるの?」
「あれは有能だ。今は軍を大きく動かすような事案が無いゆえ訓練の指揮ばかり執っているが、有事の際にはその判断能力と決断力で、状況を容易に優位に持っていけるだろう」
「だったら皇帝になるのは、彼ではだめ?」
すると朱樹は、急に真剣な面持ちになった。
「それとこれとは別問題だな。皇帝には必ず俺がなる必要がある」
「どうしてあなたはそんなにこだわるの?」
皇帝になりたい、と口にしていた蒼季よりも、朱樹の意志は強く、固いようにも感じられる。なぜそんなにも帝位を望むのか、単純に知りたかった。
「どうしてだと? そんなもの国と民のために決まってるだろうが。この国を守り、今以上に繁栄させることが、俺が果たすべき約束だからな」
予想外にまっとうな答えが返ってきたので戸惑った。傲慢で横柄な彼のことだ。国のことより、むしろ自分のことばかり考えているような印象があったのに。
「約束って、誰としたの?」
ふと気になって問うてみると、彼はしばし考え込むようなそぶりを見せた。
そして「大事な人だ」と、ぼかした回答をしてくる。
「それが、あなたが皇帝を目指す理由……」
ひとりごとのように言えば、「付け加えるならば」と続けられた。
「あの腹黒親父と零玄のじじいを黙らせてやるというのもひとつの理由か。……俺は賢帝になって、必ずあの男――皇帝を超える。国の英雄と呼ばれた親父がなしえなかったことを成功させ、退位後も一切口出しできないようにしてやる」
「なしえなかったことって、具体的には何をするつもり?」
「まずは税制と国庫の見直しか。現制度では、身分の低い者が苦しい生活を強いられているからな。今後は裕福な貴族どもからたんまり徴収し、下の者からは減らすよう制度を作り替える必要がある。さらに国庫の見直しで浮いた金を農地改革や潅漑設備へ投資すれば、民の暮らしは豊かになるだろう。そうすることで将来、国は必ず栄えるという算段だ」
「でもそれって簡単にはできないことなんでしょ?」
さきほど朱樹は、『親父がなしえなかったこと』と言った。そこには必ず何か理由があったはずだと思われるが。
「異を唱えるやつらが存在するのはたしかだな」
「それは……税をたくさん徴収される側になる人――貴族とか?」
何かを大きく変化させる時には、必ず摩擦が生じる。とくに権力を持つ者が不利益を被るとなれば、不満は噴出するだろう。
「正解だ。が、あいつらにはほかに様々な特権を与えてあるからな。たとえば政においての人事権なんてのもそのひとつだ。それらを取り上げ、国試を重んじた上で人事のすべてを決める、とでも脅せば、多少の金を払うくらい、なんてことないと判断するだろう」
「あなたって……」
彼のその主張が的を得ているのか否か、正直、今は判断がつかない。
けれど少なくとも彼からは、国を良くしようという熱意が感じられる。強固な意志だけでなく、具体化された設計図をあわせ持っているようにも思えるのだ。
それらに莉世は、またしても驚かされることとなった。
(ただの傲慢皇子じゃないのかもしれない……)
出会った夜に抱いた印象は最悪だった。けれど今日の昼間、彼に助けてもらったことにより、莉世の気持ちに変化が生じた。そして今、国や仕事に対する彼の意欲を聞いた。それに関していえば、彼は皇子としての責任感をきちんと持ち得ているように思える。
「だからおまえには何が何でも俺を選ばせる」
朱樹は挑むような眼差しをこちらに向けてきた。
「でなければ何も始まらないからな」
彼の圧倒的な雰囲気から逃げるように、莉世は小さく息を吐く。
「まだあなたたちと出会ったばかりだもの。自分で見て、聞いて、考えて……わたしは自分が信じる人を皇帝に選ぶから」
強要されても心は絶対に動かない。むしろ離れていくことになるだろう。
「それでもおまえは、必ず俺の名を言うことになるだろうよ」
三月後が楽しみだな、と囁くように言って、朱樹は唇の方端を持ち上げた。
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