第二章 次代の王を選びし者は

朱樹しゅじゅさま、こちらにおいでですか! 朱樹さま!」

 けたたましい声と共に、ドンドンッと断続的に戸を叩く音が、莉世の意識に刺さった。

 何が起きたの!? ただちに覚醒し、反射的に目を開く。

 最初に視界に入ってきたのは、見慣れぬ紺色の天井と、そこから垂れ下がる同色の布だ。それが天蓋であることに気づいた莉世は、勢いよく身を起こした。

(そういえば、おかしな場所に来ちゃったんだっけ……)

 しかも自身の姿が若返り、少女のようになっていたのだから吃驚仰天びつくりぎようてんだ。

 どうやら昨夜は、気を失うような形で眠ってしまったらしい。あの青年がベッドのような場所に運んでくれたのだろうか。様子をうかがうようにあたりを見回せば、寝室らしき室内には、黄金色の朝日が差し込んできている。

(この肌の感触……まだ若返ったままだ、きっと……)

 衣装の胸元を、両手できつく握りしめる。見知らぬ光景に心許なさを覚えるが、いつまでも不安がっていてもしかたない。新しい一日の始まりだ。今日は状況把握と打開に努めようと、どうにか気持ちを立て直した。

「朱樹さま! ここをお開けください、朱樹さま!」

 扉の向こうからは、いまだ矢のような催促が続いている。と、部屋の隅の長椅子に、あの青年――朱樹という名前らしき彼が横たわっていることに気づいた。

「ちっ……もう露見したか」

 さすがに寝ていられなかったのだろう。彼はぶつぶつ文句を言いながら、気だるげに起き上がる。その姿を目にして、莉世の胸中に、怒りがふつふつと沸き上がってきた。

(まさか、寝てる間に何かされてないよね?)

 なにせ昨夜、キスをされたばかりか、襲われかけたのだ。

 慌てて視線をやれば、乱れのない衣服や寝具が目に入り、ほっと安堵の息がもれる。

「目覚めたか」

 こちらに気づいた朱樹が、欠伸あくびをかみ殺しながらやってきた。

 その直後、ひときわ大きな声が響き、部屋の扉が外側から破られる。

「無礼は承知で突破させていただきます! こちらに凰妃さまがいるのでしょう!?」

 唖然としている間に、男たち数人が部屋の中になだれ込んできた。かと思うと次の瞬間、莉世の視界に映る光景が目まぐるしく変わる。

(え……?)

 あろうことか朱樹は、またしても莉世のことをベッドのようなものに押し倒したのだ。

「ああ、やはりこちらに――朱樹さま!?」

 黒い帽子をかぶり、鎧のような衣服を着た男たちは、揃って驚きの声を上げた。

 無理もない。この状況はどう見ても、男女の情事の最中だろう。

「ちょっと、あなたまた……!」

 噛みつくように文句を言いかけたところで、大きな手に口をふさがれてしまった。

「――ほう、凰妃をお抱きになりましたか、朱樹さま」

 やがて兵士のような男たちの背後から、白髭をたくわえた老人が現れる。結った白髪の上に、冠のような帽子をかぶった彼は、兵士たちとは異なる黄色の衣装を着けていた。

(この人……どこかで会ったことがある?)

