第一章 新たな始まり

その1

 目覚めは唐突に訪れた。

「ん……?」

 何かが体に触れている感触があった。ぱか、と眼を見開いたメリールウの視界に飛び込んできたのは、銀地を黒で飾り立てた、美しいが不気味な仮面だった。

「目覚めたか! よかった。だが、俺に惚れるなよ」

 仮面越しに緑の瞳と眼が合った瞬間、知らない男は非常に嬉しそうに言った後、すぐに冷静な口調になって命令を下した。

「……ふぇ?」

 出し抜けに意味不明な命令をされたことに加え、長く喉が閉じていたからだろう。思わず上げた声は、自分でも意図しなかった間抜けな響きを帯びていた。

「発見して三十分後、覚醒を確認。特別な働きかけは必要としなかった。隠微の結界が破られたことがきっかけか? 第一声、ふぇ」

 仮面は目と鼻だけを覆うタイプなので、つぶやく声は明瞭だ。カリカリという音に視線を下げると、仮面の男は手にした帳面にペンを走らせ、癖の強い筆致で「ふぇ」と書き留めていた。

「淡い色合いの金の髪、瞳は薄紫。着ているものは褪色したシンプルな白いドレス。寝間着の類かもしれない。宝飾品は大振りなイヤリングのみ」

 ブツブツ、カリカリ、物音は続いている。訳が分からないまま、メリールウはおずおずと周囲に視線を巡らせた。うっかり眠りすぎた時のように体が固まっており、首の骨がぎぎ、と軋んだ音を立てたが、それぐらいの動作はできた。

 頑丈そうな大きな寝台の上に自分は寝そべっている。あの日、ディートリヒに泥煮込みのような秘薬を飲まされた時から、場所は移動していないようだ。

 場所以外の、あらゆるところに差がある。当時は夜間だったこともあり、薄暗くてよく分からなかった室内は、あちこちから差し込む真昼の光によってまばらに照らされていた。

 室内にいるのに、なぜあちこちから光が差し込んでいるか。それは窓が割れ、色褪せた深紅のカーテンが床に落ち、天井に使われている板材の一部がめくれて穴が空いているからだ。

 泥棒が入った、という風ではない。人為的に荒らされた様子が伺えないのだ。長い歳月によってじわじわと浸食され、埃まみれになって荒廃した室内を見ていると、妙に胸が騒いだ。

 割れた窓越しに見える街並みの、貴族の屋敷ほど豪勢ではないのに、全体的に整った頑丈そうな作りもその一因だ。何より、ない。魔法使いにとって空気も同然、というより空気に溶けているはずのアレが、感じられない。なんだか、予想と違う方向のとんでもないことが起こっているような気がした。

「起きるなり、周囲の確認をし始める。慎重な性格の様子」

 目覚める前と後の最大の差違はコレだ。腰をまたぐようにして妙な仮面を付けた男が馬乗りになっており、メリールウのすることを一々カリカリと書き留めている。

 声は若い。二十代、せいぜい三十代だろうが、声質自体はディートリヒより随分と低い。しなやかな体つきをしていた彼とは違い、この男はがっしりとしているのでやはり別人だ。髪は艶やかな黒、じっとメリールウを凝視する瞳は濃い緑をしている。

 仮面同様、その全身を覆う重たげな黒のロングコートも片マントも、銀色の金具で飾り立てられている。生贄の乙女を使って怪しい儀式を執り行わんとする、おとぎ話の魔王といった風情だった。赤と金で豪華絢爛に装っていたディートリヒといい勝負ではある。

 そこまで観察し終えたメリールウの唇から、ようやく最初の質問が飛び出した。

「あ、あの……」

「第二声、あ、あの」

「ここは、もしかして、空の彼方にあるという光の島……?」

 死して地上を離れた魂は、世界を創造した後去った神を恋うて空に昇り、星になって光の島に辿り着く。その様は、夜になると星空の形で人の眼に映ると言い伝えられていた。

「違う」

 カリカリという音は続いているので、多分今の言葉も書き留められているのだろう。質問に答えてくれるつもりはあるようだ。

「光の島であれば、原初の神の光に満ちているはずだろう。ここはディートリヒの隠れ家の一つだ。現在は、あまり隠れられていないが」

 メモと解説に集中しすぎているのか、答える声は正確ではあったが、まるで家庭教師をやっている時のメリールウ自身。講義でもするように述べられてしまうと、まあ、そうですよね、としか思えない。ハイここが魂の終着点ですよと言われたら、がっかりもいいところではある。

「ヴィ、ヴィクトール様」

 堪りかねたような声が横合いから聞こえた。ヴィクトールとやらがまだ上に乗ったままなので、起き上がれないメリールウが眼だけ動かして見やると、赤い巻き毛の愛らしい少年が困った顔をしている。

「メリールウ様は、他の実験体同様、ご自分は死んだものと思っていらっしゃるようです。混乱されているんですから、まずは状況の説明をして差し上げたほうが……ていうか、退いて差し上げたほうが……」

「確かにな。通常の状態であれば、たとえ『期待外れ』の『失敗作』と言われていたとはいえ、あの『白き魔法使い』の娘だ。ここを光の島と見間違えるなどありえない」

「期待外れ」。

「失敗作」。

 あのイヴリンの子であるのにと、繰り返されてきた罵倒まで、ヴィクトールは講義口調であっさり口にする。サフィールがますます眉をひそめた。

「そういうことを、ご本人の前で言わないほうがいいと思いますよ? それと、俺に惚れるなよ、もやめて下さい。誤解を招きますし、この方には惚れてもらわないと困るんでしょう……?」

