第三章 まずはお友達から
その1
「ここは初心に立ち返り、俺と友達になってもらいたい」
翌日の朝食の席は、ヴィクトールのこんな宣言から始まった。
「はい、分かりました!」
二つ返事で引き受けたメリールウをサフィールは心配そうに見やる。
「あの、僕が言うのもなんですが、そんなに簡単に引き受けて大丈夫ですか……?」
「そうね、私もお友達って初めてだから、うまくいかないかもしれないけれど……努力してみるつもりよ」
「え? メリールウ様も、お友達がいなかったのですか?」
思わず復唱してしまったサフィールは慌てて口を閉ざし、ヴィクトールはほう、と興味深げにうなずいた。
「奇遇だな。俺もだ」
「そんな気がしておりました。初めて同士なら、かえってうまくいくかもしれないですね!」
当の二人はきゃっきゃと盛り上がり、サフィールは一人で勝手に胃を痛めてうずくまった。
「……まあ、あんたらがいいなら、それでいい。とにかく、まずはお友達から、というやつだ」
焼きたてのスコーンを給仕しながらアントニオが含みのある様子で言うと、ヴィクトールがすかさず反応した。
「アントニオ、それは昨日のレッスンによると、口説いてもすぐにはうんと言わない女の懐に入るための常套句という話だったが? 俺はリナリーと恋人になる気はないし、口説かなくても素顔を見せれば一発だ」
「よく覚えてるな! 興味さえ向けば完璧に覚えるのが本当にムカつくな!! っとに、モテるからっていい気に……、っ!」
――ちょっとモテるからと、いい気になりおって……!!
冷たい男の声が、メリールウの耳の奥で木霊した。アントニオも途中で口が滑ったと気付いたのだろう、はっとして黙り込む。
「俺は別に、いい気にはなっていない」
緊張した空気が流れたが、ヴィクトールはいつものように淡々とした調子で否定した。
「呪いで人の気持ちを左右しても、嬉しくない。見境いなく求められるのも迷惑だしな」
「……そうだな。そのように思われることを見越しての呪いだろう。ディートリヒのやつめ、いやらしい手だが、さすがの腕前と言わざるを得ない」
モルダートンがうなる。
「……そうですね。普通の攻撃魔法なら、ヴィクトール様の祖先も対応を考えていたでしょうに……まさか『魅了』をこちらに付与されるとは思いませんよね」
そういう発想の転換力も、ディートリヒの強さの秘密だったのだ。ある意味チャレンジ精神にあふれた人ではあったのだわ、と考えながらクロテッドクリームをすくうメリールウをよそに、ヴィクトールはばつが悪そうにしているアントニオをじっと見て、
「それに、俺は呪い抜きでも、お前より顔がいいのでモテると思う」
「系統が違うだろ、系統が! 俺は爽やか系、あんたは精悍系!! 受けるタイプが違うから安心しろ! 年下じゃなかったら、何発か殴ってるところだぞ!?」
地団駄を踏むアントニオ、「殴り合いでも負けないと思うが」と冷静なヴィクトール、「私も捨てたものではないと思うが」と張り合うモルダートンを見比べて、メリールウは思わず言った。
「そうよね、確かに……」
「ん?」
ヴィクトールが怪訝な眼をした。メリールウは咄嗟に取り繕う。
「あ、いえ、その、なんでも。ア、アントニオのほうが、ヴィクトール様より年上なのね! 女の子は年上の男性に弱いものなのよ。お料理が得意というのもすばらしいわ」
「――いけないぜ、レディ。俺は全世界のレディのものなんだ。ましてあなたは、ヴィクトール様の婚約者なんだからな」
誤解が生じたらしい。妙なスイッチの入ったアントニオであるが、サフィールに「アントニオさん、何か言いたいことがあったのでは?」と脇腹をつつかれた。
「いや、そうじゃなくてな! いいじゃねーか、本当にこのレディとの結婚を考えてもよ! だってあんた、さっさと身を固めねーと、これ以上国王陛下に睨まれちゃまずいだろ!!」