 朱樹に組み敷かれたままの体勢で、ふとそのようなことを思った。濃い緑色の瞳に、どことなく見覚えがあったのだ。

「抱いたか否か、聞かなくてもわかるだろう、零玄れいげんよ」

「さて、この状況だけではなんとも判断しかねますなぁ」

「ねだられて今、ふたたび可愛がろうとしていたところだ。邪魔してくれるなよ?」

 朱樹は莉世の口元を手で覆ったまま、これ見よがしに額に唇を寄せてくる。

 ふざけるのもたいがいにして! と、莉世は反射的に足を出した。朱樹の腹部に膝蹴りをお見舞いし、痛みに顔を歪めたすきに、彼の下から這い出し自由になる。

「嘘です! 抱かれてなんていませんから!」

 逃げるように立ち上がり、声を大にして主張した。

「なるほど、凰妃はこうおっしゃられていますが、さていかに」

「照れているんだろう。あるいは昨夜が良すぎて、夢とでも思ったか」

 朱樹はあっけらかんとした顔で、そう言い放つ。

「嘘吐くのはやめて。なんなら力尽くで本当のことを言わせてあげましょうか?」

 怒りに拳を握っていると、零玄と呼ばれた男が、「まあまあ」と莉世をなだめてきた。

「何が真実かくらい、この老いぼれ、わかっておりますぞ。ですからどうぞその拳をしまってやってくだされ。これでも一応、我が国の第一皇子殿下でいらっしゃいますのでな」

「え? 皇子?」

 小説や漫画の中でしか聞かないような単語に、莉世は眉根を寄せた。

「おや、ご存知ありませんでしたか」

 あたりまえだ。そんなこと、莉世が知っているはずもない。

「しかし朱樹さま、まさか凰妃を寝所に連れ込むとは……ずいぶんと汚いことをされましたのぉ。それでいて絶好の機会を逃すとは、なんとも情けない」

 零玄は、小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「なるほど、零玄、この俺で遊ぶつもりか」

「いやはや、それにしてもなかなか肝の据わった凰妃ですのぉ。これは楽しみじゃ」

「そんなことより、ここはいったいどこですか? その『凰妃』って?」

 なにより現状を把握したくて、莉世は零玄に詰め寄った。

「教えてください。自分の身に何が起きているのか、知りたいんです」

「ではこのあと、たんと説明させていただきましょう。我が鳳国の、皇帝陛下の御前でね」

 どうやらここは『鳳国』と呼ばれる場所らしい。初めて耳にするその国名に、やはり自分は異世界に迷い込んでしまったのだと確信する。

「ささ、あちらから外へ。まずは着替えたほうがよろしいですかのぉ」

「いえ、それよりも早く説明を!」

 そう懇願するも、結局は零玄に促され、外廊下へ出されてしまった。

 さんさんと降り注ぐ朝日。おそらく季節は夏の終わりあたり、時刻は朝の七時頃だろう。やや秋めいた風が、頬をなでるようにして吹き抜けていく。

 外廊下の部屋の前には、兵士らしき男たちが数人、整然と並んで立っていた。と、その中にひとり、あきらかに毛色の違う青年が混じっていることに気づく。

 無意識のうちに眺めてしまっていると、その彼がすぐさまこちらにやってきた。

「君が凰妃?」

 朱樹とはまた違った印象の、華やかな顔立ちをした美形だ。

 歳は莉世の生徒たちと同じ十七歳くらいだろうか。結われた長い髪は珍しい銀色で、優しげに細められた目元には、紫色の瞳が輝いている。

「ねえ、君だろう? 僕の妻になってくれる凰妃って」

 その意味が理解できずに黙っていると、彼はなぜか莉世の耳元に唇を寄せてきた。

「名前を教えて。凰妃なんて名称じゃなくて、君の名を知りたい」

「名前……? 結城莉世ですけど」

「莉世。かわいい響きだ。何度でも飽きずに呼びたくなるような、ね」

 いきなり甘い声でささやかれて、どうしていいのかわからず、莉世はどぎまぎした。

 いったい誰なのだろう、この彼は。見るからに上等そうな衣装を身につけているけれど。

「ねえ、今、僕がなにを考えているかわかる?」

 いきなりそんなことを聞かれても、わかるはずもなかった。

「今すぐにでも君と親しくなりたいと思ってる」

「あの、すみません、あなたはどなたですか?」

「僕のことならいくらでも教えるよ。でもそのかわいい唇に、僕を知ってもらったあとだ」

 唇。まさかキス? 唖然としている間に顎をつかまれ、顔を上向けられた。

「いくつもの言葉を交わすより、このほうがずっと距離が縮まると思わない?」

「い、いえ! まったく思いませんけど……!」

 突然の展開に焦りながらも、莉世は次第に冷静さを取り戻し始める。

「あの……とりあえずこの手、離してもらえますか?」

 まずは一度、距離をとろうと、顎に添えられた彼の手を必死に払いのけた。

「残念だな。一度したらきっとくせになるのに」

「一度したら、って……」

「ふぉっふぉっ、凰妃、そちらはこの国の第二皇子、蒼季そうきさまです」

 第二皇子。ということは、朱樹の弟? 

 零玄に言われて振り返れば、いつしか彼と朱樹が背後に立っていた。

「久しいな、蒼季。三月ぶりか」

 朱樹はやや強ばったような表情で、弟に声をかける。けれど一方の蒼季は、返事をすることなく、すぐさま視線を逸らしてしまった。

(これは……どちらの皇子も問題ありに思えるけど)

 自分の生徒たちの中にも、これほど強烈な個性を持つ者はいなかった。

 そんなことを考えながら、莉世は肺が空になるほどの息を吐いた。


 その後、莉世は別部屋で着替えをさせられた。

 侍女のような女たちに着付けられたのは、ビスチェのような形をした上着に丈の長いスカートが付いたもの、そして真っ赤な布地に金銀の刺繍が刺された豪奢な衣だ。さらに髪を結われ、化粧をほどこされ、首や耳に金細工の宝飾品を飾られる。