 言いにくそうに口ごもるサフィールをよそに、ヴィクトールは自分の考えに没頭している様子だ。

「おまけに、あのディートリヒの一大傑作。いや……」

 ディートリヒの、一大傑作。どきりとしたメリールウをよそに、それまで淡々としていたヴィクトールの口調に苦みが混じる。黒い手袋に包まれた指先が、神経質なしぐさで自らの顔を覆う仮面を撫でた。

「……大丈夫そうだな。俺に惚れてしまっているなら、体重をかけて押さえ付けていても、必死で抱きついてくるはずだ。サフィールの言うとおり、寝ぼけているだけか」

「……俺に惚れる……?」

 出会い頭の第一声といい、失礼ながら変な仮面で顔を半分隠しているくせに、自意識過剰すぎないか。思わず復唱してしまったメリールウは、ヴィクトールが律儀に「俺に惚れる」と書き留める音を聞きながら、胸の中で心臓が跳ね回り出すのを感じていた。

 ヴィクトールに惚れたからではない。ここはディートリヒの屋敷だと断言され、メリールウとはっきり呼ばれた。自分が「白き魔法使い」イヴリンの娘であり、不老不死の実験体とされたことまで彼等は知っているのだ。

「まさか……、あなたたち、お母様に頼まれて、さらわれた私を連れ戻しに……?」

「違う」

 臆病な期待に満ちた質問を、これまたばっさりと、ヴィクトールは一刀両断した。カリカリとペンの音を響かせながら、器用に説明を始める。

「『白き魔法使い』の娘、お前は死んでいない。よってここは光の島ではない。もちろん、空の落とし穴に捕まった訳でもない。個人的には、いつか行ってみたい場所ではあるが……」

 かすかな感嘆を交えてヴィクトールが口にした空の落とし穴とは、魂が光の島を目指す途中になんらかの理由で道を外れ、辿り着いてしまう闇の世界である。そこに落ちた魂は、光を妬む闇の手先――悪魔と化し、他の魂が光の島を目指すことを邪魔する存在に成り果てる。

「ヴィクトール様、また脱線してます」

 見た目は空の落とし穴にいそうな主をサフィールがすばやく諫めた。ちなみに彼の格好は、ヴィクトールほど華美ではないながら、体型ぴったりにあつらえられたテールコートだ。魔王に仕える少年従者といった趣がある。

 だがその中身は耽美からは程遠く、口から出るのは懲りない主へのお小言ばかりだ。

「ようやくこの方を見付けられて嬉しいのは分かりますけど、さっさと最低限の状況を教えてあげて下さい! 僕だって、あなたに最初に会った時の率直な感想は、『助けに来てくれた気がするけど帰ってほしい』でしたからね? とにかく、このままですと、惚れられるどころか嫌われちゃいますよ?」

「なに、それはいかん。『白き魔法使い』の娘、どうか俺を嫌わないでくれ」

「え、ええ……」

 嫌われたくないのなら、一応結婚前の娘なので早く退いてほしい。私、寝間着しか着ていないし……お母様に見付かったら、絶対怒られるのは私だし……と、だんだん冷静になってきたメリールウは思ったが、ヴィクトールの話はまだ続く。

「ああ、だが、俺に惚れるのは……いや、過度に好きになるのはやめてくれ。お前のために」

「ヴィクトール様!」

 また脱線してますよ! とばかりに名を呼ばれたヴィクトールは、ようやく順を追って説明する気になったようである。

「そうだな、ではまず名乗るとしよう。俺はヴィクトール・サンロード辺境伯、こちらは従者のサフィールだ。お前はディートリヒの不老不死実験の実験体とされ……」

 次の瞬間、どーん、と鈍い音がした。屋敷全体を揺るがすような激しい振動が走り、大きなベッドが床を滑るように移動した。

「きゃ……!?」

 一緒に滑り落ちそうになったメリールウの足先が、ふわりと宙に浮く。すばやく帳面をしまい込んだヴィクトールが彼女を抱え上げたのだ。

「くそ、もう気付かれたか」

 色々な意味で固まっているメリールウを抱いたまま、立ち上がったヴィクトールは左右に瞳を走らせた。

 メリールウの耳にも荒々しい足音や、ウオオオオオオと地鳴りのような雄叫びが聞こえていた。大勢がこの屋敷に突撃してきたのだ。その気配はすぐに、メリールウたちがいる部屋の前に集結した。

「ヴィクトール様ァァァァ!」

 ただの雄叫びめいていた叫びも、距離が近くなったことでヴィクトールを呼んでいたのだと分かった。しかもその声が、どうも女性のものらしいことまで分かってメリールウは眼を白黒させる。ここがディートリヒの屋敷なら、彼の信奉者たちでも押し寄せてきたのかと思っていたが、どうも様子がおかしい。

 だが、ヴィクトールにとっては予期していた状況であるようだ。

「最近はネティラの夜もガス灯のせいで明るく、宵っ張りの連中が多いからな。昼間なら、かえって大抵の女は忙しいと思っていたが、『魅了』の呪いの抑止力にはならんか……今度来る時は、確実に眠っている時間にしよう」

 ガス灯? 『魅了』の呪い? 一体、なんの話をしているのだろう。

「あ、あなた、呪いにかかっているんですか? もしかして、ディートリヒの……?」

 形の良い耳朶に嵌まった、凝った意匠の銀のピアスを見上げて尋ねる。太陽を模したそれは、おそらくアーティファクト――強力な魔法が込められたアイテムだ。だが、それよりもなお眼を惹くのは、ピアスに突き刺された格好の黒い星のアザだった。 

