第一章 その神獣に選ばれし者は

 ひゅるるるっ! と特徴的な音が響いたかと思うと、赤、青、黄、緑、白――色とりどりの鮮やかな花が夜空に咲く。途端に周囲が明るくなり、観客から歓声が上がる。

 少し遅れてやってくるのは爆発音だ。ドンッ! と鈍い音が胸を震わせた直後、かすかな火薬の匂いと、水の香りが鼻先をかすめる。

「わっ、きれい! 仕事中ですけど、つい見入っちゃいますね!」

 六つ年下の後輩教師――鈴木沙織の弾んだ声に、結城莉世、二十九歳は頬をゆるめた。

「うん、本当にきれい」

「ああ、こんな日にデートじゃなくて仕事だなんて、最悪ですよね。べつに生徒が遊んでたってかまわないと思うんですけど。見回りなんて必要なくないですか?」

「毎年、会場から離れた場所をうろつく生徒が必ずいるの。問題が起きないよう、わたしたちが目を光らせないと」

 しかめっ面の後輩に、莉世は見回り仕事の必要性を説く。

 今夜は市の花火大会。莉世が勤務する高等学校の近くで催される、夏の風物詩だ。会場となる湖の沿道には観客や屋台がごった返し、たいへんな賑わいをみせている。

 今年で勤務七年目になる莉世は、この仕事ももう七度目になる。一方、採用されたばかりの沙織は今回が初だ。浴衣姿の恋人たちがあたりを行き交う中、地味な仕事に徹しなければならないのが不満なのだろう。ときおり思い出したように文句を言っていた。

「そういえば結城先生、今日、誕生日でしたよね?」

 ふいに聞かれて、莉世は声を明るくした。

「覚えててくれたの? そう。今日で二十九になったの」

「おめでとうございます! って、プレゼントとかはないんですけど」

「気持ちだけでじゅうぶん嬉しい。ありがとう」

 笑顔を返すと、沙織は哀れむような眼差しをこちらに向けてくる。

「それにしても、誕生日の夜に見回り仕事っていうのもつらいですよね」

「そんなこともないけど。ちゃんと時間外手当だってもらえるし」

「手当って……あ、そういえば結城先生がマンション買おうとしてるって聞きましたけど」

「えっ、誰に聞いたの?」

 いきなり言い当てられて、莉世は驚きを隠せなかった。その件に関しては検討し始めたばかりで、まだ誰にも相談していなかったのに。

「内覧会で見かけた人がいるって……ていうか、絶対にやめたほうがいいですよ!」

「でも、このまま賃貸アパートに住み続けるのももったいないし」

「だって結城先生、結婚の予定も、彼氏もいないんですよね?」

 うん、とありのままを答えると、沙織が神妙そうな顔で首を横に振る。

「だったら実家に戻ればいいじゃないですか。最高ですよ、実家。何もしなくてもご飯は出てくるし、洗濯ものだって畳まれた状態で戻ってくるし、朝も起こしてくれるし」

「それはそうかもしれないけど……」

 なんとも返答に困り、言葉を濁してしまった。なぜなら莉世は、十歳の時に交通事故で両親を亡くし、叔母に世話になった末に成人したからだ。

 就職と同時に自立したが、もとより一人っ子だった上に祖父母は他界しているため、叔母以外の身内はいない。もちろん、戻れる実家も存在していない。

「とにかく、独身のうちにマンションと犬は買わない方がいいですよ! 婚期が遠のくってよく言いますからね」

「えっ、そうなの?」

 引きつった顔で聞き返した時、莉世の肩掛けバックの中で携帯電話の着信音が鳴った。周囲の騒音に邪魔をされながら出ると、通話相手は同じ学校に勤務する先輩教師だった。

 どうやら観覧会場から外れた場所で、高校の生徒らしき数人がうろついているのが目撃されたらしい。途端に莉世の教師スイッチがオンになる。

「指導しに行かなくちゃ」

 電話を切るなり踵を返し、早足で歩き始める。湖面を渡る風に吹かれて、明るい栗色の髪と、紺色のワンピースの裾がふわりとなびく。

「あっ、待ってくださいよ!」

 追いかけてくる沙織と共に観覧会場からしばらく歩くと、やがて湖の東の端に着いた。そこは雑木が密集して立っている、ひときわ薄暗い場所だった。そのため屋台も出ていなければ、花火目当ての観客の姿も見当たらない。