 そうして身支度を済ませたのちに連れて行かれたのは、内廷という場所にある一室だった。そこはこの国の皇帝陛下の、ごく私的な執務室らしい。


「そなたが凰妃か」

 しんと静まりかえった部屋の中に、朗々とした声が響いた。

 やがて床に膝を付いた莉世の前に、端正な顔立ちをした、五十そこそこに見える男が現れる。色鮮やかな紫色の衣をまとい、龍の彫刻がほどこされた椅子に座った彼こそが、この国の長である皇帝なのだという。

(すごい威圧感……)

 穏やかな表情をしているのに、琥珀色の瞳はちっとも笑っていない。刃のように鋭い雰囲気は、彼の息子である朱樹と出会った際に感じたものとよく似ていた。

「さて陛下、凰妃は状況をまったく把握しておらぬようですが」

 皇帝の背後に立つのは零玄だ。莉世の横には朱樹、蒼季の皇子たちが膝を付いている。

「ならば零玄、おまえが説け」

「では僭越せんえつながらこの老いぼれが」

 零玄は白い髭をなでつけながら、一歩、前に出た。

「ことの始まりは、鳳凰からの託宣を、占術師であるこのじじいがいただいたことです」

 彼は歌うような調子で続けた。

「それは今から三月ほど前のこと。『じきに鳳凰の眷属である姫ーー『凰妃』が目覚める。彼女を娶りし皇子こそが、この国をさらなる繁栄へと導くだろう』というものでございました。折しもその前日には、陛下が内々に御譲位をお決めになられていた。そのため陛下は、その凰妃を娶った皇子を次代の皇帝に命じることを決定なされたのです」

 なんでも鳳凰とは、青龍、白虎、玄武と合わせて四神と呼ばれる神獣のことらしい。五色の羽根を持つ大鵬で、ひとたび羽ばたけば千里を翔けるのだという。

(昨夜、花火大会の時に襲われたあの奇妙な鳥が……)

 やはり鳳凰だったということなのだろう。

「この国は、千年前とも言われる建国の頃より、鳳凰を崇め続けてまいりました」

「その瑞獣からの託宣となれば、もはや至上命令と同等」

 そう付け加えたのは皇帝だ。

「それで……まさかわたしが、その『凰妃』だと……?」

 おそるおそる問うと、零玄はあっさりうなずいた。

「昨夜、あなた様がおられた場所は、鳳凰の神殿の中にある泉。そしてあなた様を守るように立っていたあの神獣こそが鳳凰ですからのぉ、もはや疑いようがありますまい」

「ちょっと待ってください、そんなことあるわけありません! ……たしかにわたしは昨夜、鳳凰らしき鳥に襲われて湖に落ちました。なぜだかわからないけど、目覚めたらあの泉の中にいました。だからってわたしがその、凰妃? であるわけないじゃないですか」

 混乱する気持ちが、口から次々あふれ出した。

「それにわたしの身体、おかしいんです。本当のわたしはもっと歳をとっているはずなのに、なぜか若返っていて……なにがなんだか、もう……」

 けれど零玄は、さらに話を押し進めようとする。

「あなた様が凰妃であることを示すものが、もうひとつ。あなた様の首元にある、炎の翼を象った印です。それは鳳凰の紋章にほかなりません」

 皆の視線が、一様に莉世の首元に注がれる。昨夜、赤い光とともに確かにそこに現れた印。それはいまだ消えずに衣の下に刻まれていた。

「そんなことを言われても……どうしてこれがあるのかもわからないのに」

「私どもも詳細な経緯はわかりませぬ。けれど鳳凰が、一女官であったあなた様を、次代の王を選ぶ『凰妃』として定められた。それだけは動かしがたい事実ですのでなぁ」

 そこで莉世は、ふと疑問を覚えた。

「一女官って……誰のことですか?」

 たしか昨夜、朱樹もそのようなことを言っていたような気がする。『女官服を着ているが、ただの女官が凰妃として目覚めたわけではないな?』と。

「誰とはまたおかしなことを。あなた様にほかなりますまい」

 零玄は淡々と続ける。

「あなた様は昨日まで、後宮で女官として働いておられた。下級女官だったゆえ、王族の皆さま方のお顔に覚えがないのも無理はありませぬが……名は『璋莉世しょうりせ』、歳は十五。幼い頃にご両親を亡くし、長らく叔母上に育てられたとか」