「――さすが魔法使い全盛期の時代の人間だな。呪いの存在を、否定しないか。そういえばお前も、俺と同じようにアザを隠しているな」

 ヴィクトールの指が不意にメリールウの耳朶に触れ、息が詰まる。母から贈られたイヤリングの留め金が食い締めているのは、同じ黒い星のアザ。ディートリヒの象徴。

「他の実験体には、このアザはなかったような……いや、話は後だ。とにかく俺の城へ行く。サフィール、馬車が着くまで後数分、頼むぞ」

「が、がんばります……!」

 小柄な少年は青い顔でうなずきながら、どん、どんと外から乱暴に押されているドアを必死に押し返している。かんぬきまでしっかりかけられているのだが、開こうとする力は非常に強く、サフィールだけではいくらも保たないのは明白だった。

「あの、みんなで一緒に押さえたほうがいいのでは……?」

 メリールウでは腕力も、使用できる魔法でも役に立たないかもしれないが、どう見たってヴィクトールのほうが体格がいい。メリールウを楽々と抱えているのだから力も強いのだろう。大がかりな衣装自体、結構重そうである。

「だめだ。俺との距離が近付けば近付くほど、『魅了』の呪いは効力を増す。とにかく、ここを離れ……、くそ!」

 窓の外を見ていたヴィクトールが、メリールウを抱いたまま飛び退った。ついに扉が耐えきれなくなり、サフィールを弾き飛ばすようにして開いたのだ。

「ヴィクトール様ァァァァァァ!!」

「お会いしたかったァァァァァァァ!!」

 絶叫しながら雪崩れ込んできたのは、やはり女性たちだ。いずれもメリールウが知るよりもかなり軽装である。素朴なワンピースの少女、アフタヌーンドレスの淑女、年季の入ったメイド服に身を包んだ老婦人、軍服を着た中年女性、ペチコートやドロワーズをスカートとして着こなした年齢不詳の女性と、年も身なりも社会的な立場もバラバラだ。

 共通しているのは何かに取り憑かれたような、血走った眼である。中には赤ん坊を背負った乳母らしき女性もいた。雇い主の子供がワンワン泣きわめいているのにもかかわらず、ギラつく瞳でヴィクトールだけを見つめている。

「ヴィクトール様、嬉しい! 私に会いに来て下さったのね!!」

「馬鹿を言わないで、あたしに会いに来たの! ばーさんは引っ込んでな!!」

「はぁ? ふざけるんじゃないよ、小娘が。相手にされてないって分かってないの!?」

「あーら、自己紹介ありがとう!」

 人数が多すぎて、戸口に詰まった彼女たちは、押し合いへし合いしながら罵り合っている。メリールウは呆気に取られ、ヴィクトールは眉間にしわを寄せて瞳を逸らした。仮面のせいで、眉間のしわは本人以外には分からないが。

「マリーベル、気にするな。この女たちも呪いにやられているだけだ」

「ええと、私、メリールウですが……」

 気になることがどんどん増えていく。どこから質問すればいいか分からず、混乱するメリールウの顔を刺々しい視線が刺し貫いた。

「……ちょっと、何、その女」

 ヴィクトールだけを見ていた瞳に、ようやく邪魔者の存在が映り込んだのだ。戸口にぎゅうぎゅう詰めの女性たちの、刃物のようなまなざしが一斉に集まってくる。

「誰よあんた!」

「ヴィクトール様から離れなさいよォ!!」

「なんでその方に抱えられてるの、いい気にならないで!! あんたなんか、ヴィクトール様に相応しくないんだからァ!!」

 口々に放たれる罵倒。それを口にする彼女たちは、にぎやかな物音にそそられて、こっそり母のサロンを覗いた時の母にひどく印象が似て見えた。相応しくない、というその言葉も。

 ただでさえ訳の分からない状況だ。一瞬で喉が干上がり、何も言い返せないメリールウの体をヴィクトールが無言で抱え直す。背筋を伸ばし、彼は堂々と言い放った。

「彼女は二百五十年間ここで眠り続け、エーテルの器という生きたアーティファクトと化した貴重な存在。そして今日から、俺の婚約者だ」

 しん、とあたりが静まり返った。『魅了』の呪いとやらをヴィクトールが与えたショックが上回ったようだ。

「ヴィクトール様、何を!?」

 床に転がって震えていたサフィールも思わず起き上がるぐらいの破壊力だ。それはそうよね、とメリールウも思う。なにせ一から十まで、メリールウ本人も初耳である。

「エーテルが消え去り、魔法の大半が失われたこの世界で、お前は非常に貴重な資源だ、サリー。魔法使いの全盛期を教えてくれる、大切な資料でもある。俺はずっと、お前を探していた。まさか、こんなに近くにいるとは思わなかったが……辺境に飛ばされてみるものだな」

 情熱に光る緑の瞳がメリールウを覗き込む。いえ、私はサリーじゃなくてメリーです。頭の中に浮かんだ反論は瞬く前に消えた。名前の呼び間違いなど、他のことに比べればささいな話だった。

「あの……、にひゃく、ごじゅーねん?」

「そうだ」

「私、アキレスク歴千六百年、三月の最初の光精の日に実験体とされたはずなんですが……」

「資料どおりだな。今日はアキレスク歴で言うと、千八百五十年、四月の二度目の火精の日だ。現在はスーテラ歴に改められているが。ちなみにスーテラ歴で言うと、百二十二年だ」

