13.晩餐

 

 その日の夜も、月は出ていた。


 彼女は、そこに月があるのを何度も確認するように、時折夜空を見上げながら歩いた。僕も彼女が夜空を見上げるたびに、つられて夜空を見た。白く、煌々と、自ら光を放っているかのように明るい。夜空を眺めて寄り添って歩く、それだけでもう十分だった。もう何もいらない。本当にそう思う。

 

 突拍子もないところは、今となってはそれこそ彼女らしいと思う。そもそも、彼女が僕の前に現れたのもまた、突拍子もないことだった。


 思えばそれから、非日常の連続だった。


 僕と僕のアパートの一室ごと、別の世界線にトリップしたのかと錯覚するほどに。


 もう日常には戻れない、そう思っていた。が、今は炭火を挟んで、彼女と向かい合わせに座っている。


 今後について具に話し合う、そう決意して、そしてまだ答えも出ていないのに、二人でふらっと外に出た。晩餐を楽しむというのだ。それこそ突拍子もないことだが、僕と彼女は、駅前の商店街にある割と大衆的な焼肉店に来ていた。


「あ、あのさ、焼く前に食べるのは、ちょっと──」

「そう? 私、レアの方がやっぱり好きみたいよ」

「レアっていうか、完全に生じゃない? それ──」

「ふふ、そうね。でも美味しいわよ。このカルビっていうやつ、凄く食べ応えがあるわね。タン塩というのもいいわね。ほどよく脂肪が含まれていて、とても美味しいわ。脂肪は甘くて好き」

「甘いんだ?」

 彼女は上手に箸を使い、テーブルに並べられた肉をタレもつけず、というか炭火の網の上に一瞬たりとも乗せることなく、そのまま直に口に運んでペロリと食べていた。

「あっ、君、じゃあ葱タン塩は?」

「ええそれも好きよ。薬味として葱は相性がピッタリね。肉によく合うわ」

「そ、そうだね」

「次はすこーし炙ってみようかな」

「あ、レモンをかけるとまたいいよ──」

 と、カットレモンをギュッと搾って、タン塩にかけてあげた。

「あっ! いいわっ! レモンの酸味が凄くいいアクセントになるわね。爽やか。臭みが消えて、まるで肉のスイーツよ。少し塩をかけるともっと良くなるわね」

「に、肉のスイーツですか?」

「でも、肉の臭みって、旨みでもあるから、消えすぎても物足りなくなっちゃうの。私にとってはね。ふふふ」


 などと、大衆焼肉店で彼女と肉を食べながら話すなんて、逆の逆でむしろ非日常だ。なんて素敵なのだろう。俗に言う焼肉デート。関係が深まった恋人同士でないと不用意に誘えないとかなんと、何故そう言われるのか分からないけど、これはまさしくデートだ。彼女との、初めての。ただ、生肉のままパクパク食べる彼女は、まあご愛嬌というところか。

 

 まるで異次元の霧が晴れ、普通の世界に戻ったようだ。しかも彼女と共に。ごく自然に、日常の風景に違和感もなく馴染んでいる。僕が知らなかっただけで、その実、世界の見え方、世界の景色というものは、本当はちょっとしたことで、ガラリと変わるものなのかもしれない。


 でも僕らの現実は、これが単なる嵐の前の静けさ。彼女の言う「めんどくさい事になる」その少し前の、ほんのひとときの夢に過ぎない。それは僕にも分かっている。


「ミディアムぐらいに焼いたお肉も食べてみたら? 美味しいよ。ていうか、ここ焼肉屋さんだから。焼かなきゃ、その、本質的に、焼肉にならないよ」

「あは、そう? 焼いて食べるのがこの料理の本質? じゃあ分かったわ、お前、美味しく焼いてみてよ。私のために」

「うん、いいよ。じゃあ、美味しく焼けるまで、代わりに、これ注文したら、ユッケ、これは生で食べるメニューだから」

 と言って、僕はユッケと2杯目の生ビールを追加注文した。彼女はもあるので、オレンジジュースを飲んでいる。年齢を証明する身分証が無かったので、渋々そうしたのだった。

「でもそうね、こんな事なら身分証明書を偽造しておくべきだった。迂闊だったわ」

「偽造? そんなわざわざ。あ! でも今後のこともあるし、いざという時のための身分証も必要かもね、うん確かに。社会における身分を作っておく、君が世を忍ぶためには必要だ。これは重要なことだ。ルイーズはもういない人だし」