「あ……」

「あなた様で間違いありませぬな?」

 璋莉世。その名を聞かされた刹那、頭を鉄槌で殴られたかのような衝撃を受けた。

 嘘だ、そんなことあるわけがない。そう否定しつつも、『璋』という自分の姓、この国での後見人である叔母の顔、後宮での女官としての生活、同僚の姿ーー記憶の断片のようなものが、次々と脳裏に浮かんでは消えていく。

(そんな、だってわたしは、昨日まであの世界で生きていて……)

 そう、自分はつい昨日まで、日本という国で生きていたはずだ。教職に就き、『莉世ちゃん先生』と呼ばれ、たくさんの生徒たちに囲まれていた。

 それにあの花火大会の夜を、鮮明に思い起こすことができる。弾ける光の花、鼻先を掠める火薬の匂い、偶然会った生徒たちの声ーーそれらはやはり、つい昨夜の出来事だった。

 けれどそれと同時に、零玄の言葉を裏付けるような記憶がうっすらと脳裏に存在しているのもたしかだ。あの黄緑色の女官服は、今思えば毎日袖を通していた馴染みのあるものだったかもしれない。勤務を終えた昨夜は、誕生日だからと同僚の皆が祝ってくれ、幸せな心地で眠りについたような気もする。そして目覚めたら。

(あの泉に、鳳凰とともにいたんだ……)

 莉世はごくりと息をのんだ。

 では結城莉世はやはり、あの花火大会の夜に死んでしまったのだろうか? 鳳凰に襲われ、湖に落ち、生徒たちの目の前で溺死するという最悪の形で。

「どうされたのです。まさか昨日までのことを忘れてしまったわけではありますまい?」

 零玄の問いかけは、もはや莉世の耳には入ってこなかった。

(たとえば、よ。たとえばの話だけど……)

 昨夜、自分は死んでしまったと仮定する。

 けれどおかしなことに、莉世の脳裏には、この国での昨日までの記憶がうっすらと存在している。後宮で働く下級女官、璋莉世、十五歳としての記憶が。ということはもしや。

「生まれ変わった……?」

 そう、異世界に迷い込んだのではなく、生まれ変わったのだ。それも、十五年も前に。

「だって……生まれ変わりなんて、そんなこと……」

 零玄の話と自分の記憶を信じるならば、十五年前、莉世は鳳凰に襲われ、湖に落ちて命を終えた。直後、ここ鳳国で新たな生を受け、成長した。そして十五の誕生日を迎えた夜に、なぜだかわからないが、前世の記憶と人格を取り戻し、凰妃として目覚めたのだ。

 そう考えれば、すべてに辻褄が合ってしまう。自身の外見が、若返った理由も。

「わたしは……」

 震える拳を握りしめ、うつむけていた顔を上げた。

 いつしか額には冷たい汗が大量に浮かんでいる。きっと顔色もひどく悪いに違いない。

「わたしに……何をさせるおつもりなんですか?」

 ぼんやりとした意識のまま問うと、皇帝がにやりと笑った。

「さきほど零玄が言ったとおりだ。そなたには余の息子二人のどちらかを、夫に選んでもらいたい。そしてそなたが選んだその男こそが、次代の王となる」

「あの、つかぬ事をお聞きしますが、もしわたしがその役目を辞退した場合は……」

「そなたの叔母の家――璋家を取り潰すまでだな」

 つまり拒否権は与えられていない、ということだ。

(ひどい……そんなこと言われたら、従うしかないじゃない……!)

 けれど、どうしてもこのままうなずく気にはなれなかった。なぜなら了承したその瞬間に莉世の運命は曲げられ、不自由なものとなってしまうことが明白だからだ。

(ただでさえ鳳凰に殺されて、生まれ変わりを強いられたかもしれないのに……)