 ていねいに教えてくれたおかげで計算しやすい。いや、そういう問題ではない。

「二百五十年、ぐっすりスヤスヤ?」

「ぐっすりスヤスヤだったかどうかは分からない。まだ調査を始めたばかりだからな。途中で目覚めたり、起き上がったりしていた可能性はある」

 断定を避ける口調は優柔不断ゆえ、という訳ではなく、断定できるだけの情報がないという確固たる判断によるものだった。

「しかし、ベッドの埃の積もりようから見るに、寝返りを打ったような様子さえない。他の実験体は大抵がもがき苦しんだ末に死んでいた。お前にはそれだけ、奴の術がよく馴染んだということだろう。そうなると、本当に二百五十年間、ぐっすりスヤスヤだった可能性は……、おい!」

 悠長に説明してくれている間に、件の女性たちがショック時状態から脱した様子だ。ぎゅうぎゅう詰めから一人、二人と抜け出して、ヴィクトールに向かって突撃を開始する。

「なにが婚約者よ、ふざけないで!」

「ヴィクトール様、それより先に私と結婚しましょう!!」

「やめろ、エリーに危害を加えるな!!」

 咄嗟の判断により、メリールウは古びたベッドに向かってぽーいと放り投げられた。突然のことに驚きはしたが、着地先には柔らかな布団がある。派手に埃は上がったものの痛みは感じなかった。

 だがヴィクトールは女性たちの集団に取り囲まれ、壁際へ追い詰められている。

「エリーって誰ですか、ヴィクトール様!!」

「アリーは、いずれお前たちをも呪いから解放してくれる存在だ!!」

「アリーって誰!?」

 ヴィクトールが説明を重ねるたびに話がややこしくなっていくようだ。止めに入ったほうがいいのだろうか。いいや、せっかく逃がしてくれたのに、ヴィクトールの厚意を無駄にするだけの結果にならないか。

 逡巡するメリールウの耳に車輪の音が聞こえてきた。はっとして振り返ると、割れた窓の向こうに、ヴィクトールのピアスと同じ太陽の紋章が入った馬車が走り込んできた。

「くそ、どけ!」

 待望の馬車が来たことを知ったヴィクトールが女性たちをかき分け、窓のほうへ進もうとする。しかし異様な輝きに満ちた眼をした女性たちは、彼の四肢に絡みついて行く手を阻んだ。

「ヴィクトール様……!」

 堪りかねた様子でサフィールが一人の女性にタックルを仕掛ける。よろめいた彼女の顔が憤怒に歪んだ。

「何するのよ、邪魔しないで!!」

 無遠慮な力で放たれた蹴りが、サフィールの足に決まった。女性とはいえ成人、それも子供相手という手加減ゼロの蹴りである。鋭い痛みに耐えかねたサフィールが床に倒れる。

「サフィール! くそ、放せ……!!」

 仮面を奪われないように押さえながらヴィクトールが怒鳴りつけるが、理性を失った女性たちの力はよほど強いようだ。ヴィクトール様、ヴィクトール様と呼ぶ声は腐った果実のように甘いのに、長い手足を押さえ付け、あまつさえ服を脱がせようとしている様子があった。重厚かつ煌びやかな服は脱がせるのも容易ではなさそうなのが救いだ。

「やめろ、この……! 馬鹿な真似はよせ、お前たちも母上のようになりたいのか……!?」

 ヴィクトールの抵抗が強くなり、ついに一人の女性を突き飛ばした。だが彼女が背負っていた赤ん坊が火の点いたように泣き出した途端、ぐっと奥歯を噛み締め、動きを止めてしまう。突き飛ばされた女性もすぐさま戻ってきて、うっとりと厚い胸板にすり寄り直した。

「よせ! せめて、その子供をどこかに置いてこい……!!」

 赤ん坊は変わらず泣いているが、心配しているのはヴィクトールだけだ。全ての女性が子供好きとは限らないことはメリールウも承知しているが、すぐ側でこれだけ泣いている赤ん坊を全員が放置した上で、一人の男を取り合っているのは異様な光景である。やむなくサフィールが赤子を取り上げ、メリールウの隣に寝かせても誰も反応しない。

「メリールウ様、あなただけでも馬車に乗って下さい!」

 サフィールは逃げろと言ってくれるが、メリールウは決意した。聞きたいことはたくさんあるにせよ、眼の前の状況を放置はできない。扉を押さえることには向かなくても、この状況を打破する魔法なら自分にも心当たりがある。

「神の光よ、我がために逆巻け!」

 アセンブルの家系が得意とする、風を生み出す攻撃魔法を唱える。といってもごく初歩的なもので、威力もかなり絞った。女性たちは明らかに正気ではないのだから、軽く驚かせてヴィクトールの逃げ道を用意できればいいと思ったのだ。

 想定外のことが二つ起こった。一つ目、髪をかき乱すレベルの突風を吹かすつもりで、室内に小型の竜巻が生じた。

「……え?」

 二つ目、ただでさえ様々な情報でグチャグチャの頭を、急激に込み上げた眠気が白く霞ませていく。

「え、ぁ……?」

 震える指がパタリと落ちる。実験体となったあの日と同じように、ハニーブロンドの髪が敷布に零れた。

 あれから二百五十年が過ぎている、とヴィクトールは言った。

 ならば、当たり前かもしれない。一瞬でも眼が覚めたことが、奇跡なのかもしれない。ディートリヒが不老不死を得るため、魔法使いの名家の子息をさらっては実験失敗により殺害しているのは有名な話だった。