「まあ、アントニオは優しいのね」
「ほら見ろ! レディまで俺に傾き始めている!! ツラはとにかく、あんたの中身まで許容してくれる女性は早々いねーぞ、今のうちにしっかり捕まえておけ!!」
「もちろん、絶対に逃がしはしない。彼女は俺のものだ」
そこはきっぱりと、ヴィクトールは断言した。
「……俺には劣るが声もいいから、一瞬だまされそうになったが、分かってるからな! 貴重な実験体として、以外の意味じゃねえんだろ!?」
「今日からは友人としても大事にするつもりだが」
「いいか、レディ。さっきもうっかりしたことを言ってしまったが、いくら顔が良くて料理がうまくてマメでケンカが強いこのアントニオにも、弱点はある」
もうヴィクトールと話す気がなくなったらしい。アントニオは完全にメリールウだけを見て言った。
「しょせんは俺も魔法使いじゃない。魔法については正直、うさんくせー手品だとずっと思っていた。ここに来たのだって、ネティラのレディたちを惑わせるのをやめろと、怒鳴り込んだのが最初だったからな」
道理で態度がフランクすぎるはずである。アントニオは最初はむしろ、ヴィクトールを嫌っていたのだ。
「まあ、それが今の時代の一般的な見解だ。私も幾度となく手品師扱いされてきた」
モルダートンは苦笑して肩を竦め、ヴィクトールはさっき無視されたことを意に介した風なく口を挟む。
「だが、今ではお前も、魔法について理解してくれているだろう。だからここに留まって、料理人として働いてくれている」
「……まあな。そりゃ、あんたが……、いや」
「あの時は俺もちょっと気が立っていたので、サーヴァントをけしかけて捕まえた上で、椅子に縛り付けて半日の間魔法についての講釈を垂れてしまったが、結果として理解してくれてよかった」
「なんで俺がうまくごまかそうとしたことをバラす!?」
食ってかかるアントニオを、サフィールが「まあまあ」となだめた。
「でもヴィクトール様は、本当に優しい方なんですよ。僕の命の恩人でもありますし……」
アントニオがあえて自分を下げようとした意図を汲んだらしい。サフィールもヴィクトール上げに参加した。
「ちゃんとした魔法使いがいなくなったせいか、魔法もどきの妙な儀式をしたがる人が増えていて……僕、親に売られて、悪魔召喚実験の生贄にされかけたことがあるんです。なんでも、ちょっとだけ魔法の素養を持っているらしくて」
「まあ……」
「そこにヴィクトール様が、助けに来て下さったんです! どうですか、男らしく勇気のある、すてきなエピソードでしょう!?」
ここぞとばかりに主を売り込むサフィールであるが、肝心の主が訂正を飛ばす。
「いや、あの時はお前を助けに行った訳ではなく、奴らの召喚実験があまりにも稚拙で口を出さずには」
「黙らっしゃい! 本当に、恩人じゃなかったら僕だって殴ってますからね!?」
なぜ自分のいいところを自分で潰すのか。召使いたちに怒られても、ヴィクトールは動じない。
「正しい説明をしないとだめだ。後でまやかしだと分かれば、その分の反動が来る」
その一言に男性陣は一斉に黙り込んだが、メリールウは一瞬の沈黙の後、笑顔になってみせた。
「そうですね。でも、大丈夫です。今のお話を聞いて、ヴィクトール様は本当に正直な方なんだなって思って、とっても好感度が上がりました!」
本人の言うとおり、「魅了」の呪いに頼らずとも、好きになる人はいるに違いない。翳る心を押し隠して微笑むと、ヴィクトールは逆に不思議そうな表情をした。
「そうか。女というものは、よく分からん理由で好感度を上げるものだな。だが、あまり過度に」
「惚れるなよ、でしょう? 分かっております。もちろん、お友達としての好意ですわ」
心得て付け足すと、安心してくれたようだ。そのまま食事は進み、本日の実験のためにとメリールウは席を立った。