 これ以上、自分の人生、めちゃくちゃにされてたまるものか。

 そう決意した直後、胸中に怒りの感情がむくむくと生まれ出る。

 それはやがて力に変わり、莉世の背筋をまっすぐにした。

「陛下、ご提案があります……! というか、わたしの願いをきいていただきたいんです」

 抵抗する意志が、声に宿ったような気がした。

「ほう。して、その願い、とは?」

「それは……その、なんて言えばいいのか……」

 しばし考え込んだのち、莉世は、これだ! とぽんと手を叩く。

「わたしと取引をしてくださいませんか?」

 こちらの覚悟を感じ取ったのか、あるいはこれから口にする内容を察したのか、皇帝は皇子たちを部屋から下がらせた。つまり執務室には莉世と皇帝、そして零玄のみとなる。

「申してみろ」

「まずはわたしの状況に関して、説明させていただきたいんです」

 ひとつ、深呼吸。震える声でどうにか、自分が推測した事の経緯を話して聞かせた。

 十五年前のとある夜、鳳凰に襲われ、生まれ変わりを強いられたこと。そして昨夜、前世の『結城莉世』としての記憶を取り戻したことを。

「なるほど。それが鳳凰の言う『凰妃の目覚め』であるなら、凰妃に選ばれたのは前世のそなた、ということになる」

「その上でご提案をさせていただきたいのですが……」

 吉と出るか凶と出るか、一か八かの賭だった。

「わたしは前世、教師として多くの生徒と関わってきました。ですから人を見る目はあると思う――いえ、あります。それに空手――武術も身につけているので、有事の際にも対応できます! おそらく、皇子殿下方とじっくり向き合うことができると思うんです」

 まずは自分の長所や売りを必死に口にする。

「それに、皇子殿下方の教育のお手伝いをすることだって可能です! 失礼ですが、それぞれに難――いえ、個性がありすぎる方々だと感じましたので……」

「で、そなたの望みは」

「陛下のご命令どおりに、凰妃として、次の皇帝を全力で選ばせていただきます。代わりに、そのお相手との結婚はご容赦していただきたいんです! 皇帝の選定が終わったあとは、お願いですからわたしを自由にしてください……!」

「次代の王妃になることを望まない、と?」

「だってあの二人、とてもまともじゃ――」

 なさそうだもの、と言い切る前に、しまった、と慌てて口を閉じた。いくらなんでも親の前で子供を『まともじゃない』とは、御法度だ。

「ご、ごめんなさい……! ええと、つまりわたしが言いたいのはーー」

 しかし皇帝は、「はははっ!」と盛大に破顔した。

「そのとおり、あれらはとてもまともではない。恥ずかしい話だが、今のままでは到底皇帝など務まらぬだろう」

「だったらなおさらわたしに教育させてください!」

 莉世は前のめりになるようにして言った。

「教育。それはどのように?」

「それは……礼儀礼節とか、人として大切な心持ちの部分になりますが……とにかく彼等を教育します。必ず立派な皇子にしてみせますから!」

 だからどうか自由を与えてください! と、莉世は重ねて懇願する。

 すると皇帝は、「ふむ」と数秒考えるようなそぶりを見せたのち、目を細めた。

「おもしろい。その取引に応じよう」

「本当ですか!?」

「陛下、なりません」

 間髪入れずに零玄が割って入ってきた。

「それでは鳳凰の託宣を違えることになります。当初の予定どおりにことを――」

 しかし皇帝はすっと右手を挙げ、零玄の言を遮る。

「もう決めたことだ。実際、あれらには手を焼いていたからな。今のまま帝位を譲ったところで、いずれ国が傾くのは明白だ」

「ですが……」

「取引成立だ。頼んだぞ、凰妃」

「は、はい……!」

 思わぬ結果に、莉世は身震いした。だめもとで持ちかけた取引なのに、まさか了承してもらえることになるなんて、僥倖だ。

「ありがとうございます……! 必ず結果を出してみせますので!」

 実際、莉世には自信があった。七年間、教師として勤めてきた自分だ。その経験はきっと、彼等に対しても役に立つに違いない。それに自分の生徒たちとそう年が変わらない彼等のことをこのまま放っておきたくはないと、教師としての血がたぎり始めてもいた。

「ただし条件を二つ加える。期限は三月後の本日の日付まで。そして婚姻の件が無くなったことを、皇子たち含め誰にも明かしてはならぬ。託宣を違えることが知れたら事だ」

 三か月。かなり短い期間だが、これ以上、こちらの希望を押し通すことは難しいだろう。

「――はい。わかりました」

 覚悟を決めて、深々と頭を下げる。

 と、その時、「失礼いたしますわ」との声とともに、部屋の扉が外側から開かれた。

「なんでもいよいよ凰妃が出現したとか。わたくしにもぜひ紹介してくださいませ」

 視線を向けた先には、金色のあでやかな衣装を身につけた、美しい女が立っている。

 年齢は三十代半ばくらいだろうか。結い上げられた髪にはたくさんのかんざしがさされ、首や耳元には派手な装飾品が輝き、一目で身分の高い女性であることが予想された。背後に控えるのは、揃いの衣装を着た幾人もの女たちだ。おそらくお付きの女官だろう。