(東側の雑木林付近にいる、高校生らしき男の子……きっとあの子たちだ)

「あなたたち、高校生でしょ?」

 背格好からそうに違いないと声をかけると、こちらを向いた三人が目を丸くした。

「あれっ、莉世ちゃん先生じゃん」

 驚くことに、彼等は莉世の担任するクラスの生徒たちだった。

 しかも莉世が顧問を務める空手部にも揃って所属しているため、普段から関わりが深い。

「ちょっと、ここで何してるの? 会場外をうろつくのは禁止されてるでしょ?」

「なんだよ先生、あんたも花火を見に来たのか」

 生徒のひとりが、生意気に莉世のことを『あんた』呼ばわりした。

「先生、どうせなら一緒に花火見る? 先生たちも女子二人でつまんないでしょ?」

 べつの生徒が、莉世の肩にいきなり腕を回してくる。

「先生たちは仕事中なの。ほら、今すぐこの手をどけて。それから年長者を『あんた』なんて呼んじゃだめだからね」

「まあまあ、そんなに怒らないで、ね?」

「どけないなら、今ここで空手の指南をするけど?」

 言うなり息を吸い込んだ莉世は、身をよじって生徒の腕から逃れた。

「えっ、ちょっ、先生!?」

 流れるような動作で生徒の正面に回り、右手を上段横に振り上げる。狙うは彼のこめかみだ。肘と手首を回転させながら垂直に出し、側頭部に手刀を打ち込む寸前で止めた。

「さっすが結城先生! 生徒たちから『ヒト属最強』って呼ばれてるだけありますね!」

 黄色い声を上げたのは後輩教師の沙織だ。当の生徒は両手を上げ、「まいりました」と降参の格好をつくっている。

「いい? これは体罰じゃなくて、空手部顧問としての指南だからね」

「たしかに、見事な外手刀打ちだったけど」

「とにかく、あなたたちは今すぐ観覧会場のほうに行って。ここで会ったことは、ほかの先生たちには内緒にしておくから」

 会場はあっち、と、莉世は賑わっている方角を指さした。

 けれどその直後、その場にいた皆が揃ってはっと息をのむ。

「うわっ! なんだ……!?」

 鼓膜を激しく揺らす風切り音が、突如、間近で聞こえたからだ。

 何が起きたの!? と身をかがめながら、莉世は天を仰ぐように顔を上向けた。

「なんだあれ……何かいるぞ!」

 皆が視線を向けた紫紺色の空に、きらりと光る碧玉の双眸が見えたような気がした。

 おそらく大きな鳥だろう。夜に溶け込むようにしているが、空気を切り裂き、羽ばたく音が頭上から降ってくる。

 ふと背筋が凍り付くような感覚に襲われ、ワンピースの胸元を強く握りしめた。気づけばその生き物は、獲物に狙いを定めるかのように、鋭い眼差しをこちらに向けている。

「危ないから逃げて……! 湖には落ちないで!」

 生徒に向けて叫んだ直後、ひときわ大きな花火が上がり、あたりが明るくなった。

(あれは……化け物だ!)