「この靴も、ありがとうございました。おかげで歩きやすいです。すごいですわね、本当に靴まで直して下さるなんて……」
「お前の足を実際に見て触ったからな。詰め物の具合で大体のサイズも把握しやすかった。大したことはない」
謙遜でもなんでもなく語るヴィクトールであるが、目元にまだくまがあることをメリールウは見逃さなかった。
「ですけど、まだ少し顔色がよくありませんわ。無理をされたのでは? 夜中までずっと起きていらっしゃるようですし」
部屋が隣なので、なんとなく動向が分かるのだ。少なくとも昨日と一昨日は、メリールウがベッドに入った後もヴィクトールは何かやっていた。
「少々寝不足なのは事実だが、気力は充実しているので問題ない。貴重な資料(お前)を前にして、何もしないほうが体に悪い」
「まあ、そこまで求められるなら、仕方がないですね……」
何やら艶っぽい会話に聞こえるが、中身はあくまで魔法の実験の話である。モルダートンがさっと空になった卓上にカードを並べ、「うーん、今朝と変わらずだな」とつぶやいた。
「分かりました。なら、本日の実験を始めましょう」
魔法使用の実験自体は、ヴィクトールの体に負担をかけるものではないのだ。メリールウが失敗さえしなければ。
「早速だがアリー。本日は東の塔の上から、魔法で飛んでみてくれるか」
「チャレンジ!」
「ノーチャレンジ!!」
片付けを手伝っていたサフィールが思わず足を止めて叫んだ。
「ただでさえ危ない実験なのに、しかも東の塔の上からなんて正気ですか!? 落っこちて無事で済む高さではないんですよ!?」
東の塔は三階建てだ。本館より背が低いとはいえ、現状では満足に治癒魔法が使えるのもメリールウだけなのだ。サフィールの言うように、何かあったら取り返しの付かないことになる可能性がある。
「いや、大丈夫だと思うぞ、サフィール」
メリールウの実験の目撃者であるモルダートンが助け船を出す。
「昨日も、何度か眠りに落ちられたのは事実だが、意識的に魔力やエーテルを多く使用した時に限った。箒アーティファクトを使用して、実験室中を飛び回ってみせて下さったのだぞ」
典型的な魔法使いの姿を思い出して、モルダートンはうっとりしている。
「私も後ろに乗せてもらったが、とても楽しかった……」
「なに」
にわかにヴィクトールが気色ばんだ。
「お前、見張りをしているだけではなく、俺より先に空を飛ばせてもらったのか?」
「ああ、うん、まあな。付いていてくれ、との話だったので」
食いつかれて驚いたモルダートンの言うとおりである。ヴィクトールもそれが分かったらしく、すぐに引き下がった。
「……まあ、そうだな」
「お、嫉妬……ではないな。本当に乗せてほしかっただけか……」
再びカードを展開し、がっかりしているモルダートンに話を逸らされてしまったサフィールはもどかしげにしている。それに気付いたメリールウは軽く屈んで少年に微笑みかけた。
「ねえサフィール。あなたがここに来た理由を思えば、魔法に拒否反応が出るのは当たり前でしょうに、心配してくれてありがとう。優しいのね」
サフィールの怯えようは、生贄にされかけたことにも由来しているのだろう。ヴィクトールの実験に散々付き合わされた結果かもしれないが、あえてそこには触れず、メリールウは赤い巻き毛に覆われた頭を優しく撫でた。
「え、あ……」
驚いたようにサフィールが固まる。一拍置いて、その顔がかーっと真っ赤になった。髪の色と肌の色の区別が付かないぐらいだ。ヴィクトールも、なぜか一瞬固まった。
「ごめんなさい。よく弟や妹にしていたものだから、つい」
笑って背筋を伸ばしたメリールウは「だから、私のことを信じてほしいの。大丈夫、日に日にコントロールは効くようになってきているから」と結んだ。
「よし、では行くぞ、メイビー」