 ――ちょっぴり時間がかかったけれど、お母様もお父様も、きっとこれで満足でしょう。すでにお二人とも、星になって空の向こうで輝いているでしょうけど。だって私、弟たちや妹たちの孫の孫の孫が生まれるぐらいまでの時を、ぐっすりスヤスヤと寝過ごしてしまったのだもの。

「やめろ! ミリー!!」

 完全にまぶたが落ちる寸前に感知できたのは、女性たちの手を振りほどき、メリールウが生み出した竜巻の中へと突っ込むようにして向かってくるヴィクトールの姿だった。衝撃で片マントが引き裂かれ、仮面が吹き飛び、黒々と濃い眉に高い鼻梁が特徴的な、男らしい美貌が露わになっている。

 まあ、ミリーでもいいです、と思った。自分のことだというのは分かるし、そんな風に必死に呼んでくれる人など、二百五十年前にはいなかった。その声を支えに、今度こそ迷うことなく、光の島へと辿り着けるだろう。



 そうはならなかった。

「何が呪いだ、非科学的な! 母親に捨てられた理由がほしいだけだろうが。下らない嘘をつきおって、お騒がせサンロードのボンボンが! ちょっとモテるからと、いい気になりおって……!!」

 知らない男の怒鳴り声が聞こえたと思ったら、ガタゴトと激しく揺れる車輪の音に紛れて遠ざかっていく。自分を支える腕が、小さく身じろいだ気配がした。

「……ん?」

 夢か現か、どちらにしろ後味の良くない声が消え去るのと入れ替わりに、目覚めが訪れた。

「エミリー!」

「まあ、エミリーでもいいです……」

 嬉しそうなヴィクトールの呼びかけに寝ぼけながら妥協したメリールウは、ゆっくりとあたりを見回した。

 そこはガタガタと忙しなく揺れる馬車の中だった。ヴィクトールに抱き抱えられていなければ、今頃体の節々が激しく痛んだことだろう。そもそもがぐーすか寝っぱなしだったため、体のあちこちに違和感を覚える。目覚めた直後、あまりにも色々なことが起こりすぎたせいによるショック性麻痺が消えたからだ。

 窓の外に覗く景色は夕闇に沈みゆく深い森。人里から遠く離れた、ろくに舗装されていない急な坂道を走る馬車の中で、彼女はヴィクトールの膝に乗せられていた。また二百五十年が過ぎた、ということはなさそうだが、少なくとも半日余りは経っているようだ。

「私……」

「よし、抱きついてもこないな。眼が合ったような気がしていたが、すでに眠りに落ちた後だったようだ」

 彼女の反応を確かめたヴィクトールが、安堵の息を漏らす。どうやら彼はメリールウを抱き抱えているというより、不本意な事態を防ぐために拘束している様子だ。仮面もしっかり装着し直している。

「俺に惚れることもなく、貴重な資料が目覚めてくれてよかった……」

「ヴィクトール様、正直なのはあなたの美徳ですけど、思ったことを全部口に出すのはやめましょうね……?」

 向かいに腰掛けたサフィールが呆れる。次第に頭がはっきりしてきたメリールウは、意識を失う前の自分のやらかしを思い出した。

「だ、大丈夫ですか、ヴィクトール様!! ごめんなさい、私、あなたを助けるつもりで」

「くッ」

 思わずメリールウが動いた拍子に、傷が痛んだのだろう。ヴィクトールが小さく苦痛の息を詰めた。慌てて謝罪するが、彼は取り合わない。

「いや、大丈夫だ、ある程度の処置は済ませた。お前が脅かしてくれたおかげで、女たちは傷付けずに逃げられたからな」

 女性たちに大事なかったのは喜ばしいが、それはつまり、彼は怪我を負ったということではないか。遅ればせながら、薬草と軟膏の匂いが鼻先をくすぐった。

「治癒魔法でも対処しきれないような怪我を、負わせてしまったのですね……」

 サンロードといえば、魔法使いの名家の一つ。魔法使いの一族に生まれた者ならば、修行中に負う傷を回復するため、よほど治癒系統の才能がない限りは治癒魔術の一つや二つは身に着けるものだ。

 自分の常識に当てはめて胸を痛めたメリールウであるが、その瞬間、さっきヴィクトールが口にした言葉を思い出した。

「そういえば、あなたは先程、エーテルが消え去り、魔法の大半が失われた、と……?」

 創世の神去りし後、大気に溶け残った忘れ形見。魔法使いは詠唱によって自らの魔力を活性化させ、エーテルに働きかけることで奇跡の力、魔法を行使するのだ。ところがヴィクトールは、エーテルがなくなってしまったのだと言った。

「ああ、そうだ。だからお前は、非常に貴重な存在なのだ、リリー」

 怪我の痛みなどどこへやら、ヴィクトールの口調に熱が入った。相変わらずメリールウの名前は間違えているが。

「時系列の順に話そう。二百五十年前、お前はディートリヒの不老不死実験の実験体とされ、それ以降はずっと先程の屋敷で眠っていた」

 二百五十年。いまだおとぎ話のように響く言葉を、ヴィクトールは改めて口にした。

「結論から言えば、お前の実験は失敗だった。ディートリヒの求めた基準には届かなかった、という意味だ。年も取らずに今まで生きてはいたが、不老不死になった訳ではない。目覚めたこの先は、普通の人間と同じ時を過ごしていくものと推察される」

