その2
春の風が草原を優しく撫でている。抜けるような青空の下、ザドス山脈の雄大な自然をバックに、黒鳥城はますます輝いて見えた。
「いいお天気ですねえ。こんな日に、外にベッドを持ち出してのんびりなんて、すばらしいチャレンジですわ」
メリールウがベッドごと運ばれてきたのは、城を見下ろせる位置にある崖の上の草原だった。山の麓の平原を、大きな河が悠々と流れていく様まで広く見通せる。
「黒鳥城も本当に美しいですし、まるで一幅の絵のよう。あれがエーマ河で、そのほとりにあるのは、私が眠っていたネティラの街ですわよね」
豊かな水量により、バイレールやリトリーナを始めとした近隣諸国の生命を支える一方で、激しい氾濫を起こすことも多い暴れん坊として有名だったエーマ河。二百五十年後の世界でも、雄大な流れは健在のようだった。岸辺に見える大きな街がネティラだろう。
「それにしても、エーマ河にあんなに大きな橋が……治水技術も上がっているのですね。あら、あれは……?」
川幅が広いこともあって、頑丈な橋をかけることが難しく、かけてもすぐ流れてしまうエーマ河。移動魔法や水を制御する魔法に頼らねば渡るのに難儀した河に、馬車でも平気で渡れそうな大橋がかかっているとは驚きだった。しかもその上を、馬車よりもっと大きな何かが煙を上げて走っている。
「この後、景観が変わるかもだけどな……」
アントニオにとっては見慣れた光景である。むしろ見慣れた光景がとんだことになる予感のほうが問題らしく、疑問を覚えるメリールウを尻目にヴィクトールに食ってかかった。
「ヴィクトール様、やっぱりやめたほうがいいって! でかい魔法をぶっ放したら人目を引く!! ただでさえ、国王夫妻のお越しが近いんだろう!?」
国王夫妻、という一言に少しだけ眉をひそめたヴィクトールであるが、この反論は想定内だったようだ。豪奢なマントの裾を風に遊ばせながら、事も無げに言った。
「俺たちが魔法の実験で大きな音を出したり、何かを破壊したりするのはいつものことだ。今さら騒がれることもあるまい。……恐れて来なくなるなら、それに越したことはない」
「自覚はあるんだな」
思わずつぶやいたアントニオにサフィールも加勢する。
「でも、山を吹き飛ばすなんて、本当にやめたほうがいいのでは……? アントニオさんもおっしゃいましたけど、景観が変わる可能性があります。国王陛下が来なくなるのは別にいいですけど、観光客の数が減るかも……これ以上財源が減るのはまずいですよ」
「あら、失礼ですけれど、辺境伯は危険な任務だからこそお金持ちであるのでは……?」
他国との境にある辺境伯といえば、常に隣国の動きに警戒せねばならない重職である。その分権限も大きく、懐が豊かで、時には王をも凌ぐ存在へと成長する。だからこそ、国王が視察に来るのだと思っていたのだが。
「二百五十年前はそうだったのだろうな。しかし現在、隣国との和平条約も締結されているため、かつてのような緊張状態はない。従って、辺境伯は文字どおりの左遷先という訳だ」
そういえば彼は、オストアルゴに「飛ばされた」との表現を使ったのだった。メリールウの恐縮の意味をヴィクトールは誤解したらしい。
「大丈夫だ、イーリー。オストアルゴ自体がそう豊かではないのは事実だが、サンロード家には強力なパトロンが付いている。お前に不自由をさせたりはしないので、嫌わないでほしい」
「いえ、多少の不自由ならば、新たなチャレンジとして受け止めますけれど……でも、ありがとうございます」
相変わらずの物言いに微笑むメリールウの横でサフィールは浮かない顔をしている。
「パトロン、か。あまりロベルト商店を財源として頼るのもよくない気がするんですよね、僕……」