「そうね、私が今後ルイーズと名乗るのは無理だし。じゃあ、お前、私の新しい名前を考えてみてよ。どう?」

「えっ! 僕が決めるの?」

「うん、そうよ。なんでもいいわよ。私はこの世界では何も無い、浮いた存在。お前と私、それが全てよ。だからこそ、お前が決めて」

 

 社会と全く関係性のない存在。考えてもみれば、以前の僕もそれと大差は無かった。なんの縛りもしがらみもないということは、それは一見、本当にすべてにおいて自由で、気楽で素敵なことのようにも感じてしまうが、しかし、でもそれはつまり、孤独ということと同義だ。社会から孤立した存在だ。そう見ると、それは悲しい。


「じゃあ、そうだな──、といっても、難しいなぁ。いきなり君の名前っていっても」

「そう? なら、とりあえず関係はどうする? もし突然職務質問されたらどうする? 恋人? 夫婦なんて無理よね。それとも兄弟ってことにする? お前、妹がいるのよね」

 あ!

「え、なんで知ってるの?」

「ふふ、お馬鹿ね。それは、お前の記録からなんでも分かるわよ。ネットの情報は膨大なのよ」

「既に僕の家族の事も知ってるんだ。ていうか妹って、君、あきらかに日本人じゃないし──」

「お前、この前、髪を黒くしたらとか、言ってたじゃない」

「え、ああ、うん。黒くても似合うと思うよ、でも君と妹じゃ、まったく似てないし、月とスッポンだよ」

「ふふ、なによ? お前、どっちが月なのよ?」

 と言っていると、追加注文の生ビールとユッケがきた。


「または、そうね、私が留学生で、大学で知り合って、仲良くなったと──、ちょっと! なによこれ、美味しいわ! ただの小間切れ肉のようで、実は味付けもしてあるのね。それに卵黄がとてもよく合うわ。うん! もう、ほんとうに人類というのは、貪欲よね。美味しいものをどこまでも追及する」

 などと言いながら、彼女はユッケを一瞬で平らげて、さらに二皿を追加注文したのだった。


「ルイーズをもじって、ルイージにする?」

「私をゲームのキャラクターにするつもりなの? お前!」

「ウソウソ。じゃあ、出身地のイギリスからイメージして、イングリットとか──」

「お馬鹿ね、お前、イングリットは北欧系の名前よ。知っているかしら? ハリウッド女優イングリッド・バーグマンはスウェーデン出身なのよ」

「イングリッド・バーグマン? 昔の女優さん? ていうか、よく知ってるよね君。この世界に現れて間もないのに一体どうやって、てか、どんだけ勉強しているの!? 驚異的だよ」

「君の瞳に乾杯よ! 情報は膨大なのよ」

 彼女の好奇心も膨大過ぎる。ジャンル関係無しの無差別で。


「でも、それじゃあ、ルイーズって──」

「ルイーズはどちらかというとフランス語圏の名前ね」

「へえー、そうなんだ。君、イギリス出身なのに」

「そうね。でも、彼女の名前の由来は覚えていないわ」

「それじゃあ、あえてフランス風ってことで考えると──、フランソワとか」

「お馬鹿ねぇ、お前、いい、フランソワは男性名よ。女性形はフランソワーズ」

「あ、そうなんだ、って、マズイ、僕、馬鹿過ぎるな」

「そうよ、お馬鹿よ。ふふふ」

「でも、うん、フランソワーズ! なんだか見た目にはぴったりな気がするけど──」

「王侯貴族のようね」 

「たしかに。うーん、じゃあベタな、アリスとか! いや、ルイズとか、いやいや、うーん、どう考えても、行き着く先はなんかのゲームとかアニメのキャラクターになってしまうなぁ。何でもありだと、逆に難しいね」

「そうかしら?」

「いっそのことカルビが好きだから、カルビ? カルビィにするか。いやカルビィは駄目か。ルビィ? いや、ハラミ? ミノ、ハツ──」

「ちょっと、お前、真剣に考えているの? ふざけているでしょ!」

「いや、ゴメン、そうじゃなくて、やっぱりルイーズから変化させて、ルイーゼ? うむ」

「なんでもいいわよ。お馬鹿ね。あと、私はこのままルイーズの容姿でいいのかしら?」

「え!? あっ、変えられる!? そうか! いやでも、今更別人の姿になっても、なんだか違和感があるというか」

「うん、そうね。お前もそう考えるのね。私もそうよ。それに、今の姿、好きよ私。彼女の記憶も、私の中にあるもの」

「ただ、外出する時だけは、少し変えた方がいいのかもしれないね。君を探してる連中がいる訳だし──」

 そう言った瞬間、彼女は突然パーカーのフードを素早く被り、立ち上がった。

「化粧室に」

 と言って、席を立ってしまった。

「え?」

 なんか変なこと言ったかな? と振り返り、彼女の背中を目で追ったその時、僕の視界に、ぎょっとする人影が見えたのだった。入口付近で店員と話す制服姿の男性二人。あの職務質問してきた巡査達だった。