「これはこれは淑妃さま、いったいどうなされましたか」

 すぐさま零玄が声をかけたが、淑妃と呼ばれた彼女は応えることなく中へ入ってきた。

「まあ、そなたが凰妃? ……あらまあ、ずいぶんかわいらしいこと。かように目を丸くして……まるで鯛の群れに放り込まれた鮒のよう」

 莉世の眼前に立った彼女は、遠慮することなく好奇の眼差しをぶつけてくる。

「そなた、次の皇帝には必ずわたくしの皇子を選んでちょうだいね。血迷っても第一皇子なんて選んではだめよ。あの者の性根は最悪だもの。その点わたくしの皇子は――」

「淑妃」

 言を遮ったのは皇帝だ。

「あれらをどう評するかは凰妃次第だ。何人たりとも介入することは許さぬ」

 けれど淑妃はこともなげに微笑む。

「あら、わたくしは善意でお話しているのですよ。見たところ凰妃はいまだ幼い。正しい判断ができるか否か、疑問だとは思いませんこと?」

「しかし淑妃さま、彼女は鳳凰に選ばれし女人。ご心配には及びませぬぞ」

「黙りなさい、零玄。今にも死にそうな老人の意見など、わたくしは聞いてはおりませぬ」

 淑妃はふたたび皇帝に矛先を向ける。

「そもそもこの場になぜわたくしが呼ばれなかったのか、はなはだ疑問ですわ。わたくしの皇子の将来に関わることですもの、わたくしも同席する必要がございましょう? そういう点でも陛下にしっかりお考えいただかないと、今後も何かと支障が――」