「とにかく、景観を損なう可能性については心配しなくていい。本日狙ってもらうのは、あの一帯のハゲ山だ」
話を戻したヴィクトールの手袋に包まれた指先が指すのは、連なるザドス山脈の一番東側である。
「確かに、あのあたりだけ、妙に緑が少ないですね。魔法……のせいでは、ないでしょうけど」
そちらを見やってメリールウが相槌を打つと、ヴィクトールは「そうか、お前は知らないか」とつぶやいた。
「あの山がハゲたのは、そら、丁度ネティラの駅に停まっている、あの蒸気機関車のせいだ」
「じょうききかんしゃ?」
ヴィクトールが遙かな眼下に指し示したのは、さっきメリールウが眼を留めたモノだ。黒くて四角い、馬車が何台も連結したようなそれは、確かにネティラの端で停まっている。
「蒸気の持つ熱エネルギーによってピストンを動かし、動輪を回して走る巨大な馬車のようなものだ。決められた線路の上を定期的に走り、駅という施設で停まっては人や荷物を上げ下ろししている」
「蒸気? あら、ということは、蒸気使いの方が操っていらっしゃる……?」
「蒸気の使用に知識や訓練は必要だが、魔力やエーテルは不要だ。蒸気を作り出すための火は主に石炭を燃やして得ている」
「まあ、なんてすばらしい! 今の時代の人たちは、あれに乗って河を渡るだけではなく、あちこち旅をすることができるのですね!! すてき! いつか蒸気機関車にもチャレンジしてみたいですね!!」
はしゃぎ出したメリールウを、ヴィクトールは不思議そうに見つめた。
「お前は魔法使いだろう? どこに行くにも、飛行魔法、もしくは転移の魔法でひと飛びできるのではないのか?」
「移動魔法に長けた魔法使いであれば、そうですけど……移動魔法自体が非常に高度ですし、何より魔法使いがいないとだめですわ。駅にしか行けないとしても、あれだけ大量の人を一度に運べるのはすごいことです。なるほど、魔法が使えなくなればなったで、人類はちゃんと別の手段を用意するものなのですね……」
いまだ魔法が息づく黒鳥城の中の人々はとにかく、一般の人々は魔法使いの助力抜きでどうやって暮らしているのだろうと思っていたが、魔法に代わる、それも素養なしで使えるエネルギーが開発されていたのだ。感激するメリールウであるが、ヴィクトールはふう、とため息をついた。
「それはいいのだが……蒸気機関に使うからと、燃料用木材の勝手な伐採が後を絶たなくてな。地盤を支えていた根が減少した結果、雨が降るたびに土砂崩れを起こすので入山禁止にしている」
「あら、もしかしてヴィクトール様は、蒸気機関車がお嫌い?」
これもまずい話題だっただろうか。念のために聞いてみたが、ヴィクトールの見せた憂いはあくまで領主としてのものであるらしい。
「いや、そんなことはない。むしろ興味はある。できれば乗ってみたい。可能なら運転もしてみたいし、解体してから元に戻したい」
「うーん、元に戻すならセーフ、か……?」
「アントニオ、お前の線引きもだいぶ怪しくなってきているぞ」
モルダートンが突っ込むのをよそに、ヴィクトールの憂いは再び色を変えた。
「……だが、全てはディートリヒを倒し、『魅了』の呪いを解いてからだ。あれに乗って事故を起こせば、オストアルゴの者だけではなく、旅客まで犠牲になる」
お騒がせサンロードの末裔としての物思いを振り払い、彼はメリールウを促した。
「さあ、準備をしてくれ、エリー」
「呼び名が一周しましたね。分かりました!」
そう、全てはディートリヒを倒し、『魅了』の呪いを解いてから。そのためにはメリールウががんばらねばならないのだ。
「どうしましょうか。持てる最大の魔力で攻撃魔法を使いますか? 目覚めたばかりの頃と比べると、ある程度制御できるようになっているとは思いますが」