 知らず、恐怖に打ち震える。夜空を舞うように飛んでいたのは、孔雀や雉に似た形の美しい鳥だった。けれどただの鳥ではない。なぜなら大きさと色が凡庸ではないからだ。

 赤、青、緑、金、銀――鮮やかな羽に彩られたその体躯は、人が跨がれるほどに大きく見えた。あんなにも巨大な鳥は日本に――いや、世界のどこにだって存在していないはず。

(まるで……鳳凰みたいな)

 そう。以前、美術部が催した絵画展で、あのような鳥の絵を見たことがあった。架空の生物である神獣を題材にしたそれには、『鳳凰』との題が付けられていた記憶がある。

「先生、あんたのほうに行ったぞ!」

 生徒の声に、はっとした。

「だから『あんた』はやめなさいってば!」

 気づけばその鳥は、矢のような勢いでこちらに向かってきている。

 距離が近づくほど、その不可思議な姿に身の毛がよだつ。這々の体で雑木の間を抜け、身を屈めてかわしても、翼が生み出す風圧に煽られ、足元がふらついた。

「ああっ……! そっちはダメ!」

 いつの間に莉世の側にいたのだろう。生徒のひとりが、化け物の攻撃から逃れるため後ずさった。けれど背後はもう湖だ。お願い、届いて! と、莉世は手をのばし、彼の左腕を全力で引く。はずみで自分自身が前のめりになってしまっても、かまわなかった。

「莉世ちゃん先生……!」

 生徒たちに名を呼ばれた直後、水面を割る音がけたたましく響き渡った。

 湖に落ちた! そう認識した時にはすでに、生ぬるい水中でもがくように前転していた。

「やだ、結城先生、何やってるんですか! 溺れちゃいますよ!」

 って、好きで落ちたわけじゃないんだけど! と考えながら水面上に顔を出し、呼吸を整える。このような状況下で平常心を失えば、大事故に繋がるということはわかっている。

「先生、大丈夫か! 今、助けるからな!」

「平気! 今、上がるから……! 心配しないで!」

 水泳は得意だから大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、岸に上がろうと手をのばした。

 けれど、異変はすぐさまやってきた。いつしか莉世は、湖面の下に引きずり込まれるような水流に捕らわれていたのだ。

「先生? おい、どうした!?」

「結城先生! 大丈夫ですか!? こっちに来られないんですか!?」

 沙織や生徒たちからの呼びかけに答える余裕は、もうなかった。

(違うの……おかしいの。何か変なの……!)

 体の自由を奪われ、たちまち岸から遠ざかっていく。突然の窮地に正気を失い、いけないとわかっていても、じたばたもがいて体力を消耗してしまう。

 やがて莉世の口の中に、空気を奪うように水が侵入してきた。

(わたし、死ぬの……? 誕生日だっていうのに、ここで終わりなの……?)

 見えない何かに引きずり込まれるように、体が水の中へと沈んでいく。

 頭上に視線をやれば、ゆらめく水面の向こうで鮮やかな夏の花火が、弾けて消えた。


   *   *   *


「ねえ、莉世ちゃん先生は、どうして先生になろうと思ったの?」

 まぶしい光の中をたゆたいながら、莉世は過去の思い出を夢に見ていた。それは今から数か月前の春の日のこと。進路指導中に、とある女子生徒に問いかけられた場面だった。

「先生は進路を迷わなかったの? だって職業って、たくさんあるじゃない」

「うん……でも先生は迷わなかったな。小さい頃から先生になりたいって思ってたから」

 夕方の陽光が差し込む、進路指導室。莉世とテーブルを挟んで向かい合う彼女は、将来を迷う重要な時期だ。それを支え、決断を下す手伝いをするのは、教師の大きな仕事のひとつだと莉世は考えている。

「先生の両親もね、先生だったの。父親は高校の社会科教師で、母親は中学の美術教師」

「だから先生になろうと思ったんだ?」

 莉世は微笑みながらうなずいた。

 そう。数ある職業の中から教職を目指した理由は、両親からの影響が多分にあった。

 教師だった両親は時に厳しく、時に優しく指導にあたり、生前、多くの生徒たちから慕われていた。幼いながらに、それを誇らしく感じていた莉世は、事故で二人が他界したあと、こう思ったのだ。――将来、自分も教師になりたい。多くの人たちから愛された父と母のように、生徒ひとりひとりに寄り添える存在になりたい、と。

