11.胸襟
話の流れからして、それはきっと、そうなのだ。
「僕が、君の中を、見る?」
彼女の言葉につられるように、僕は訊き返した。
彼女の言っている事の意味が、全く理解できていない訳ではない。どうやってそうするのか、不安だからでもない。彼女の存在の根本を知るとか、そんな事よりも、それはただ、僕がどうしようもなく彼女を好きなのと同じく、彼女もまた、僕を唯一の存在として必要としてくれているのか、それを確かめられる? そう思ったからだ。
念の場としての彼女が、最も共振した魂、それが僕で、だからこそ彼女はここに現れて──、
「そう、念の場、その溜りよ」
彼女はそう言って、大きな瞳で僕を見つめ、そしてワインを一口飲んだ。吸い込まれそうになるほど透き通った瞳、いや、すでに吸い込まれている。僕もワインを一息にグッと飲みこみ、咽ながらも、
「見たい、君の、その、溜りの中の世界にを知れるなら、見てみたい!」
と、そう彼女に言った。
そしてそう言った矢先、刹那のこと、それは寧ろ、心のどこかでくすぶっていた僕本望ではないか? そう感じられた。もうすでに、僕は彼女という存在に、多くを依存しているのかもしれない。後ろ向きとか、現実逃避とか、そんな風に思われるかもしれないけれど、正直それは今の僕にとって、究極の救いなのかもしれない。
「お前、怖くないの?」
「怖い? いいや、これっぽちも。だってそれは、君の精神世界を見るって事でしょ? 君の心を──、 というか、その前に、君、なんで急にそんな事言うの?」
「そうね──」
と言って、彼女はしばらく黙ってしまった。
彼女と心を一つにする。身も心も溶け合い交わり合い、ともすれば同化したい。それは彼女と体を重ねている時、いつも僕が感じることだ。そして時に、身も心も一つになっているとさえ感じる。それが肌の触れ合いの中の恍惚感、性的、感覚的なものであるのは分かっている。しかし、それがもっと明確に可能ならば、考えるまでもない。その方法は想像がつかない。が、仮にそれが物理的、肉体的にどうこうしてであっても、些か不気味ではあるが、でも今更、不気味などというのは今の僕には些細なことだ。
「さっき君が言っていた、この先嫌なことになる、という事と、なにか関係があるの?」
「うん。そうね、そう言う面倒なことは一旦置いて、まずお前、私が何故ここに居るか、理解したいでしょ?」
僕は黙って頷いた。
「すべて偶然の出来事かも知れない。でも、結果から見れば、お前と私は同類、あるいは共通の念があると考えられるの。同じなの」
「僕と君が同じなの? 人として? 人間性みたいなもの? 或いは、その、君が、僕の事が好きという事?」
「ふふん、お前、そう言う事、いちいち言わせたいのね、お馬鹿なんだから」
「ごめん。でも、嬉しいんだ」
最も共振した魂。
別の言葉で言うと、それはつまり、愛ってことなのだろうか?
でもそれでは、なぜ僕なのか──、
「じゃあ、今すぐ始めましょうか」
と言って、彼女は立ち上がった。
「え! 今すぐ?! って──」
「ん、なに? 怖気づいたの?」
「いや、怖くはないよ。でも、あの、えっと、折角だしさ、パエリア、食べようよ。君の手料理を味わってからでも、遅くはないんじゃないか? 君と僕は同じで、すでに心は一つ、っていうか、そうなんでしょ? その──」
「ふふ、そうね。別に時間は関係ないわ。答えは同じだから。──ほんとにお前、食べること、寝ること、そういうことには人一倍貪欲なんだから。でも、分かるわ、私にも」
と言って、彼女は笑った。
それから彼女はエプロンをし、キッチンに立つ。僕等は一緒に料理をした。僕が魚介類の下ごしらえをして、そして彼女がパエリアを料理する。ワインを飲みながら、時に抱きあったり、キスしたり、ゲラゲラと笑ったり。それは、どうしようもなく満たされた、泣けるほどに幸せなひと時だった。きっと、僕が今まで生きてきた中で、一番だと言い切れる程に。