昨日より今日のほうが、メリールウは自身の魔力及び貯蔵されたエーテルの安定を感じていた。もうヴィクトールに竜巻を食らわせるようなことはない、と思う。
「それも見てみたいが、お前の身に何かあってはまずい。眠りに落ちない程度に制御しながら攻撃魔法を使う、というのは出来そうか」
「チャレンジしてみます!」
新しい課題を与えられたメリールウは、おもむろに右手を掲げた。祖先から受け継がれた魔力で体内のエーテルに干渉し、望む奇跡を編み上げていく。一昨日の段階ではまさか自分の中にエーテルが貯蔵されているとは思っておらず、暴発を招いてしまったが、今度はどこに向かって魔力を使えばいいか分かっているのだ。
「多分大丈夫でしょう!」
不安を覚えたサフィールが腰にすがってきたので、アントニオは黙ってその頭を撫でてやった。
「神の光よ、我がために逆巻け」
「そうか、アセンブルは風の魔法が得意だったな」
モルダートンは不安より好奇心が勝ったようで、ヴィクトールと並んで興味津々に状況を見守っている。威力には曜日も関係してくるのだが、水精の日である本日は、風の魔法には特に何も影響しない。
「疾く、強く、大いなる嵐と化せ……!」
強力な術は詠唱も長くなる。炎カラスたちがいなくなったのを見計らい、風の中級攻撃魔法を唱え終えたメリールウの指先から、巨大なかまいたちが飛び出した。それはあっという間に速度を増し、例のハゲ山の山頂付近をかすめて空の彼方に消えた。
「……うわ」
さながら、空飛ぶ死神の鎌である。光の残像を引いてかまいたちが消滅しても、観客たちの眼にはその残像が焼き付いているようだった。
「山が吹き飛びは、しなかったが……」
「ちょっと低くなってないか、あの山……?」
口々に感想を述べるモルダートンとアントニオの間で、サフィールはどっと噴き出した汗を拭っている。最悪の場合は向こうの山ではなく、この崖が爆発四散する予想をしていたようだ。
「……すばらしい!」
ヴィクトールは感に堪えない様子である。子供のように輝く瞳で削られた山を観察しつつ、その手は恐ろしい早さでメモを取っていた。恩人が満足してくれたようでメリールウも嬉しい。
「威力は思ったより大きくなってしまいましたが、狙いはばっちりです。あまり大きな音も出なかったと思います。眠気も少しありますが、まだ大丈夫……ふわあ」
小さなあくびを噛み殺し、軽く頭を振った。眠いことは眠いが、即座に意識を失うまでではない。
「段々コツが掴めてきました。もっと強力な魔法も使えるかと思いますが、どうしましょうか?」
「いや、一度休憩にしよう」
もちろんだ、と言われると思っていたが、予想に反してヴィクトールは首を振った。
「確かに顔色にも問題はなさそうだが、今見せてくれた魔法の威力は先日の比ではない。人間が食らったら真っ二つだろう。そのような魔法を連発させると、お前にかかる負荷が心配だ」
「そうだ、その意気だぜ、ヴィクトール様! レディにはそれぐらい優しく」
「お前はこの上なく希少かつ貴重な資料なんだ、ローリー。無闇に消耗させたくない」
「アントニオさん、諦めましょう。ヴィクトール様はこういう性格です……」
一連の言葉にしばし眼をパチクリさせたメリールウは、ふふ、とはにかんだ笑みを漏らした。
「ん、なんだ、大丈夫か?」
いきなりメリールウが笑うことへの警戒はいまだ緩めていない様子だ。様子を伺うようなヴィクトールの心配を察し、軽く首を振って否定する。
「あ、違うんです。また妙な衝動を覚えた訳ではなくて」
「ではなんだ。お前を不安定にさせる様子は全て取り除かねばならない。理由をちゃんと教えてほしい」
真面目な調子で詰め寄られてしまい、少々困りながら答える。