 

 何故!? こんなところに!? 何故来る? 年配と若い巡査コンビは、店員に便宜的な軽い敬礼をして、店内を巡回し始めたのだ。彼女はこれを察知して? 僕は息を潜めるように、縮こまるようにして、俯き加減でジョッキを口元にやり、彼らの方向から背を向け続けた。


 が、僕の背中に向かって、聞き覚えのある、睨め付けるような、妙に粘り気のある年配の男の声がかけられたのだった。

「おや? 君は確か、コンビニ跡地の前でお話を伺った彼だね」

 来た! 左腕を見たのか!?

 振返り──、

「え? あ! あー、お巡りさん、はい。そうですね。こんばんわ。また、聞き込みですか? ご苦労様です」

 努めて気さくに対応しようと、普段の僕なら先ずやらない、いや出来ないほど、言葉を並べた。

「また会ったね。奇遇だね。何か縁でもあるのかなぁ」

 などと、笑みを浮かべる年配の巡査。その声につられて若い巡査もやってきたのだった。

「おっ、君は、学生くん、あれ? 誰かと来てるの? そりゃそうだね。女の子? 彼女?」

 と、若い巡査はまた軽いノリで語りかけて来る。

「いや、あの──」

 マズい──、と思たその刹那、僕の脳裏に「妹!」という声が響いた。強い口調で、まるで彼女の声で──。

「あ、あの、妹と来てて──」

 咄嗟にそう口走っていた。そして瞬時にマズったと思い、全身から汗が噴き出してくる。

「へぇ、妹さん、兄弟水入らずで、仲いいんだね」

「ええ、まあ──」

 と、いい加減な相槌を打ったその時、フードを被ったままの彼女がなんのためらいもなく巡査二人に割り込むようにして、そして席についたのだった。そして、さっとフードから顔を出す。

「どうしたの? おにいちゃん」

 と、言った。

「あっ! え、あっ──?!」

 そんなバカな──、

「どしたの?」 

 聞き慣れた声も、そうだった。僕の目の前に座った彼女は、僕の妹の恵だった。

「め、メグミ、恵──」

「なにきょどってんの? おにいちゃん。で、なんでお巡りさんが? まさか、なんかしたの? うそっー!」

「いや、なんていうか──」

「いやぁー、ごめんね。妹さん? いや、うち等は今定期巡回中でね。ついこの間ね、ほら停電があったでしょ? あの時の様子を、コンビニの辺りかな? お兄さんに一度お話を伺ってね、でね、またたまたまね、ここで偶然にも出会ったものだから、つい立ち話をね。ほんと奇遇だよね、お兄さん」

「ええ、まあ、あははは」

「へぇ、お兄ちゃん、別に悪い事したわけじゃないんだ」

「んなわけ──」

「いえいえ、妹さん、ご協力いただいただけですよ。なんだか、ごめんなさいね。水入らずのところ。仲のいいご兄弟なんですね。こりゃ、お邪魔しましたな」

 と年配の巡査が切り上げたのだった。

「ほんとお邪魔しちゃったなぁ。しかし、こんな可愛い妹さんがいたんだ! 学生くん! 隅に置けねぇなぁ! なんてね」

 と若い巡査。

「ふーん」

 と恵は、なんの不自然さも見せず、というか堂々とした様子で巡査達をジロジロと見るのだった。見た目は完全に妹だった。が、その口ぶりや態度は矢張り妹のそれではなかった。これは彼女なのだ。そう分かって、すぐさま僕は冷静になれたのだ。いや、冷静というのも奇妙だが、その場の空気に合わせられたのだ。

「じゃ、行くか」

「はい、ではでは、失敬失敬」

 と、若い巡査は軽い、少し格好つけたようなコミカルな敬礼をして、そして二人は僕等のテーブルから離れて行ったのだった。


 二人の巡査が店を出るまで、僕は黙っていた。彼女に訊きたい事、言いたい事が頭の中を渦巻いたが、まずは冷静に、それに危険が遠のくまでは、下手なことは話せない。黙々と肉を焼き続けていた。