「今度は頭文字を覚えて下さったのですね。もう少しですね!」
チャレンジ! とばかりにヴィクトールを励ましながら、メリールウはまだ顔の赤いサフィールを伴って東の塔へと向かった。
塔の外観は麗しく整えられていたが、中は物置に等しかった。実験室に収まりきらなかったと思しきアーティファクトが無作為に並べられている。これはこれで風情がある、とも言えた。
「まあ、すばらしいですわ。これなんて、王家の宝物庫にあってもおかしくないのでは……」
螺旋階段を上がっていきしな、厳重に布で保護された手鏡型のアーティファクトなどについ眼を留めてしまうメリールウであるが、本日の目的はそれらとは違う。ヴィクトールのおかげでしっくりと足に馴染む靴で一段一段上がっていくうちに、塔の最上階へと辿り着いていた。
「メアリー、準備はいいか」
「かなりいい線です! 分かりました!」
マントを風に遊ばせながらヴィクトールが差し出した箒を受け取って、メリールウは意気揚々とうなずいた。
「うう、やっぱり高いよぉ……」
いざ現場に着くと、サフィールは心配がぶり返した様子だ。彼の気持ちも分かる。三階という高さは、眼下のものがはっきり視認できるだけに怖さも増す高度だ。
ただしメリールウにとっては別に怖くもなんともない。二百五十年ぐーすか寝ていたせいで恐怖が麻痺しているという訳ではなく、飛行魔法の使い手としては当然の認識だ。どんなに高いところから落ちても、死にはしないという自信があるのだから。
「二百五十年寝ているだけで死にませんでしたしね。ああ、それにしても、いいお天気。程々に風もありますし、空を飛ぶにはいい日ですわ」
ハニーブロンドを風に梳かれながら、メリールウはゆっくりとあたりを見回した。風光明媚な風景の中に佇む黒鳥城本館を見上げ、まぶしさに瞳を細める。どこからか小鳥の歌声もかすかに聞こえ、絶交のシチュエーションとはこのことだった。
「今日は木精の日だが、飛行魔法の使用に問題はないか」
「問題ありませんわ、昨日も大丈夫でしたし。では、行きます! 神の光よ、我が翼となれ!」
箒のアーティファクトにまたがり、軽く塔の床を蹴る。詠唱によって導かれた魔力が、体内のエーテルに反応し、彼女の体に不可視の翼を与えた。ふわりと危なげなく浮き上がったメリールウの体は、窓を抜け出して見る間に高度を増していく。
「ああ、気持ちいいわね……」
人への警戒心が強いはずの炎カラスが一羽寄ってきた。飛行魔法が廃れた時代であるため、飛んでいるなら仲間だと勘違いされたのかもしれない。
「ふふ、競争する? 負けないわよ!」
今のメリールウは、魔法を使えば使うほど喜んでもらえるのだ。速度を上げ、炎カラスを振り切って黒鳥城の本館最上階より高く上がる。
いったん止まって見回せば、東の塔から顔を出し、しきりにメモを取っているヴィクトールはもちろん、周囲の景色もよく見えた。ザドス山脈、ネティラの街、エーマ河、蒸気機関車も走行可能な大橋があちこちにかかっている。
「……あっちが、私の家……」
さらに南へと視線を向ける。ざっくりと見た限り、ここから分かるような大きな地形の変化はなさそうだ。もっと近付けば細部まで確認できるかもしれないが、
「やめておきましょう。人里に近付いて見咎められたら、言い訳できないわ」
つぶやいて、そのまま東の塔へ向かって高度を下げていった。
アセンブル家も他の家と同様に、歴史の表舞台から消えてしまったのだ。屋敷が残っている可能性は低い。存在していたとしても、全く知らない誰かの持ち物となっているのだろう。
確認したい欲も感じたが、それは今ではないはずだ。葛藤を仕舞い込んで戻ってきたメリールウを、ヴィクトールは少年のようにきらきらと光る瞳で出迎えてくれた。
「すばらしい! 速度も高度も申し分ない。まさに伝説の魔法使いそのものだ!」