「いえ、本当に大したことではなくて……魔法の威力を、こんなに褒められたのは初めてなので……」
しどろもどろに言ってから、ヴィクトールがいぶかしそうな眼をしていることに気付いた。
「ほら、私、『期待外れ』と言われておりましたので! 大丈夫です、別にあなたに惚れてはいません」
「……ならいいが」
七割程度納得した声でヴィクトールはつぶやいた。つまりは彼の性格上、納得はしていないと察したメリールウは急いで話を変える。
「あの、一つ提案なのですが。治癒魔法を……あ、いえ」
口に出した途端に後悔を覚えたが、訂正する前にヴィクトールが食いついてきた。
「治癒魔法? お前、まさか、どこか怪我でもしたのか。今の魔法のせいか!?」
誤解させてしまったらしい。にわかに気色ばんだヴィクトールがぐっとメリールウの手を掴んで引き寄せる。無理をさせたのでは、と疑っている様子だ。
「い、いえ、特には。ただ……、その、昨日ヴィクトール様に負わせてしまった怪我が申し訳なくて……まだ完全には治っていないんじゃないですか? それにサフィールも、蹴られたりしていたし」
引き合いに出された瞬間、サフィールが真っ青になって首を振る。
「い、いえ、いいです、僕はいいです! ちょっとアザができているだけですから! 真っ二つは嫌です……!!」
サフィールが青くなって首を振る。
「大丈夫よ、さすがに使う魔法を間違えたりはしないから」
かまいたちを出したりはしないので、安心してほしいとメリールウは言うが、サフィールの怯えも分かる。メリールウ自身も、まだ自分のコントロールを完全には信頼できないのだ。
「でも、そうね。魔法がなくなっている上に、私の制御に不安があるんじゃ、怖いのは当たり前よね。それじゃあヴィクトール様、私自身の靴ずれ未満を治してみようかと思います」
ヴィクトールが来る前、靴のサイズを合わせるために歩き回っていたので、足首がちょっぴり擦れているのだ。放置しておいてもすぐに治るだろうが、実験に使うならちょうどいい。
「だめだ」
これにもヴィクトールは首を振り、なぜかいきなり左手の袖をまくり上げ始めた。筋張った固い筋肉に覆われた腕には、竜巻に刻まれた痕が少し残っている。
「俺を治せ、マリエール」
「……私の力を、信じて下さるのですか?」
「現状では絶対の信頼を置いている訳ではない」
だから不安がっているサフィールではなく、貴重な資料であるメリールウでもなく、自分が名乗りを上げたのだ。
「コントロールできるようになっているのは間違いないからな。俺で試せ。その程度には、信じている」
「……分かり、ました」
ごく、と喉を鳴らしたメリールウは深呼吸をした。攻撃魔法と違って治癒魔法は相手の魔力抵抗に関係なく作用する。要するに、暴走させると下手な攻撃魔法より危ないということだ。
一瞬、母の顔が脳裏に浮かんだ。ディートリヒの顔も浮かんだ。
「だ……、だめ!」
恐ろしい勢いで自分を叱りつける母の顔。泣き叫ぶ敵に限度を超えた治癒魔法をかけ続けるディートリヒ。嫌なイメージが頭の奥から湧き出して、集中をかき乱す。
「ごめんなさい、だめです。もうちょっと時間を置いてから……!」
「む、それはいかんな。ヴィクトール殿、一度休憩にしよう」
モルダートンがメリールウに倣って慎重論を唱えるが、ヴィクトールは首を振った。
「いや、大丈夫だろう。お前のコントロール能力は思った以上だった。先程のかまいたち、実に見事だったぞ。俺は正直、この崖が爆発四散することも覚悟していた」
「でも、あれは、万一吹き飛ばしても構わないハゲ山が相手でしたし……!」
相手は人間だ。しかも恩人であるヴィクトールだ。他に治癒魔法を使える者がいないことも含め、危険すぎるチャレンジではないか。