 馬車の窓に映るメリールウの姿は、なるほど十六才の時のままだ。眠りに就いたあの日から、二百五十年先の世界へ飛ばされた、というのが感覚としては正しい。

「だが、お前が眠っている間に世界は激変した。ディートリヒがエーテルを独占する禁呪を開発していたことは知っているだろう? やつのせいで世界の大気からエーテルがほぼ消え去り、魔法が使えなくなった魔法使いは死に絶え、彼等による支配は失われた」

 だからなのね、とメリールウは悟った。あの屋敷のエーテル濃度が異様に低いことには気付いていた。

 場所の問題かとも思っていたが、ディートリヒが隠れ家として選ぶ屋敷のある場所としては不自然である。そして今も、相変わらずエーテル濃度が低い、というか、ほとんど何も感じられない。暦が違うのも、支配体系が変わったからだろう。

「あの……一応、伺っておきたいのですが。ということは、私の家族も……?」

「――ああ。全員、とうの昔に亡くなっている」

「ヴィクトール様ッ!」

 正直すぎるとサフィールは悲鳴じみた声を上げたが、ヴィクトールは揺らがない。仮面のせいで表情が伺いにくい彼の顔は、突き放すような冷酷さを帯びて見えた。

「事実だからな、隠しても仕方がない。……いつか分かることを先延ばしにしても、傷が深くなるだけだ」

 実体験の重みをまぶした声を聞いて、メリールウの口の端が引きつる。そこから、ふ、とかすかな吐息が漏れた。

「ローリー、ショックなのは分かるが、ここからが大事なことだ。事態は一刻を争う。俺の話を……」

 ヴィクトールの声が遠い。眼の前が潤み、頬をつーっと何かが伝った。母の顔が、父の顔が、弟妹たちの顔が浮かんで消える。無意識に伸ばした指先が趣味に合わない、だが母からの唯一の贈り物であるイヤリングに触れた。

 二百五十年の経過。エーテルの消滅。それに伴う魔法使いの絶滅。家族の死。膝の上をポタポタと雫が叩いているが、ヴィクトールの言うとおりだ。過ぎ去った過去を嘆いても仕方がない。同じ感情を吐き出すなら、他のやり方がいい。

「ふ、ふ……あは、は」

 ヴィクトールもサフィールもぎょっとしたように身を引いた。それを気にすることなく、メリールウは体を二つに折って盛大に笑い転げ始めた。

「あはははははは! 二百五十年、二百五十年!? 私ってば、二百五十年もぐっすりスヤスヤ眠っていたの!? お母様もダリルも、みんな死んでしまったのに、二百五十年!! ダリルがお婆さんになって死んでしまった後も、ざっと百五十年は寝ていたのね、私!!」

 一番小さな妹のことを脳裏に描く。勉強を教える時にしか顔を合わせない姉のことを、本気で家庭教師だと思っていたのだろう。「メリー先生」と無邪気に呼ぶ、残酷で可愛いダリル。そんなあの子も、とっくの昔に年老いて死んでしまったのだ。

「何が目覚めるまで最低数十年よ、その十倍じゃない!! 革命は本当に起こったんだわ!! 血筋にこだわる魔法使いが力を失うことぐらいは予想していたけど、まさかエーテルがなくなってしまうなんて……!!」

 自信満々で自分に秘薬を飲ませたディートリヒを思い出せば思い出すほど、込み上げる笑いが涙を蹴散らした。

 ディートリヒはメリールウが生まれるよりもずっと前、つまりは魔法使いが王族や貴族として絶対の力を振るっていた時代に、貧しい村で生まれ育った。彼の祖先に魔法使いはいない。つまりは通常であれば魔力を持たない農奴として搾取され、死ぬまで働き続けるだけの運命だった。

 しかしディートリヒには気紛れな悪魔が投げ寄越したような、莫大な魔力が備わっていた。そうと気付いた彼は生まれ持った素養を育て上げ、旧来の魔法使いたちが避けてきた禁呪に次々と手を付けた。

 高名な魔法使い一族は彼を嫌ったが、革命児としてもてはやす者も多かったのだ。メリールウもひそかに、彼の考えに共鳴を覚えていた。魔法使いも世界の初めから全てを支配していた訳ではない。遠い未来では、母も国王も権力を失っているのかもしれない。

 でも、私はここで死ぬんだから、そんな未来なんて関係ないわね。そう思いながら眼を閉じたはずなのに、本当に遠い未来で目覚めてしまうとは! 魔法使いが権力を失うどころか、魔法そのものが失われているとは!! 長生きはするものである。