「ありがとうございます」
たかだかこの距離を往復しただけで、こんなに褒めてもらえるとは。嬉しくなったメリールウが、もう一周してきましょうか、と申し出かけた時だった。
「問題はなさそうだ。よし、では俺を連れて一緒に飛べるか、メリッサ」
「方向性が変わってきましたね! チャレンジ!」
躊躇なくメリールウは承諾したが、サフィールは一人慌て始める。
「だ、大丈夫ですか、本当に大丈夫ですか!?」
「平気よ。昨日モルダートン様も乗せてみたけど、大丈夫だったから」
「でも、モルダートン様よりヴィクトール様のほうが背も高いですし、装飾の分重いでしょうし……」
「確かにそうだけど、今の私には誤差の範囲だわ。おそらくサフィールも乗せて飛べるけど」
「ノーチャレンジ!」
巻き込まれるのを恐れてサフィールは引け腰になり、ヴィクトールも「そうだな、安全を確かめてからしたほうがいい」と賛同した結果、止める者はいなくなった。ヴィクトールは早速箒に乗り込むかと思いきや、マントの中に手を突っ込んで幾つかの品物を取り出した。
「安心しろ、サフィール。万一の落下に備え、身を守るアーティファクトは用意してきた」
取り出された品々は、流風の水晶をあしらったお守りと、装着者に危険が迫ると自動的に防御壁を展開するシールドベルトだ。
「そうですね、このベルトは飛行魔法を学ぶ時に着けておくものです。二本着けておけば、確かに安全だと思います」
「何を言う。一本はお前の分だ」
事も無げな言葉にメリールウはきょとんとしてしまった。
「いえ、私は、たとえ落下したとしても自分の身は自分で……ちょっと飛んだぐらいでは、取り立てて眠くもありませんし」
「確かに魔法で身を守ることはできるかもしれないが、俺という荷物を抱えて飛ぶんだ。万一ということがある。腕を上げろ」
言われるままに万歳したメリールウの腰にシールドベルトを装着したヴィクトールは、自分も同じベルトを着け、お守りは自分の懐にしまい直した。その上で箒をまたぎ、メリールウの後ろに腰を落ち着ける。
「よし、いつでもいいぞ」
「はい! 神の光よ、我が翼となれ!」
二人分の重さを計算に入れ、調整した翼が力強く羽ばたく。サフィールの不安そうな顔とは裏腹に、メリールウたちは安定したバランスを保って窓を抜け、青空へと浮かび上がった。さっきの炎カラスがリベンジとばかりに近寄ってきたが、ヴィクトールはそれさえ意識に上らぬようだ。
「……すばらしい!」
見る間に遠ざかる塔を眼下に眺め、ヴィクトールは感嘆の声を漏らす。
「さっきと同じように、城の上をぐるっと一周してみますね」
「ああ、ぜひそうしてくれ」
弾んだ声を上げるヴィクトールが望むまま、メリールウは一周、もう一周、何度も城の上空を旋回してやった。途中でだんだん眼が回ってきたので、逆回りに切り替えた。
「まだ飛びますか? それとも違うところへ?」
「行ってみたいのは山々だが、下手に飛び回ると目立ってしまうだろうからな……だが、ありがたい。飛行魔法は、長年の夢だった……」
憧れをこめて言ったヴィクトールが不意に黙り込んだ。以前感じ取ったよりも強い魔力の波動が立ち上る。メリールウに触発されたか、あるいは知らないところで訓練を行っていたのだろう。
「神の光よ、我が翼となれ」
詠唱は問題ない。ヴィクトールの魔力はその意図に従って組み上がり、奇跡を成そうと働きかけている。サンロード一族の血に残された魔法の素養があるとはいえ、この世の中でここまで磨き上げるのは大変だっただろう。
しかし、肝心の奇跡の素がこの世界には存在しない。メリールウの中に残されたそれも、今回はヴィクトールの呼びかけに応えない。
「まだ、だめか」
無念そうにヴィクトールはうなった。
「そのようですね……私の中のエーテルも、特に反応はしていないです」