尻込みするメリールウに、ヴィクトールがふう、とため息をつく。失望させてしまった、と感じたメリールウはびくりと肩を竦めたが、それは杞憂だった。
「俺は別に、ここでお前が失敗して、今度こそ真っ二つにしたとしても怒ったりはしない」
つぶやく声はいつもと変わらない。取り立てて優しくもないが、内心の恐怖や落胆をごまかしている訳でもない。
「言い出したのはお前だが、了承したのは俺だ。責任は俺たちが均等に負うべきだろう。失敗は成功への過程に過ぎない。チャレンジしないことこそが、もっとも成功を遠ざける。俺は一刻も早く、ディートリヒを倒して不名誉な二つ名を返上したい。……他人の運命をねじ曲げる呪いと、おさらばしたい」
裏表はない方だ、とサフィールがヴィクトールを評したことを思い出す。彼は本当にメリールウの魔法によってどうなっても怒りはしないのだろう。実験結果としてメモするだけに違いない。
「……メモできる状態で済めばいいけれど……」
いささか不謹慎な独り言が心を軽くしてくれた。極度の緊張と緩和が適度なプレッシャーとなり、感覚を鋭く研ぎ澄ませる。
「か……神の光よ、彼の者を満たせ……」
少し震える声の詠唱に合わせ、エーテルの貯蔵庫と化した身の内から清浄な光があふれるイメージが脳裏に広がった。長年使ってきた自分の魔力と大量のエーテルの波長がピタリと合い、望む奇跡を具現化する。
「や、やりました! チャレンジ成功、ですっ! 適量の魔力とエーテルを使えたせいか、あまり眠くもありません!!」
竜巻に刻まれたといえ、傷はごく浅い。過度な魔力もエーテルも必要ない。目覚めてすぐはそこの調整がうまくいっていなかったせいで、メリールウ自身への負荷が大きく、眠気も強烈だったのだろう。
「ああ、問題ない。うまいものだ」
傷の消えた腕を軽く曲げたりしながら、ヴィクトールは具合を確かめている。サフィールたちも心底ほっとした様子だ。
「よくやってくれた、パセリ。治癒の手段が確保できたとなれば、この先少々荒っぽい実験をしても大丈夫だな……!」
「だから急に野菜をぶっ込んで来るのやめろって言ったろ? そういや、余っていたな、パセリ……」
「ヴィクトール殿、治癒魔法で治すにも限度がある。程々にな? あなたのことだから、ご自身を実験体とされるのだろうが、だからこそ限度を見失う可能性があるからな……」
アントニオが夕食のメニューに思いを馳せ、モルダートンが魔法使いらしくたしなめては来たが、メリールウはひそやかな興奮を噛み締めていた。
やっと、完全にコツが掴めた。それも嬉しいが、もっと嬉しいことがある。
魔法使いとして、認めてもらえた。寝起きの、訳の分からないまま放った力ではなく、ちゃんと自分でコントロールした魔法を認めてもらえた。
「嬉しそうだな」
ヴィクトールの指摘に、はっと我に返る。
「これまでにもいろいろと贈り物をしてきたつもりだったが、お前が心から喜ぶ顔は初めて見た気がする」
美しい城へ案内され、ヴィクトールの母のものとはいえ豪華な部屋とドレスを与えられ、かつてより味の良い食事を主の手ずから食べさせてもらった。そのどれよりも勝る笑顔に、ヴィクトールは目敏く気付いていた。
「いや、サフィールに聞いたが、貴殿がメリールウ殿に言い渡した条件を考えると素直に喜べないのは当然じゃないか? 私は別段魔法使いの資料として扱われても構わん。気が向けばすぐに出て行ける客分の立場だからな。しかし身寄りも行く当てもないメリールウ殿には、いくら『魅了』の呪いがあるとはいえ、もうちょっとだな……」
「これなら、俺にもいけるか。よし、靴擦れを見せてみろ」
モルダートンの説教も耳に入っていない様子だ。ヴィクトールは無造作にメリールウの足首に手をかけた。