「淑妃、そなたは余の機嫌を損ねにきたのか?」

 地を這うように低い声音が、皇帝の口から発せられた。

「去れ。そなたの声を耳にすると頭が痛くなる」

「あらまあ、それは由々しきことですわね。そうだわ、わたくし付きの医師はとても優秀ですの。早急にこちらに呼び寄せましょうか?」

「淑妃さま、それにはおよびませぬ。陛下は本日もご予定が詰まっていらっしゃるゆえ、どうかお引き取りくださいませ」

 間を取りなすように零玄が言えば、ようやく淑妃は去る気になったようだった。

「では今日のところは下がらせていただきますわ。――凰妃、期待していますよ。そなたが誤った判断をすれば、数多の死人が出るおそれがあることをゆめゆめ忘れぬよう」

 最後までにこやかな表情のまま、お付きの女官を従え、部屋から去っていく。

 その勢いに完全にのまれ、莉世は唖然としてしまっていた。

 気品に満ち溢れた優雅な貴婦人。笑う声は鈴のように軽やかで、仕草のひとつひとつはつい凝視してしまうほどに洗練されたものだった。だからこそ、より恐怖を感じてしまう。

「今の御方は、第二皇子である蒼季さまのご尊母さまです」

 零玄の説明に、疑問を抱かずにはいられなかった。

「ということは、第一皇子とは母親が違うということですか?」

「おっしゃるとおりです。ちなみに先ほどの御方は淑妃という、今の後宮で最上位にあられるお方。――はて、女官であったあなた様は覚えていらっしゃいますかな?」

 いいえ、と首を横に振る。

 自分がこの世界で十五年、生きてきたということは、漠然と理解できた。けれど記憶はうっすら。まるで靄がかかったように不明瞭で、ほとんどのことを覚えていないのだ。

「零玄、あとはおまえに任せる。余は左丞相に用があるゆえな」

「陛下、その前に少々お時間をくださいませ」

「小言は聞かぬぞ?」

 皇帝が扇を鳴らすと、莉世の背後にある戸口から数人の侍女らしき女たちが現れた。

「ささ、凰妃さまはどうぞお隣のお部屋へ」

 どうやら皇帝と零玄の話が終わるまで待機せよ、ということらしい。導かれるまま、立ち上がって踵を返す。

 これから自分がどうなってしまうのか、正直、不安は拭えなかった。けれどやるべきことと真摯に向かい合うしかない。そう考えて、莉世は下唇をきつく噛みしめた。


   *   *   *


「で、零玄よ、どうせ託宣の件だろう?」

 臣とふたりきりになるなり、皇帝はさっそく口を開いた。零玄の要件は、あえて聞かずともわかっている。が、ここで自分の考えを明確に伝えておく必要があった。

「どういうおつもりか、この老いぼれに説明していたけますかのぉ、陛下」

 背後からは、呆れたように溜息を吐く音。

「どうもこうもない。おまえの予見どおりだ」

 前を見据えたまま応えると、重ねて息を吐く気配がした。

「ということは、凰妃と交わした約束は反故にする、ということですな?」

 言われて口元に笑みが浮かんだ。さすが腹心の臣。自分の思考傾向をよく理解している。

「鳳凰の託宣を違えるつもりは毛頭ない。――が、取引に応じなければ、あの娘の意欲は湧かないだろうからな」

「応じたふりをして、あとで強引に婚姻させる、と。ずいぶん悪趣味ですなぁ」

「今に始まったことじゃあるまい?」

 言いながら、皇帝はすっくと立ち上がった。すでに太陽は空に昇り、陽光を惜しみなく降り注いでいる。急がなければあとの予定に支障が出てしまうだろう。

「おまえは今日の会議は欠席しろ」

「御意。凰妃に関わるるあれこれを進めさせていただきます」

 深々と礼をする零玄を残し、皇帝は執務室をあとにした。

「さて、これであいつも目覚めてくれればよいが……おまえとの約束を果たせるか否か、見物だな、雪鈴よ」

 皇帝の脳裏には、今はもう亡い愛しい妻の顔が浮かんでいた。


   *   *   *


「こちらがあなた様に生活していただく部屋になります。奥は寝室としてお使いくだされ」

 莉世が私室として与えられたのは、後宮の入り口付近に位置する二部屋だった。そこは皇子たちそれぞれの宮からもほど近く、彼等との交流も持ちやすいという。

 その場所を零玄に案内してもらったあとには昼食をとり、生活道具や衣装を準備するための採寸や、莉世の世話をしてくれる女官や国の重臣たちの紹介など、なにかと慌ただしく過ごした。そして夕食をとったあとには勉強の時間だ。府庫と呼ばれる図書室のような場所で、この国に関する基礎知識を零玄から教授されることとなったのだ。

 生まれ変わってからの記憶のほとんどを失ってしまった莉世にとっては、わずかながらも知識を得られることはありがたかった。そのためどうせならば自習に励もうと、府庫から数冊の書物を借りて部屋に戻ることにした。「はて、そんな時間がありますかのぉ」と、零玄は笑っていたけれど。


「おつかれさまでしたわ、凰妃さま。長い一日でしたわね」

 そう言いながら莉世のうしろを歩くのは、莉世付きの女官である新麗佳だ。歳は二十四歳。涼しげな目元が印象的な美人で、物腰や言動から上級女官であることが予想される。

「そうですね、正直、つかれました」

 苦笑しながら応えれば、「またそのような口調で」と、これ見よがしにがっかりされた。

「何度お願いすればわかってくださるのでしょう。凰妃さまがそのようにかしこまられる必要はございませんわ。もっと気安い口調でお話しくださいませ」

「あ、はい……ごめんなさい、努力します」

 実はもう何度も注意されていたのだが、そうすることはなかなか難しかった。

 出会ったばかりの相手と敬語を用いずに喋ることは、莉世にとっては難易度が高い。なんでもそうしなければ、彼女たちが困るのだというけれど。

「書物、重くありませんか? ほかの者たちにも手伝わせましょうか」

「三冊くらい大丈夫で……大丈夫。それにあなたはもっと持ってくれているし」

「せっかく借りてきましたけれど、明日も何かとお忙しくなるかもしれませんもの。今宵はすぐに湯浴みをして、おやすみになりましょうね」

 そんな会話を交わしながら、部屋に向かって内廷の外廊下を進んでいた時だった。

「あら、凰妃さまのお部屋の前に、どなたかいらっしゃるようですわ」

 言われて首を巡らせると、たしかに戸口の横に、誰かがよりかかっているようだった。

「あれは……」

「まあ、第一皇子殿下でいらっしゃいますわね」

 夜に溶け込むような黒髪に、空に浮かぶ満月のような琥珀色の瞳。外廊下の提灯の火に照らされているのは、たしかに朱樹だ。

 こんな時間に、いったいなにをしにきたのだろう?

(謝るっていうなら、話を聞いてあげなくもないけど)