「だからがんばったの。勉強も、空手も」

「どうして空手も? 関係なくない?」

「だって自分の生徒になにか危ないことがあった時、助けたいじゃない」

 目標を得た莉世は勉学に励み、大学在学中に教員免許を取得、卒業と同時に採用試験に合格し、願い叶って夢の舞台へと上がることができた。幼い頃、父のすすめで始めた空手も習い続け、今となっては伝統的流派で三段と認められるまでに強くなった。

「そっか。じゃあ先生の生徒になった私は、幸せだね。こうして相談にものってもらえるし、危ないことがあれば助けてもらえるし」

 そう言って、女子生徒ははにかむように笑った。

「じゃあそう思い続けてもらえるように、先生ももっと努力しなくちゃね」

 生徒が迷ったときには、全力で支える。生徒の身に危険が迫る何かが起こった際には、なんとしてでも守ってみせる。なぜなら自分はそのために教師になったのだから。

(それなのに、まさか奇妙な鳥に襲われて、溺れて死んじゃうなんてね……)

 しかも祝うべきはずの、誕生日の夜に。

 あの場にいた皆は無事だろうか? 自分はちゃんと、生徒たちを守れたのだろうか?

 考えて焦燥感に駆られた時、耳元で水音が響いたような気がした。

(どうしてまだ水の音が? だってわたしは……)

「死んだんだよね……?」

 不思議に思ってつぶやけば、思ったよりも声が大きく出て驚いた。

 もしかして、まだ生きてるの? 不安と期待を胸に、おそるおそる重いまぶたを上げてみる。そして次の瞬間、あまりのことに驚愕する。

「化け物……!」

 目を開けた莉世の前――手を伸ばせば届くほどの至近距離に、例の巨鳥がいたのだ。

 瞬時に覚醒する。反射的に身を起こし、拳を握って臨戦態勢をとった。気づけば長い髪や体から、冷たい水がしたたり落ちている。

 どうやら莉世は、浅い泉の中で、仰向けに寝転んでいたらしい。化け物から距離をとるため座ったまま後ずさると、突如、喧噪が耳に飛び込んできた。

「姫が寝覚めたぞ……! もしや彼女が凰妃さまか!?」

「見ろ! 鳳凰さまのお姿の、なんと神々しいことか!」

 割れんばかりの歓声が、莉世の身に降り注ぐ。

 いったいなにが起きているの? 理解できなくて、目を白黒させた。けれど周囲に視線をやれば、自身が置かれている状況が、次第に把握できてくる。

 今は夜。莉世が座り込んでいるのは、水が張られた、石造りの泉の中だった。そこに向かい合うようにして、あの巨大な鳥――鳳凰が立っている。

 それを目当てに集まったのだろう。周囲には、松明を手にして泉を取り囲む人だかりがあった。何より不思議なのは、その人々が揃って妙な格好をしていることだ。

 男は頭に黒い帽子をかぶり、鎧にも似た同色の服を着ている。女は結った髪に飾りを付け、赤や青や黄――色とりどりの変わった形の衣装を着けている。

 人だかりの向こうに見えるのは、赤い提灯がいくつも提がった瓦屋根の建物だ。古い木造建築だろう。彫刻が施された柱や外廊下の手すりは、赤や緑で派手に塗られていた。

(何なの、これ……)

 目を疑うような光景に、莉世は眉根を寄せた。

 彼等が喋っている言葉は理解できるものの、ここが日本のいずれかだとはとても思えない。自分は花火大会中に湖に落ちたはずだが、溺死したのではなかったのか?