メリールウの常識によれば、貴婦人の足はドレスの下の宝石。みだりに見せたり、まして触れていいものではない。びく、と震えた瞬間、ヴィクトールはさっと手を引っ込めた。
「すまない、痛かったか?」
「いえ……、大丈夫、です」
レディの権利にやかましいアントニオが何も言ってこないということは、二百五十年後のこの世界では、それほど大したことではないのだろう。そう思うと、一瞬の震えはすぐに引いた。
「神の光よ、彼の者を満たせ」
ヴィクトールが厳かに治癒魔法を詠唱する。彼の魔力に呼応して、メリールウの中から何かが引き出されていくのが分かった。
「おお!」
ヴィクトールが歓喜の声を上げる。メリールウもまあ、と思わずつぶやいた。靴擦れにより傷付いた皮膚が塞がり、腫れも引いている。
「やった! ついに魔法が使えたぞ!!」
「すげー! おめでとう、ヴィクトール様!! あんた本当に魔法使いの末裔だったんだな、ただの魔法研究馬鹿じゃなくて!!」
モルダートンとアントニオも口々に祝福してくれる。さっきまであんなに怖がっていたサフィールも嬉しそうだ。
誰よりも、もちろん一番ヴィクトールが嬉しそうである。恩人の悲願が叶ったのだ。メリールウも喜んであげたい。
それなのに、どうしてか、胸に淡い影が差す。
一度コツを掴めば、靴まで直せるらしい器用なヴィクトールである。元々魔力の素養は高いのだ。魔法使いとしてぐんぐん成長していくだろう。
そうなれば、彼は当初の望みどおり、ディートリヒと戦う。いいや、メリールウのエーテルを使用し、彼のみが戦うことになるかもしれない。かつてのサンロード伯爵のように。
もちろんヴィクトールに勝ってほしい。しかし、良くも悪くも魔法使いのプライドに縛られないディートリヒである。追い詰められたら、あのことを。
さっきより大きく体が震えた。イヤリングが、耳たぶに食い込んだ気がした。
「よし、ならこれはいけるか……ん?」
喜びから一転、不意にヴィクトールは怪訝な眼をメリールウに向けた。
「どうかしたか」
「い、いえ……」
「しかし……いや、試せば分かるな。神の光よ、炎と化せ」
それはごく初歩的な炎を出す呪文だった。攻撃系の術を扱う者ならば誰でも最初に習う詠唱だ。モルダートンもある程度エーテルがある場所であれば、火花を出すぐらいはできるらしい。
だが、先程と違って、何も起こらなかった。
「ありゃ、さっきのは偶然か」
「残念ですね。でも、一回できたんだから、訓練を続けていけばきっと……!」
魔法の素養のないアントニオとサフィールは違和感に気付いていないようだ。しかしモルダートン、そしてヴィクトールは何かを察した眼をしている。
身を縮こまらせるメリールウであるが、ヴィクトールは彼女が危惧したように責めたりはしてこなかった。
「通じ合えたのは、一瞬だけだったようだな」
「も、申し訳ありません……」
そこまでがっかりしている様子はなかったが、メリールウは申し訳なさに顔を上げられない。
分かったはずだ。一度繋がった経路を断ったのは、メリールウの側だったと。
「気にするな、昨日会ったばかりだ。時間だけが大切ではないが、親愛の情というものは一朝一夕に育つものではあるまい。――そんなものを成し遂げるのは、呪いだけだ」
ヴィクトールの声の調子が下がったのは、メリールウのせいではない。彼の一族にかかった呪いを思い出したからのようである。
「いや、そうとも限らねーよ、ヴィクトール様」
ここぞとばかりにアントニオが割り込んできた。
「一目惚れ、というのは実際にあるからな。俺だって、あんたほど強烈じゃないが、よくちょっと声をかけただけの女の子に追いかけ回されたもんだ」