パエリアを食べ終わる頃には、お互いひどく酔っぱらっていて、そして、いつの間にそうしていたのか、気がつくとベッドの中だった。お酒が程よく回っているのも相まって、火照った彼女の体が湯たんぽのように暖かく心地よい。仰向けの僕の上に覆いかぶさり、胸元に頬をつけて、彼女はすうすうと小さな寝息をたてていた。僕は彼女ごと掛け布団をかぶり、そして抱きしめた。
もういっそこのまま、二人とも溶けあって無くなりたいとさえ思う。
うとうとと、僕も眠りに落ちそうになっていた時、突然にインターフォンが鳴った。そしてそれはしつこく、寝ていても起こして出させようとしているかのように、何度も何度も鳴った。彼女も目を覚ましたようだが、黙って僕の胸に頬をつけたまま動かず、息を潜めるようにしていた。なので僕は、居留守を決め込んで無視した。
が、その訪問者は、なんと数十回以上もインターフォンを連打し続け、しばしの静寂、そしてようやく諦めたのか、立ち去る足音が微かに聞こえた。居留守をしているのを知っているのか? にしても度を越したしつこさで、仮に居留守だと分かったとしても3度ほど鳴らして出ないのであれば、普通は立ち去るだろう。それだけで、ただの訪問者でない事は察せられた。
「嫌な奴ね。鬱陶しいわ。せっかく気持ちよく眠っていたのに」
「ほんとだ。人間性を疑う」
ある意味、猟奇的だった。不安になるほどに。
「あの、もしかしてだけど、君を探している連中なのかな?」
「うん、そうね、おそらくは──」
「でもなぜここが!?」
「ネットの接続記録からかしら。私も、最初の頃はよく分かっていなかったのよ。事の分別が。だからお前のPCから痕跡を消すことなく色々とアクセスしてしまって。お前の端末を使わず
「僕も捜索対象になってるの?」
「さあ、どうかしら。でも、ここの回線の痕跡から辿られた可能性があるから、確認のために来たのかもね。今はわざと迂回してネットに接続してるから、誤魔化せていると思うけれども。でも、ネットを監視している奴がいるみたいね」
「監視している奴?」
「本質的に、私や私の同類は人間の実社会よりも、サイバー空間の方が親和性が高いの。そして、それを知ってるのかも、向こうも」
「向こう? それは一体何者なの?」
「さあ、人間ではないのかもしれないわ」
「君と同類の、その、普通の人間ではない存在ってこと?」
「うん、そうかもしれないし、でも、違うかもしれない。分からないわ。仮にサイバー空間を監視してる奴が、私と同類だとしても、私と違って、人間としての心や感情なるものがまるで無いみたいよ。何も感じられない。だから私も気がつかなかった」
「え、どういうこと? 君の同類でも、君のように人になったのとは違う存在もいるということ?」
「そうね。可能性はあるわ。エネルギー体のまま。でも正確には分からない。今はまだ。そもそも最初の頃は、興味もなかったし」
「どうするの? これから。その同類と──」
「そんなことより、お前、そろそろ、しない?」
そう言って、彼女は腕を伸ばし、僕の頬を軽く抓った。
「あ、っと、君の──」
「そう、私の中」
その吸い込まれそうな瞳を、僕はじっと見つめた。
不安も、訊きたい事も沢山溢れるけれども、それも中を見れば──、
「見るということは、その、僕は、どうなるの? 繋がるの? 通じるの? もしかして、食べるの?」
「ふふふっ、お馬鹿ね」
「今のままでも、こうして君を見つめていると、心が通じ合ってる気がするよ。さっきも、溶け合ってたし」
「ふふん、いやらしいわね、お前。間違っては無いけど。そうね、でももっと本質的なものよ。いいから黙って、目を閉じて」
「え、もうこのまま、直ぐに?」
「ええそうよ。いい?」
「う、うん」
そうして、僕は目を閉じた。彼女はいつも突然で直球だけど、今回は急いでいるようにも感じた。
彼女はそのまま馬乗りになり、そして僕の後頭部に手を添えて持ち上げた。
「動かないでね」
「う、うん、なんか、すこし、嫌な予感がするんだけど──」
「静かに、リラックス」
その彼女の言葉の直後、閉じているはずの僕の目に何かが見えた。
──え?
黒っぽいソレは、真っ直ぐに迫って来る。というか──! 僕の視覚に突き進んで?! 抉り込む!