「……おい、大丈夫か。泣くのもよくないが、あまり笑いすぎると、喉や神経に支障が出るぞ……?」

 恐る恐る、といった風なヴィクトールの声に、メリールウはようやく笑いを収めた。まだ少し潤んだ瞳を見つめ、ヴィクトールの声音に苦みが混じる。

「すまん。つい、気が急いた。せめて城に着いてから話すべきだったか」

「いえ、いいんです。ヴィクトール様がおっしゃるとおり、いつか分かることを先延ばしにして、真実から眼を背けていても、悪い結果にしかなりませんから」

 目尻に残った最後の涙を拭い去り、胸に手を置いて心臓の鼓動を確かめる。

「ええ、大丈夫……私は、大丈夫。私は、生きて、ここにいる」

 笑うしかないほどに全てを失ってしまったようだが、幸か不幸か命は続いている。それで十分だと、思わねばならないだろう。

「失礼しました、取り乱してしまって。大丈夫です、続けて下さい」

 順応性は高いほうだ。ペコリと頭を下げて申し出ると、ヴィクトールは何やら感心した顔をしている。

「さすが物分かりがいい。エーテルの器としてはもちろん、人としての器量も大きいようだな。冷静な判断力は、優れた魔法使いの絶対条件だ」

「そ、そうですか? 僕はこの物分かりの良さが、ちょっと心配ですけど……」

 不安げなサフィールを尻目に、ヴィクトールは続きを話し始めた。

「お前の実験結果を基に、ディートリヒは限りなく不老不死に近い肉体を手に入れた。だがそれでも足りず、完璧な術により世界の頂点に立つことを求めて各地で暴れ回っていた。百二十年前、俺の祖先であるジャーヴィス・サンロードがやつと戦い、重傷を負わせることに成功した。――しかし、それと引き換えに、血脈に『魅了』の呪いを刻まれた」

 指先が目鼻立ちを隠す仮面に触れる。メリールウは彼の言葉と、目覚めてから起こった事実を繋ぎ合わせ、おおまかな事情を掴んだ。

「『魅了』というのは普通、相手を支配下に置くための術です。ディートリヒの得意技でしたけど……呪いとなると、先程の女性たちのように、誰彼構わず異性を引き寄せてしまう、という理解でいいですか?」

「すばらしい! やはり魔法使い同士は話が早いな」

 メリールウの理解の早さをヴィクトールは大層喜んでいる。なぜかサフィールも、少しだけ嬉しそうな顔をした。

「そうだ。俺の素顔を一目見れば、女はたちまち熱烈な恋に落ちる」

「……一目」

「ああ、一目でな。厳密に言うと、アーティファクトであるこの仮面を通さずに眼を合わせるのがよくないらしい。いったん視線を介して『魅了』に堕ちてしまうと、その女は全てを放り出して俺を求めるようになる。一定の距離を置けば影響は緩和されるが、迂闊に近付くとあの通りだ」

 さっきの惨状を思い出したか、ふう、と嘆息したヴィクトールは表情を引き締めて続けた。

「我が一族はこの呪いを解くため、敗走したディートリヒの捜索、及びやつの討伐を目標としている。しかし、やつのせいで魔法という概念自体が死に絶えた世の中だ。その上『魅了』の呪いのせいで、お騒がせサンロードなどと呼ばれるほどにあちこちでトラブルを起こすことになり、ついには俺の父の代でオストアルゴに飛ばされた……」

「あら、では、ここはオストアルゴなのですか?」

 オストアルゴといえば、ここバイレールの隣国リトリーナとの境にある地だ。メリールウが暮らしていた地域からはかなり北のほうである。夜間にいきなり拉致されたので、具体的な地名などは分からなかったのだ。

「そうだ。だが、結果としては、それでよかった。オストアルゴの領主となったおかげで、資料に存在だけは記されていたが、ずっと見付からなかったお前を手に入れられたのだからな……ネリー」

 感慨深げな様子の割に、いまだ名前を覚えてくれないヴィクトールであるが、メリールウを見つめる瞳には濁りのない情熱があった。娘を召し使いたちの暮らす別棟に追いやり、食事も一緒にさせてくれなかった母とは、明らかに違った。

「他の実験体よりもいい結果を出したお前に未練があったのだろう。ディートリヒはお前が眠った後も数十年間、お前の体に禁呪によって集めた大量のエーテルを注ぎ込んでいた。その結果お前は、莫大な量のエーテルを溜め込んだ、生きたアーティファクトとなった訳だ! これこそが奇跡だ!!」

 感極まった様子でヴィクトールは叫び、何やら期待に満ちた顔で右手をかざした。

「さあ、実験開始だ。神の光よ、我が身を満たせ」

 それはごく初歩的な治癒魔法である。詠唱は正しい。サンロードの末裔と考えると少ないが、この魔法を使うには問題のない魔力も感じる。しかし残念ながら、というかこれまでの説明どおり、奇跡が成る様子はなかった。

「発動しないな。お前のほうは、どうだ?」

「え、いえ……特に、何も」

 戸惑いながら答えると、ヴィクトールはさほどの落胆もなくうなずく。

「やはりか。なら、お前に俺を好きになってもらうしかない」

「は?」

 俺に惚れるなよって言いませんでしたっけ? 困惑するメリールウだが、ヴィクトールの中に矛盾はないようだ。

「お前も知ってのとおり、アーティファクトは高度なものであればあるほど、使用条件が限定される」

 開いた瞬間に一回だけ炎を噴き出す本程度なら、魔法使いでない人間でも扱うことができる。だが強力なアーティファクトであればあるほど、使用には特定の場所や日付、別に触媒を必要とするなどの制限がかかっているのだ。

「お前自身は、自らの中に蓄えたエーテルだ。もちろん使うことができる。むしろ先程などは、自分でも使用量の目安が分からずに強大な力を振るったばかりか、反動で気を失ったようだな」