「モルダートンも何度か試してみたが、だめだったと言っていたな。一度はうまくいったのだから、親しくなればいい、という方向性は間違っていないはずだが……」
「……そうですね」
メリールウとしては、出来れば別の方法を探してほしいが、そんなものがあれば女性との接触を避けているヴィクトールだ。とっくの昔に試しているだろう。
「二百五十年かけて私と一体化しているものですものね。おなかを割いたとしても、取り出すことはできないでしょうし……さすがにそのチャレンジは遠慮したい……いえ、でも、新たな扉が開く可能性も……?」
考え込むメリールウの後ろでヴィクトールも苦悶している。
「友達でもだめか……かといって、それ以外の好ましい関係とはどういうものだ……?」
二人、上空で静止したまましばし思い悩んだ後、ヴィクトールが不意に口を開いた。
「……風を使って飛んでいる割りに、暑いな」
「飛んでいる間は周りの風を操っているので、さほど自然風の影響を受けませんからね。今日はお天気がいいですし、箒に乗って体を支えるのも結構神経を使いますし……」
メリールウの魔法による支えが大きいとはいえ、ヴィクトールも体幹を使ってうまく箒の上に乗ってくれている。その分、彼にかかる負担も大きかろう。
「それに、やはりこれを着けていると蒸れる」
メリールウと違って、ヴィクトールは仮面で顔まで覆っているのだ。忌々しそうにつぶやいた彼の手が仮面の留め具にかかった。パチン、という音にはっとする。
「ヴィクトール様、仮面を外されるのです……!?」
「!? いかん!」
メリールウとのやり取りにも慣れ、油断したのだろう。初めての飛行に意識を持って行かれていたヴィクトールは、ごく自然に仮面を外しかけて慌てた。思わず両手を離し、留め具を元に戻す。
その拍子にバランスが崩れ、右に傾いたヴィクトールと一緒にメリールウも箒から落ちそうになる。咄嗟にヴィクトールが背中からメリールウを抱き締めた。
落ちまいとしがみついたのではない。一回り小さな彼女を我が身ですっぽりと覆うしぐさは、メリールウを落下の衝撃から守るためのものだ。
「きゃ……!?」
二重の意味で驚いたメリールウであるが、なんとか箒から手を放さずに踏ん張り、もう一度飛行魔法を詠唱して浮力を上げる。ヴィクトールに包まれたままで箒を中心にぐるんと一周し、元の体勢に戻ることができた。いつの間にか二人に追いついてきていた炎カラスは、巻き込まれるのを避けてそのまま飛び去った。
「す、すまん、大丈夫か」
「な、なんとか……あ、でも、今のはちょっと面白いチャレンジでしたね」
慣れればぐるんぐるん回って遊べるかもしれないが、見守っているサフィールが泡を吹いて倒れそうである。せめて一人の時にやりましょう、と思わず考えているメリールウの乱れたハニーブロンドにヴィクトールが触れた。直そうとしてくれたのだろう。
だが、すぐに彼は指を引っ込め、物憂げなため息をつく。
「……お前が女じゃなかったらよかったのにな、メリー」
初めてちゃんと名前を呼ばれたことよりも、そこに込められた切ない響きが複雑に胸を打った。
「……そうですね。男同士、女同士であれば、友情を築くのもたやすかったでしょう。でも……」
ヴィクトールの気持ちは分かる。彼の抱えた苦しみも理解している。
それでもと、つい思ってしまうのだ。
――そこにいるだけで、女性限定とはいえ、たくさんの人に愛されるなんて。気の毒だけれど、ほんの、少し……
「冷却の術をかけましょう。氷を扱う術はあまり使ったことはないですが、少し冷やすぐらいなら」
心とは裏腹に、当たり障りのない提案を冷たい声が遮った。
「何を考えた?」
「え? あ……、あまり扱ったことのない術ですと、失敗が怖いですものね。炎も……いえ、その、やめておきましょうか。これ以上、サフィールを不安にさせても悪いですし」