「アントニオさんの場合、ちょっとじゃないでしょう。歯が浮きそうな甘い言葉をペラペラ言うのが悪いんじゃないですか?」
そりゃ誤解されるだろう、と冷めた眼で突っ込むサフィールとは対照的に、ヴィクトールは真顔で感心している。
「確かにな。お前は顔の作りもいいし、マメで料理がうまい」
「お……、おう、分かってるじゃねーか」
自分が褒められると照れるらしい。黙ったアントニオの眼をヴィクトールはじっと見て、
「そうだな。サフィールの言っていたお前のレッスン、受けてみるか」
決断したヴィクトールは、ばさりと片マントを翻す。
「リー、俺はそろそろ仕事もあるので執務室へ戻る。今日の実験はここまでにしよう。サーヴァントにベッドごと部屋まで運ばせので、夕食まで好きにしてくれ」
「そこだけは覚えて下さっているんですね。分かりました」
「アントニオは俺と来てくれ」
「よっしゃ! この際だ、人付き合いの基本から叩き込んでやるぜ!!」
がぜん張りきり始めたアントニオとヴィクトールが揃って踵を返し、二人を慌ててサフィールが追いかけていく。ベッドの四隅で守護神よろしく待機していたサーヴァントたちが、よっこいしょ、とメリールウごと持ち上げた。
「あの、ヴィクトール様。それでは私、あなたの実験室で少し魔法の訓練をしていてもいいですか?」
ヴィクトールが意外そうに振り返った。
「お前一人でか」
「ええ、ある程度、コントロールが効くことは証明できたと思いますから。まだそんなに眠くもありませんし、私のほうでも自主訓練をしておけば時間の短縮になりますわ」
「そうだな。だが、あまり張りきりすぎるな。お前に何かあったら、元も子もない」
労りの言葉だけでなく、ヴィクトールはお目付役を指名した。
「モルダートン、イリーに付いていてくれ。危険な真似をしようとしたら、必ず止めろ」
「私に止められるかどうか自信はないが、引き受けよう」
慎重なモルダートンの言葉にうなずいて、ヴィクトールは城へと戻っていった。メリールウもえっちらおっちらオンザベッドで担がれた状態で実験室へ戻った。
「おお、本当に飛行魔法も使えるのか! なるほど、風の術に強い家系であれば当然だな!!」
ベッドの上空、三十センチほど浮き上がってみせたメリールウを見てモルダートンは瞳を輝かせている。
「そうですね。でも、飛行魔法は難しいので、やっぱり眠くなります……補助してくれるアーティファクトがあれば、制御もしやすいかもしれないですが……ふわぁ」
飛行を補助するアーティファクトといえば箒がポピュラーだ。幸いにもヴィクトールがこの部屋に数本保管していたので、試しにまたがってみると、消費する魔力もエーテルも込み上げる眠気もかなり改善された。
「ヴィクトール様は、蒸気機関車に乗れないのですものね。飛行魔法でご一緒できれば、きっと喜んでいただけるわ」
あるいは、彼も魔法を使えるようになれば。
「ああ、そうだな。でも無理はするなよ、メリールウ殿。あなたにもしものことがあれば、ヴィクトール殿は一番悲しむ……うむ、確かに仲は進展しているのだよな……」
言いながら、モルダートンは占いに使うカードを取り出した。慣れた手付きでテーブルの上に広げ、そこに生じた意味を読み取るも、ううん、と首を捻ってしまう。
「恋の兆しは見えんか。ふむ、だがお互いに好意自体はある……出会って二日でこの状況なら、まあいいと見るべきか……?」
「モルダートン様やアントニオは、私とヴィクトール様に本当の恋人になってほしいのですか?」
出会い頭から、特にアントニオは世継ぎについて言及していたのだ。ストレートに聞くと、モルダートンは濃い眉を寄せた。
「ううーん、それは、まあ、当人同士の話だからな。おまけにヴィクトール殿は……」