「も……、申し訳ありませんでした」

 反射的に謝ったメリールウにヴィクトールは首を振った。

「責めているのではない。お前の存在は、我が一族の希望だ」

 不意に手を握り締められ、眼をぱちくりさせるメリールウに彼は自分の望みを告げた。

「だから、俺に心を開き、お前の中に眠るエーテルを俺にも使用できるようにしてほしい。ああ、魔力のほうは鍛えて維持してあるので心配しないでくれ」

「……え……? それはつまり、ディートリヒを倒して『魅了』の呪いを解くため、あなたも魔法を使えるようになりたい、という意味ですか?」

 噛み砕いて聞き返すと、ヴィクトールはうなずいた。

「そうだ。そのために、俺たちの心を通じ合わせることが必要だと、これまでの研究で分かった」

 だから「好きになってもらうしかない」などと言い出したのだ。しかも、「好き」の種類を彼は指定し始めた。

「ただし、色恋の意味ではない。……これ以上、女に惚れられるのはごめんだ。友情、尊敬、親愛、なんでもいい。とにかく恋愛以外の愛情を、俺に向けてほしい」

「え、ええ……?」

「婚約者だと言ったのは、『魅了』の呪いがあの宣言で薄まることを期待してだ。――俺の父も、母を娶ることによって、対象を母一人に限定させたからな。あまり効果がなかったようで残念だ。だが、俺は少なくともこの呪いが消え去るまでは、誰とも本当に結婚する気は……」

「ヴィクトール様、ヴィクトール様、ちょっと!」

 黙って聞いているのも限界に達した様子だ。堪りかねたように、サフィールが声を張り上げた。

「なんだ、サフィール」

「ちょっとって言ってるでしょ!? いったんメリールウ様と離れて下さい! あーもう、やっぱり先にアントニオさんのレッスンを受けさせるべきだった……!! とにかく! 作戦会議が必要です!!」

「離れろと言われても、馬車の中だぞ? このまま聞く」

「だめですよ! このままだと、メリー様に丸聞こえじゃないですか!! とりあえず、その方を膝から降ろして下さい!」

「いや、だめだ。単純接触の回数が増えるほど、親愛の情というのは呼び覚まされるものだそうだからな。それに道が悪い。支えておいてやらないと、貴重な資料が損なわれる可能性がある」

 血相を変えて説教するサフィール、真面目腐った顔で正論らしきものを述べるヴィクトール。噛み合わないやり取りを見つめているメリールウの唇から、笑みが零れた。

「……ふふっ」

 瞬間、馬車の中に緊張が走った。先程の大笑いが響いているのだろうが、安心してほしい。

 元々いるかいないか分からない、空気のような娘だと言われていたのだ。目覚めたら二百五十年経っていて、一族郎党死に絶えていた以上に心を揺らすことなど、もう二度とないだろう。

「面白い方ですね、ヴィクトール様って」

 ヴィクトールの言うことは、ものすごく端的で身も蓋もなく自分勝手で、正直だった。

 母の機嫌を読み続け、彼女の真の求めに相応しく振る舞うことに疲弊した胸には、いっそ爽やかに染みた。

「分かりました。そのお話、お受けします」

「ええ!? いいんですか、メリー様!?」

 真っ先に反応したサフィールに、笑顔でうなずいてみせる。

「構わないわ。だって私、気付けば家族もみんな死んで、一人ぼっちになってしまったんだもの。ヴィクトール様に協力すれば、衣食住の世話ぐらいして下さるでしょう?」

「当然だ。『白き魔法使い』の娘に相応しい待遇を約束しよう」

 間髪を容れずヴィクトールは請け合ってくれた。ぐーすか寝ている間に過去との訣別は済み、未来の保証も得られた訳だ。何やら大変不安そうなサフィールには悪いが、むしろ人生で一番、晴れ晴れとした気持ちだった。

 だって、もう、誰もいないんですもの。ディートリヒにさらわれても、もしかしたら誰かが助けに来てくれるかもしれないと、そんな希望を持つ必要すらなくなった。

 自由なのだ。そう思うと、なんだかよく分からないうちに手に入った莫大なエーテルや魔力とは別に、やる気とか未来への希望みたいなものがムクムクと湧いてくる。

「絶対に死んだと思っていたけど、こうして目覚めたのも、神様の思し召しだと思うの。いろいろな名前で呼ばれるのも、生まれ変わった感じがするし。新しい人生、なんでもチャレンジしてみなくっちゃ!!」

 えいやと腕を突き上げて、はつらつと宣言する。生家の隅で息を殺し、じっと身を潜めていた時とは大違いの開放感にメリールウは包まれていた。不老不死チャレンジは失敗に終わったが、やった甲斐はあったというものだ。

「なんと前向きな娘だ、すばらしい」

 ヴィクトールもメリールウの反応がいたくお気に召した様子である。

「大丈夫ですか? メリー様が向いてるの、本当に前ですか?」

 サフィールの不安はかえって増している様子だが、前だけを向いて生きていくと決めたメリールウは、さっさと次の話題へと話を進めた。

「ところで、私自身の力によってディートリヒを倒す、というのはありですか? なんだか私、すごく強い魔法使いになったみたいなので」

 唯一精算できていない過去、ディートリヒ。彼が与えてくれた力によって彼を滅ぼす。それこそが、この目覚めの最大の意味のような気もしていた。

「もちろんだ。お前も戦ってくれるなら、それに越したことはない」

 メリールウをただの資源として利用する気はないようだ。逆に矢面に立たせぬよう、自分を魔法使いにしてくれと言ったのだろう。

「だが、お前を一人で戦わせる訳にはいかない。平行して、俺も魔法が使えるようになるよう、協力してほしい。我が一族の恨みは、できれば俺の手で果たしたいからな」

「ええ! がんばって、あなたのことを程々に好きになってみます!!」

 チャレンジ! とばかりにメリールウは笑う。その様をサフィールは、一人気を揉みながら見守っていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る