 疑問を抱いて自身の手や頬にふれてみれば、今までと変わらぬ感覚や感触がきちんとあった。ということは、莉世は生きている。今、間違いなく。

(どこなの、ここ……全然知らない場所。そう、まるで異世界のような)

 異世界。そんなことあるわけがない、と胸の内で否定しながらも、自身の心臓が大きく鼓動するのを感じていた。

 もしや、迷い込んでしまったのだろうか?

 にわかに信じがたいが、自分の生きてきた世界ではない、どこか別の場所に。

(この奇妙な鳥に、襲われたせいで……?)

「おお、鳳凰さまが動かれるぞ!」

 その時、眼前に立っていた鳳凰が、天を仰ぐように顔を上げた。

 直後、莉世の体に激しい衝撃が走る。

 首元の皮膚が焼け付くように熱くなり、口から自然とうめき声がもれた。慌ててその箇所に視線をやると、左の鎖骨あたりが真っ赤な光に包まれている。

「ひっ……だからなんなの、これ……!」

 やがて光と痛みが同時に引けば、莉世の肌には鳥の翼のような形の図が浮かび上がった。

「鳳凰さまの紋章だ! ということはやはりこの方が凰妃さまに違いない!」

 ふたたび周囲の人々から歓声が上がる。

(こわい……よくわからないことに巻き込まれてしまってる!)

 泉の中、莉世は首もとをおさえながら立ち上がった。いつの間に着替えさせられたのだろう。ふと気づけば自身も黄緑色のおかしな形の衣装を身につけている。

「鳳凰さまが飛び立たれるぞ! 皆、邪魔をするな!」

 泉の中にいたその鳥が、突如、大きな翼を動かし始めた。

 激しい風圧を体に感じたかと思うと、巨大な体躯がふわりと浮き上がる。やがてそれがゆっくり空へと昇っていけば、皆の視線は一心にそちらに注がれた。

 絶好の機会だ! と、その隙に莉世は、身を屈めて人混みの中に紛れ込んだ。

「すみません……通してください、ごめんなさい!」

 とりあえず、ここから、少しでも遠くへ。けれどすぐさま背後で声が上がる。

「凰妃さまがいない! どこかへ行かれてしまったぞ!」

 凰妃。それが自分のことを指しているのだと予感すれば、心臓を握り潰されるような心地に陥った。いつしか数え切れないほどの足音が、莉世のあとを追ってきている。

(だめ! 水滴の跡を見つけられれば、すぐに捕まっちゃう……!)

 そう予感して身震いした、その時だった。

「え……」

 突如、誰かに右腕をつかまれ、ぐいと引き寄せられた。

 疾走していた莉世は、相手の胸元に飛び込むような格好で止まる。邪魔をしないで! 怒り任せに顔を上げると、そこにはつい見入ってしまうほどに美しい容姿の青年がいた。

(すごい……)

 その迫力に、自然と息をのんでいた。

 艶やかな黒髪に、透明感のある白い肌。満月のような琥珀色の瞳と、目元を縁取る長いまつげ。整った顔立ちはぞくりとするほど美しく、かすかな色香すら漂わせている。

「こっちだ」

 彼は莉世の手を強引に引き、そのまま走り出した。

「えっ、ちょっと……!」

 こっち、とはいったいどっちのことだろう。莉世を追っ手から逃がしてくれるつもりなのだろうか? 紺色の衣を着た彼の背を追うことに必死で、問う余裕がない。

 彼に連れて行かれるままに、立ち並ぶ木造建築郡の間を疾走する。石像や東屋がある庭園を横切り、裏門のような場所からまた違う建物群へと入る。

 そうして十数分ほど走れば、やがてとある部屋へとたどり着いた。

「入れ」

 中に飛び込んだ莉世は、くずおれるように床に座り込んだ。

 どうやら追っ手からは無事に逃げ切れたらしい。あたりは水を打ったように静まりかえっていて、自分の呼吸音だけがやけに大きく響いている。

 けれど、いったいなぜこんな目にあわなければいけないのだろう?