「ふふふ、びっくりした? お前、でもうまく合わせたわね。私、少しだけど冷や冷やしたわよ」

「び、びっくりどころじゃないよ、君! どうやったの、なんで妹になれるの?! てか! 僕の頭の中に直接言葉が、あの、その、語りかけてきたのも、君だろ? そんなことが──」

 僕は何から訊いていいか分からないほどだった。

「まあ、そうね、大体そうよ、言ったのも私、そして妹になったの」

「こんな短時間で?」

「外見はネットを介せばいくらでも、個人の携帯端末のデータもすべて閲覧できるわ。画像ね。実際に会いに行かなくても、映像も街中の監視カメラや衛星軌道上のものも使える、外見はそれで分かっていた。それに、生体情報はお前のDNAからね。それである程度は推測して、色々調整したのよ。とりあえずは顔が似ていればいいかなと、骨格や身長、年齢などはいい加減よ。でもいい出来でしょ?」

「信じられない」

 僕は彼女の頬に手を伸ばし、そっと触れたり軽く抓ったりした。

「なによ、お前。あ! まさか、妙なこと考えてないでしょうねぇ、お馬鹿!」

 と言って、なにやら含みのある笑みを浮かべる彼女──。

「妙な事って──? んなわけないよ!」

「冗談よ、お馬鹿ね」 

「で、でもさ、さっきまで金髪の女の子だったのに、急に黒髪になったら、周りのお客達が妙に思わないか? 店員さんにバレてない?」

 僕は彼女に顔を寄せ、少し小声でひそひそと言った。今更だけど。

「大丈夫よ。みんな周りの客のことなんて、さほど見てないし、気にしてないわよ」

「そ、そうかな?」

 いや、可愛い女の子がいたら、男は絶対見てるから! それよりも、あの巡査達、何故またこんな店内にまで? これは本当に偶然なのか? 停電の事を調べている巡査がわざわざ、そして2度も僕と出くわすものなのか? そしてそもそもの根本的な問題点として、停電の原因は僕等なのだ。本当にうまく誤魔化せたのだろうか?

「大丈夫よ、髪の色なんて、化粧室で変えたのかなとか、勝手に適当に考えて、それでしまいよ」

 そう言って彼女は、生の特上牛カルビを一切れ、ぺろりと口に放り込んで微笑み、僕の不安を曖昧にしたのだった。


 それから僕等は、すぐどうこうする事も出来ず、そのまま焼肉を続けたのだった。そして、これからについて話し合った。二人で遠くに引っ越すこと。田舎暮らしも考えたが、あまりド田舎過ぎると、住民が少なくかえって目立つので、隣人に干渉しないある程度の都会にすること。彼女の新たな身分証、名前、国籍、在留資格等、完全にルイーズとは別人に成りすますことは可能か? など、考えることは山ほどあった。僕がお酒を飲んでいるのもあり、冗談交じりな会話も多くなり、難しい問題のはずなのに、とても楽しく会話していた。二人の未来を、白いキャンバスに夢を描くように語り合った。


 それは本当に楽しいひとときだった。彼女と二人で外食する。ただそれだけの事が、こんなにも幸福な気分にさせるのか。人との繋がりや絆って、こんなにも大切で必要なものなのだと、僕は心が苦しくなるほど実感した。


 それから、僕等は店を後にした。


 帰り道、店では終始オレンジジュースだったので、部屋に戻るとすぐさまビールだのワインだのと言い出すだろうと、飲み物でも買って帰ろうかと提案したのだが、意外にも彼女は首を横に振り、だた「帰りましょう」とだけ言い、さっさと住宅街へ向かうのだった。そして真っ直ぐアパートには向かわず、わざと横道に逸れたりなどして、遠回りにくねくねと歩き続けるのだった。

 先を歩く彼女に、

「夜空を見上げながら、少し歩きたいの?」

 と訊くと、

「そうね」

 とだけ言って振り返り、柔らかく微笑みかけるのだった。


 それからいつの間にか、僕等はアパートから歩いて数分の所にある、近辺では一番大きな公園に来ていた。


 公園のベンチで夜風にでもあたって涼みたいのかな? ずっと部屋に引き籠っていたし。そんな彼女の心境の変化に、僕は少し嬉しさを感じていた。「少し待ってて」と言って彼女は公園のトイレに入り、しばらくして戻ってくると、元のルイーズに戻っていた。公園内の眩しいLED街灯に照らされて、金色の髪が絹糸のように白く輝き、僕は素直に見蕩れた。

 

