序章 その姫を娶りし者は
ここ鳳国の地に、色とりどりの金蓮花が咲き始めた、ある初夏の日。
内廷の一角にある皇帝の執務室の中に、朗々とした声が響き渡った。
「――余はいよいよ譲位するぞ」
それを耳にした瞬間、皇帝の第一子である朱樹は、琥珀色の目を見開いた。
長きに渡り鳳国を統治してきた、やり手の皇帝。国の英雄と呼ばれる切れ者の策士は、五十を迎えても病ひとつせず健康であった。そのためいましばらくは王の座を降りる気などないのだろうと予測していたのだが、その地位を譲り渡すといきなり言う。
「譲位……だと? 本気なのか?」
ひとりごとのように呟いたのち、朱樹は拳をきつく握った。
「ということは父上、この朱樹にその椅子を譲られるということですね?」
床に付けていた膝を上げ、すっくと立ち上がる。目に映るのは父が座る玉座だ。龍の彫刻が施されたそれは金銀で彩られ、まばゆく輝いている。
(ようやくこの時がきた……約束を果たす、この時が!)
どくんどくんと、自身の心臓が大きく鼓動するのを感じる。せきたてられるように感情が高ぶり、いつしか身体が熱くなっている。
けれど次の瞬間、冷や水を浴びせられたような感覚に陥った。
「何を言う、朱樹。余の息子はおまえだけではないだろう?」
父が、意地の悪い笑みを広げたからだ。
「まさか……長子の俺を、差し置いて……?」
愕然として視線を動かした先には、朱樹とは母違いの弟――十七歳の蒼季がいた。彼はやはり驚いた様子で目を丸くし、朱樹の隣で膝を付いている。
朱樹は「はっ」と、乾いた笑声をもらした。
「つまらぬ冗談はやめていただきたい、父上。――それともまさか冗談ではない、とでも?」
腹の内を探るように問うと、父は手にしていた扇をぱちりと鳴らした。と、父の背後に側近である老齢の臣が立つ。名は零玄――御史大夫であり、高名な占術師である男だ。
「昨晩、零玄が鳳凰からの託宣を受けてな」
「鳳凰はこのじじいにこう託されました」
零玄は歌うように言を紡ぐ。
「じきに鳳凰の眷属である姫――『凰妃』が目覚める。彼女を娶りし皇子こそが、この国をさらなる繁栄へと導くだろう、と」
「つまり、どういうことなのですか?」
弟の蒼季が父に問うたが、我慢できずに朱樹が答えた。
「つまり、その凰妃に選ばせるということだろう。俺たちのどちらが、その凰妃とやらの伴侶に適しているか――ひいてはこの国の皇帝に適しているのか」
声に出した直後、ばかばかしくて呆れた。
なぜこんなにも重要な問題を、ひとりの女の判断に託さなければならないのか。いくらそれが鳳凰の意志だとしても、その女がまともな人物か否かもわからないのに。
「茶番だな」
つい本音をこぼすと、父がにやりと薄笑いを浮かべた。
「気が乗らぬのなら降りてもいいのだぞ、朱樹。なれば蒼季の頭上に王冠をのせるまでだ」
知らず、悔しさに拳を握る。父は今回の件を、完全におもしろがっている。
(望むところだ……ならばその凰妃とやらを手にし、すぐさま帝位を奪ってやる)
なにせ朱樹には果たさなければならない、大切な約束があるのだから。
「どうぞ楽しみにしていてください、父上殿。どんな女が現れようと、この朱樹が我がものにしてみせますよ」
捨て台詞のように言い置いて、朱樹は父の執務室をあとにした。
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