 ぼんやり考えながら顔を上げれば、やはりこちらに顔を向けた青年と目があった。刃のように鋭い視線にさらされ、莉世の心臓はたちまち跳ね上がる。

 二十歳くらいだろうか。高校の生徒たちよりずいぶん大人びているが、莉世よりは間違いなく年下だ。それでもその迫力ある容姿に気圧され、気づけば息をのんでいた。

「あ、あの……」

 何から質問すればいいのかわからず戸惑っていると、青年がまたしても莉世の腕をつかんできた。ぐいと引き寄せられ、無理に立ち上がる。その拍子に、またもや彼の胸元に飛び込むような形になってしまう。

「ごめんなさい、すぐ――」

 離れますから、との言葉は、喉の奥でかき消えた。

 なぜかいきなり顎をつかまれ、奪うように口づけをされたのだ。

(え……?)

 唇に感じる、生暖かな感触。腰を抱くように引き寄せられれば、やがて口づけはより深くなった。離れる間際に、啄むようなキス。莉世の頭の中は、途端に真っ白になる。

「……唇が冷たいな。身体が冷えてるのか」

 呆然としている間に濡れた前髪を撫でつけられ、そのまま隣の部屋へと連れて行かれた。

(ちょっとまって……今、なにが起きたの?)

 ガチャリ。寝室らしきその部屋に入るなり、青年は後ろ手に鍵を閉める。

「鳳凰の託宣などどうでもいいが、おまえを手に入れなければ皇帝にはなれないからな」

 彼は独り言のように呟いたかと思うと、莉世のことをいきなり押し倒してきた。

「心配するな。ちゃんとよくしてやる」

 ふと気づけば、琥珀色の瞳が間近に迫っている。頬に感じるのは彼の呼気だ。ベッドのようなものに押し倒された。そう気づいたのは、両腕に彼の手の温度を感じてからだった。

「どう、して……」

 莉世は一瞬、呼吸することを忘れた。

 青年は仰向けの莉世に、覆い被さるような格好をしている。捕らえられるようにつかまれた両手首が痛い。脚の間に割り入れられた彼の膝が、莉世の動きを完全に封じている。

 彼は莉世の上着の袷に手を差し込むと、いきなり胸元をはだけさせてきた。

「やっ……何するの!」

「鳳凰の眷属であることを示す印……間違いないな」

 ぽつりと呟くなり、青年は莉世の首元に顔を埋めてくる。

 皮膚をなでる柔らかな髪の感触に、体温がたちまち上昇する。大きな手が頬から首にかけてを這うようにすれば、思わず体が小さく跳ねた。

「ちょっと待って……待ってってば!」

「暴れるな。優しくしてやれなくなる」

「そういう問題じゃない!」

 好きにされてたまるものか! と、莉世は身をよじって彼の下から逃れようとした。

 それでも彼が動じなければ、いよいよ戦闘スイッチがオンになる。こうなったら実力行使しかない。押し倒されたままの体勢で、彼の腹部に膝蹴りをお見舞いした。

「くっ……何をする」

 ようやく自由になった右手で拳をつくり、それを彼の顔めがけてまっすぐ繰り出す。

 しかしその正拳突きは、すんでのところでかわされてしまう。

「どういうつもりだ」

「それはこっちのせりふ! いきなりキスするってどういうこと!?」

 キス、という言葉の意味がわからないのか、青年は怪訝そうに眉をひそめた。

「だから、口づけのこと!」

「だが、悪くなかっただろう?」

 悪びれもなく言われれば、莉世の怒りが沸騰した。こうなったらもう彼が非を認めるまでは許さない。ベッドのような場所から降り、いつでも攻撃できるようにと体勢を整える。

「今すぐ謝って」

「謝る? なぜ俺が?」

 あとを追うようにして、青年も立ち上がった。

「なぜって、今、わたしを襲おうとしたじゃない!」

「まさか俺に抱かれることが不満だとでも?」