「……お母様のことを気にしていらっしゃいますものね」
微妙なニュアンスで、ヴィクトールの出生の顛末をメリールウも聞いていると分かったのだろう。モルダートンは重々しくうなずいた。
「……そうだ。だが、あの方も年頃だからな。メリールウ殿も貴族かつ魔法使いの家柄なのだ、お分かりかと思うが、当主として子孫を残すことがあの方に課せられた義務だ。あなた方二人の御子であれば、きっとすばらしい……」
同じ魔法使いとして、つい口が滑ったようである。モルダートンはゴホン、と咳払いをした。
「いや、失礼を。全てはディートリヒを倒し、『魅了』の呪いがなくなってからだな。その上で、あなたとヴィクトール殿、双方の気持ちが揃っていれば……!」
「……そうですね。ヴィクトール様に嫌われないうちに、早くディートリヒを倒さないと」
「ん?」
「なんでもありませんわ」
「ところでな、メリールウ殿。もしよろしければ、炎の魔法を使ってみてくれないか? 私の親も出せて火花レベルだったが、立派なファイアーボールなど見せてもらえれば、イメージが掴めるのではないかと思うのだ。アセンブルは炎の魔法の素養は少ないと聞いているが、今のあなたであれば……」
「あ、ごめんなさい、本格的に眠くなってきちゃった。ぐう」
何度かのお昼寝タイムとサーヴァントを通じて差し入れされた昼食を挟みつつも、メリールウは夕食までの間、かつて習い覚えた魔法に一通りチャレンジすることに時間を費やした。
「今日は悪かった」
夕食の席は、ここまでメリールウを抱いて運んできたヴィクトールの謝罪から始まった。
「アントニオのレッスンを受けたのだが、お前と長く気持ちが通わないのは、愛玩動物扱がよくなかったのでは、という結論が出た」
「俺のレッスンを受ける前に出すべき結論だけどな!」
山鳥のパイを切り分けながらアントニオが突っ込む。
「……すまなかった。俺は、ただ……」
「分かっていますわ」
自分でパクパク料理を食べながら、メリールウはにっこり微笑む。
「ヴィクトール様は、私があなたの『魅了』の呪いにかかってしまわないように、気を遣って下さっているのですよね」
程良い距離を保つための、ベストな人間関係を探り当てよう。その意図自体は分かるので、怒る気にはなれなかった。
「不老不死の実験動物扱いに比べれば、愛玩動物扱いなど大したことではありませんし……」
「レディも考え直せ、マイナス百点がマイナス五十点になってもマイナスはマイナスだぞ?」
律儀に突っ込んでくるアントニオであるが、メリールウは気にしない。
「それに、チャレンジに失敗は付きものですもの」
「それはそうとして、私、今日は飛行魔法の練習をしておりました。勝手ながら箒のアーティファクトを使わせていただいたので、ペース配分さえちゃんとしていれば、あまり眠くならずに……」
「なに、飛行魔法!」
ツボに入ったらしい。シュンとしていたヴィクトールの眼に生気が蘇る。
「なんとすばらしい。さすが風の魔法の使い手だ!」
「ヴィクトール様、落ち着いて下さい。あまり眠くならずに、ですよ? 眠くなってはいるんですよ? 空を飛んでいる間に眠くなったら、ただでは済まないですよ!?」
元気になってくれたはいいが、元気すぎる主はロクなことをしないと誰よりも知っているサフィールだ。慌ててブレーキをかけようとするが、ヴィクトールはとっくにトップスピードである。
「では明日は、飛行魔法の実験を行おう」
「はい、ヴィクトール様。明日もチャレンジ!」
おまけに、今は彼に並走するものがいる。顔を覆うサフィールの両肩に、アントニオとモルダートンがそっと手を置いた。
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