ごまかそうとするが、妙なところで鋭い観察眼を発揮するヴィクトールには通じない。
「でも、なんだ。何か言いたいことがあるのなら、言え」
「べ、別に何も」
「お前も、俺を疑うのか。……だから、一度はエーテルを引き出す経路が繋がったのに、お前のほうから切ってしまったのか?」
なまじ一回はうまくいった、という思いがひそかな焦りを育てていたようだ。それはメリールウの中に生じた澱みに呼応して、ヴィクトールの胸にも近しいものを呼び寄せていた。
何よりも強力な呪いの材料。悪魔も好む、心の暗闇。
「なんならお前も、俺に夢中にさせて、証明してやろうか? 『魅了』の呪いの、恐ろしさを」
冷却の術など必要ない。ヴィクトールから吹く北風が、瞬時に二人の肌を凍てつかせた。
凍り付いたメリールウのあごを後ろから伸びてきた手が掴んで固定する。無理やり振り向かされた先にヴィクトールの素顔があれば、メリールウもディートリヒが残した呪いに堕ちるのか。
ごくりと喉を鳴らしたメリールウだったが、触れてきた時と同じ唐突さであごを掴む手が離れた。
「……やめておこう。お前を失うのは、惜しい」
温度を失った声音はただ乾いていた。
「第一、ここでお前が錯乱状態になれば、今度こそ二人とも落ちる。お前は無事だと思うが、俺に何かあれば、お前も心に傷を負うだろう」
実体験の重みを持った言葉にぴんと来たメリールウは、おずおずと尋ねる。
「もしかして、ヴィクトール様のお父様が亡くなったのも、『魅了』の呪いのため……?」
遠乗りの際の事故で亡くなったというヴィクトールの父。彼の「魅了」にかかっていた母は、夫にべったりくっついて離れなかっただろう。彼が死ぬ前までは。
二人乗りの状態で母がベタベタしすぎてバランスを崩した。あるいは並走していた母が距離を近づけすぎて、馬体が接触した。それゆえにヴィクトールの父は亡くなり、その母は呪いから解放されて去ったのだとしたら、あまりにも皮肉な結末だ。
「……そうだ。だから、今後は、これまでにも増して俺たちの距離に気を付けよう」
傷付けてしまうほどに、近付きすぎないように。
「……ええ。そう、しましょう」
まだ胸の中で心臓が不穏に騒いでいるのを感じながらメリールウも同意した。
「では、そろそろ戻りましょうか。サフィールも心配しているでしょうし」
さっきの一回転を目撃していたら、本気で気を失っているかもしれない。ヴィクトールもさすがに気まずいだろう、うなずくかと思いきや、彼は何かに気付いたようだ。
「誰か来るようだな」
警戒を含んだ瞳が見つめるのは、黒鳥城へ続く山道だ。一台の馬車が登ってきているのがメリールウにも見えた。
「……もしかして、ヴィクトール様を追い回していた女性たち?」
「いや、それなら下の関所で停まる。それに、あの馬車は、おそらく……塔に沿って身を隠しながら少し高度を下げられるか、ホリー」
「元に戻りましたね。分かりました」
さっきちゃんと呼んでくれたのはただの偶然だったようである。言われるまま、向こうから見えないように塔の影に隠れ、いぶかしげなサフィールを尻目に地表へ近付いていく。
「やはりロベルト商店の馬車だ。妙だな、伝令を出したのは確かだが、来るのが早すぎる。定期便が来るのも毎週月精の日のはず……」
何度か聞いた名前だ。出入りの商人のようだが、ヴィクトールの言うとおりであれば、確かにおかしな話である。早くても明日になるだろう、というのが当初の見通しだった。
「俺が婚約者を作ったいう話が広まったせいかもしれんな。いずれにしろ、確認しなければ。とりあえず、一度サフィールのところへ戻ろう」
ヴィクトールの命に従い、メリールウはもう一度塔に沿って高度を上げていった。
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