 あまりに堂々と聞き返されて、莉世は唖然とせざるを得なかった。

「あ、あなたそれ、本気で言ってるの?」

「おまえこそ正気か? 俺を知らないわけじゃあるまい?」

 その口ぶりから察するに、おそらく彼は、とても身分の高い人物なのだろう。部屋の調度品や彼の身につけている衣服から、かなり裕福であることも見て取れる。

 けれど中身はまるでダメ。特権意識が強い、ただの傲慢男に思えた。

「あなたがどこの誰かなんて知らないし、どうだっていい。だって、とてもまともな人だとは思えないもの」

「おまえ……」

 苛立っているのか、それとも面白がっているのか、青年は腕を組むなりくつくつ笑った。

「なるほど、よほど世間を知らぬらしい」

「どうもお世話になりました。二度と会いたくないので永遠にさようならお元気で」

 ひと息で言い切った莉世は、さっさとこの場を立ち去ろうと扉へ向かった。けれど。

「食べかけの獲物をみすみす逃がすと思うか?」

 背後から腕をつかまれ、強い力で引き寄せられた。

「わたしは獲物なんかじゃない。ばかにしない――で!」

 振り返るなり大きく踏み込み、青年の脇腹狙って蹴りを繰り出す。

「くっ……かなりの跳ねっ返りだな」

 避けきれなかったのだろう。うめき声をもらした彼は、「待て」と右手を前に出した。

「一度中止だ。まずは話しを――」

「それよりも謝罪が先!」

 攻めの手は緩めない。今度は彼の膝裏に横蹴りをくらわせ、床の上に仰向けに転がす。その上に馬乗りになり、首元に手刀を突きつけた。

「いい? これは体罰じゃなくて指南だから。これに懲りたら考えをあらためてよね」

 自然と口から出たのは、空手部の生徒たちが悪事を働いた際に言っている台詞。

「おまえは……いったい何者だ? 女官服を着ているが、ただの女官が凰妃として目覚めたわけではないな?」

 彼は莉世の下で、訝しげに眉をひそめている。

「わたしは結城莉世。私立高校に勤める、いち教師だけど」

 女官服? と疑問を抱きながら、莉世は自身の名を告げた。と、その直後、ふと部屋の隅に置かれていた鏡が視界に飛び込んでくる。

「え……」

 知らず、息をのんでいた。

(ちょっと待って、どうして……? だって、これって……)

 そんな、と愕然とする。嘘だ、そんなことあるわけがない、と。

「どう、して……」

 呆然と立ち上がった莉世は、部屋の隅に置かれた鏡へ、おぼつかない足取りで歩み寄った。それに映った自分の姿へ、おそるおそる手をのばす。

 コンプレックスでもある丸顔、年齢の割には幼く見える顔立ち、長い栗色の髪に、やや低めの身長。それらは間違いなく莉世自身だった。

 けれど、違う。あきらかに見た目が若返っている。

 最近の莉世からは失われていたはずの肌の透明感、頬の張り、血色の良い桃色の唇。

 鏡の中にいたのは、まるで十四、五歳の少女の頃のような自分だったのだ。

「うそでしょ……なんなの、これ……だってそんなこと……」

 次々と巻き起こる事態に、心身ともに限界。頭から血の気が引き、強い目眩に襲われた。

(ああ、だめだ……もう本当に無理)

 目に映る全てのものがぐるぐると渦を巻き、急激に気分が悪くなる。

 そうこうしているうちに意識が薄れていく感覚に襲われ、鏡に寄りかかるようにしてまぶたを閉じた。

「おい、どうした?」

 問いかける青年の声は、どこか遠くで響いていた。けれどそれが現のものなのか、それとも夢の中のものなのか、その時の莉世にはもうわからなくなっていたのだ。

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