 僕等はベンチに腰掛けて、夜空を見上げた。

「月が、綺麗ね」

「うん」

「お前、私と出会った事、後悔していない?」

 不意に彼女は、そんな事を切り出した。

「してないよ。後悔なんて、なんにも」

「そう? 普通に考えれば、お前には多大な迷惑をかけたわ。──そもそも、私は負の感情の念、心の傷のようなものなのよ」

「そんなことないよ。僕が今まで知り得なかったこと、沢山知れた。人として大切なこと、知ったんだ。君と出逢えたからだよ」

 そう僕が返すと、彼女は立ち上がり、ベンチに座る僕の正面に立ち、言った。

「そう。うん。私も、お前と出逢えて、よかったわ。この世界のこと、人間のこと、自分自身、なに一つ分からなかったけれども、今は、なにが大切か分かる。ずっとどうするべきか迷っていたけれども、もう、後悔はしてないわ」

「うん」

「負と正が影響して、打ち消すように、私は変化したのかもしれない」

「うん。君にとって、良い変化なんだね」

「ありがとうね。お前。お馬鹿な、お前」

 と言って彼女は、座っている僕に口づけをした。彼女の柔らかな髪が僕の頬を撫で、顔に添えられた彼女の両手がとても温かい。

「ありがとう」

 と、再び彼女は言って、身を翻し歩き出した。

「あっ、え、もう帰る?」

 と僕が追いかけると、再びくるりと身を翻し、僕に立ち塞がるように真っ直ぐに立って、そして僕をしかと見据えて、言った。

「もうここで、おしまい」

「えっ?」

「もうここで、お別れ。お前は、一人でまっすぐ部屋に帰って。私は、行くわ」

 

 えっ──?


「ええ!? どういう事!?」

「もう、こうするしかない。つまり、無理なのよ。もうこれ以上、お前とは一緒にいられないわ。──私を捜索している連中はそこまで来ている。半径500メートル以内、展開中。包囲網よ。逃げられないわ」

「そんな!? 君は、どうするつもりなの!」

「さあ、あれらの仲間になるつもりもないし、なんとか逃げるつもりだけど、ただじゃ済まなさそうね。下手をするとお前も、ただじゃすまない。今の段階では、お前は何も知らず私に利用されているだけの、哀れな大学生という見解ですんでいる。彼らの通信から。今ならまだ大丈夫」

「どういうことなのさ? よく分からないよ!」

「今一人で帰れば無事に済むということ。もし私の正体を知っていて、潜伏の協力者となれば、ただじゃ済まないわよ。世界をひっくり返すかもしれない機密を知っている、その事実がお前にとってどういう意味を持つのか。組織が知られたくない機密、それを知ってしまった一般人なんて、想像がつくでしょ?」

「まさか──」

「今ここで、お別れなのよ。早く行って。まだ間に合う。腕は治してあげられなかったけど──」

「でも、君はっ!?」

「私はあの事故当時、炎に焼かれて灰になってもここまで生物として復活したのよ。こんな私をどうするのか、連中もそれなりの勝算はあるんでしょうけれど、私一人なら、なんと逃げ延びることも出来ると思うわ、おそらく。──私が上手く逃げ延びて、いつの日か、全てが落ち着いて、ほとぼりが冷めたなら、あの草原で、また逢えるといいわね」

「君、もし、連中に捕まったら?」

「さあ、私は協力するつもりもないし、そうなれば、おそらく、どこかに封印されるか、消去されるかどっちかね。でも、もうかまわないわ。私はこの世界における大切なもの、全てもらったし、学んだわ、お前から。だから、後悔はしない」

「ちょっとまってよ!」

「お前は、お馬鹿で、弱い。でもだからこそ、少なくとも、優しい。弱者や、相手の立場で感じる心を持っている。お前の言っていた人間の持つ尊さ、人を思いやる気持ち、お前はそれを示してくれた」

「だから──」

「だから早く行って! お願い。私を悲しませる気? お前」

「だってっ、二人で逃げて、一緒にって──」

「もう無理なのよ。お願い、行って! お前が私を想うならば、お願い。私を悲しませないで。最後の最後で、感情に包まれて、消えるのは嫌よ。行って、早く、大切に思ってるんだからっ! お前だけは絶対に生き延びて!」

 そう叫んで、僕に飛び込むようにして口づけし、そしてすぐさま身を翻し、彼女は走って公園を飛び出したのだった。


 僕は茫然として、彼女の走り去る後ろ姿を眺めていた。ふわふわと跳ねる彼女の髪を見つめていた。

 どうすることも出来ずに、ただただ、この現実を受け入れることも出来ずに。









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