 いまだ襲われかけたことを根に持っている莉世は、口を一文字に結んで彼の前へ立つ。

「遅かったな。零玄と府庫にいたのか」

「こんばんは。何の用? ようやく謝ってくれる気になった?」

「謝る? 俺が?」

 彼はきょとんとした顔で目を瞬いた。どうやらそのような気は毛頭無いらしい。

「凰妃さま、殿下にお部屋に入っていただいたらどうでしょう」

 しかし麗佳のその提案に、莉世は「冗談じゃない」と首を横に振った。

「部屋になんか入れたら、また変なことされるかもしれないもの。この人、すきあらば手を出そうとしてくるケダモノなんだから」

 すると一方の朱樹は、「変なこと?」と、眉根を寄せる。

「おまえは昨夜のあれが、『変なこと』だと思ってるのか?」

 あれ。つまり口づけやベッドの上に押し倒したことを言っているのだろう。

「子供だな。――いや、教え込む楽しみがあると前向きに捉えるべきか」

 独り言のように呟かれた言葉に、ぞっと寒気を覚える。

「言わせてもらうけど、わたしの中身は二十九。あなたよりずいぶん大人なんだからね」

「ならば逆に俺に教え込んでくれるとでも?」

「だからそういう意味じゃなくて……!」

 と、そこまで言ったところでふと気づく。

「教え込むって、ある意味、正しいかも。だってわたし、あなたたちの教育係になったんだもの。これからいろいろと躾なおさせてもらうから」

 すると朱樹は、小馬鹿にするように笑った。

「どちらかといえば俺がおまえを調教するほうだろう?」

 毎夜、俺をねだらずにいられなくなるようにな、と、彼は唇の端を持ち上げる。

「ち、調教って……変なこと言わないで! というかあなた、何しにきたの?」

 彼のペースに乗せられていてはダメだ。さっさと要件を聞いて追い返そうと、莉世は彼のことを睨み付けた。すると朱樹は、莉世のことをいきなり外廊下の壁に押しつけてくる。

「おまえに忠告をしに」

 脚の間を割って、彼の膝が入ってくる。背には壁、眼前には朱樹、両腕には零玄から借りた書物。途端に身動きが取れなくなり、莉世は焦った。

「ち、忠告って、なに」

「おまえ、あの男――皇帝となんの取引をした?」

 血が繋がった父親のことなのに、まるで他人のように呼ぶ。

「言えない。そういう約束になってるから」

 朱樹は「だろうな」と鼻で笑った。わかっているなら聞かないでほしい。

「あいつには気をつけろ。信用しないほうがいい」

「どういう意味? あなたのお父さまでしょ?」

「あの男の腹の内は真っ黒だ。国のためならおまえとの取引なんてあっさり反故にするぞ」

 その瞬間、嫌な予感が胸中を駆け抜けた。

 まさか初めからそのつもりで、莉世との取引に応じた、という可能性もあるのだろうか。

(でも、そうだとしても、わたしにはああする以外に道はなかったもの……)

「ありがとう。一応、覚えておく」

 すると朱樹は、莉世の頬に手をのばしてきた。

「感謝は行動でしめすべきだな」

 彼がまとう雰囲気が、いきなり艶めいたものに変わる。

「もしかして、わたしをおとそうとしてる? でも無駄だから。わたしはあなたたちの人間性をちゃんとみて皇帝を選ぶって決めたの」

「それを聞いて安心した。昨夜までは面倒だからさっさとおまえを抱いてしまおうと思っていたが、そうもいかなくなったからな」

「だったらもうこんなことする必要ないじゃない」

 息をのむほどに整った顔立ちが、間近に迫る。琥珀の瞳に射るように見つめられれば、さすがにどぎまぎして心臓が高鳴った。

「……そうだな、おまえにもうひとつ忠告しておいてやろう」

 顔の横の壁に手をつかれ、逃げ出すことは不可能になる。

「俺はなんとしてでもおまえを手に入れる。どんなことしても、必ず、確実に、だ」

「それほど皇帝になりたい、ってこと?」

「なりたいんじゃない。ならなければいけないんだ」

 いつしか彼の表情は鬼気迫るものに変わっている。

「だから覚悟しておけ」

「何を?」

「俺のものになる覚悟、だ」

 囁くように言われた直後、本を抱えている腕を、大きな手で押さえつけられた。

「蒼季に譲る気はさらさらないからな」

 何をする気? と身がまえる間に、彼の顔が近づいてくる。またキスをするつもり? 反射的に顔を横向けたところで、くすりと笑う声がした。

「今日は勘弁しておいてやる。が、俺以外の誰にも許すなよ」

 いつしか閉じていた目を開けると、彼は唇を重ねることなくゆっくり離れていった。

 そして莉世の前から颯爽と去っていく。紺色の衣を翻し、どこか満足げな後ろ姿で。

「凰妃さま、大丈夫でいらっしゃいますか?」

 一部始終を見ていた麗佳が、遠慮がちに莉世の顔をのぞき込んできた。

 けれど応えることはできない。戸惑いが頂点に達した莉世は、朱樹が去っていった方角を睨み続けることしかできなかったのだ。

(なんなのよ、あのひと……)

 口づけられていないのに、なぜか唇が熱い。そっと指でふれると、そこに彼のぬくもりがあるような気がした。昨夜のキスを思い出してしまったからだろうか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る