「ぐぎゃああああああっ!!」
ソレは、僕の左目に突き刺さって、グイグイと中に食いこみ──、
「うぐっ、き、君──」
どうやらソレは、彼女の指だった。ひどく鋭利に尖った。
「うがぁががががっ、君、なっ、なにをっ、ちょっ、まっ、うげぇっ」
「もう、うるさいわねぇ、黙って、リラックスよ、リラックス!」
そう言って彼女は僕に口づけをして、さらに指を押し込んだのだった。
「うぐっ、うううっ」
黒っぽかったソレは、徐々に色を失い、白みを帯びてきて、視界はモノクロ、それから白銀、そして真っ白になった。というかこれは、僕の思考が真っ白になってしまったのか? まるで自分の肉体から、世界から、魂がフェードアウトするかのように──。その刹那、遠くに消えていきそうな意識の中で、僕は直観した。人は、この肉体を通して、肉体を端末として、この世界にアクセスし、顕現しているのだ、と。どこからともなく、魂はこの肉体にアクセスしているんだ──、
思考が細りゆく中、そう考えたのだった。
そしてそれから、僕は意識を喪失したのだろう──。
気がつくと、僕は草原に倒れていた。なだらかな丘陵地、青い空、白い雲、遠くにとんがり帽子のような木々が並んでいた。穏やかな陽気、まるで西洋の絵本の中の世界、そんな景色が広がっていた。
ここは、彼女の、原風景? 僕の住む街ではないのは確かだ。が、ここは──? それは記憶の底のしこりのように感じられ、ふっと何かが引っ掛かり、弾けるように広がった。そうだ、ここは、僕が一度訪れたことのある風景だ!
遠くに、らくだ色の石壁、鈍色のスレートの三角屋根、四角い煙突、母屋と小屋の数棟並んだ小規模な邸宅が見えた。
僕はどうすることもなく、そこへ向かった。
小高い丘を登っていると──、
「あっ!」
草原の中に、小さな女の子がいた。牧草の緑の中にポツポツと咲く小さな黄色い花をプチプチと摘み、両手いっぱいに握っている。陽光にその金色の髪がキラキラ輝く。
僕がその小さな女の子に歩み寄ろうとすると、その子はサッと立ち上がり、駆け出した。まだ2歳ぐらいか、そのおぼつかない駆け足で向かった先には、男の子がいた。
「えっ?」
その小さな女の子に比べると、些かしっかりとした背丈の男の子。といってもまだ少年というには幼い。5、6才だろうか、小さな男の子。
彼は笑顔で彼女を迎え、駆け寄る小さな女の子を、その小さい体で受け止め、懸命に抱き上げようとする。が、女の子の勢いに負け、そのまま牧草の上に倒れこんでしまった。
きゃっきゃっ、と笑う子供達の声。女の子は黄色い花を男の子に見せ、満面の笑み。男の子は彼女を立たせて、衣服についた土埃を払ってあげて、そして手を繋ぎ、邸宅の方へ歩き出した。
僕は、その二人の後について歩いた。
邸宅、そうだ、僕はこの邸宅を知っている。いきさつは覚えていない。が、僕は大昔、この邸宅で何日か、いや数ヶ月ほどか、過ごしたのだ。丘陵地の邸宅。間違いない。
そして、前にいる小さな女の子の手を引く男の子、それは、幼い頃の僕だった。
幼かった頃の記憶。そう、僕は親の仕事の都合で幼少期を英国で過ごし、日本に帰国したのは、小学校に入学した時だった。
「いろいろ、思い出した?」
振り返ると、彼女がそこにいた。
「君──」
「そう、私」
「ここは、君の中の世界? でも、これは、僕の過去の記憶」
「うん、そうね、お前の記憶。でもあるけれど、ここは私の、いいえ、彼女の記憶でもあるの」
「え!」
彼女は邸宅の方を見つめる。
「まさか、あの女の子──」
僕は振り返り、幼き頃の僕に連れられている、その小さな女の子を見た。
「そうよ、彼女、ルイーズ。あなた達は、以前に出逢っていた。記憶を共有していたの。そしてそれは、心の底に焼き付いた、幸福という概念を形成する、その根源としてね」
そう言って、彼女は優しく頷いた。腑に落ちたような、満足した面持ちで。
そんなこと──、僕はまるで気がつかなかった。この景色を見るまで、かつて英国に滞在していた事も、僕の頭からすっかり薄れていたのだ。
「だから、君は、僕のところに!?」
彼女は再び邸宅の方へ目を向け、言った。
「うん。そうね、一度触れ合った魂の念は、時間も空間も超えて、共振するの。彼女と融合した私が、人として本能的に安全や安らぎをイメージした時、かつて触れ合った
「君は、最初から知っていたの? この事を」
「いいえ、そんなことないわ。私も最初は分からなかった。でも、結果から事を辿れは、そうね、こういう事だった。偶然が重なったのもあるかもしれない。でも、この記憶は、お前にとっても幸福のイメージとして、概念として深く心に刻まれていたこと。そのはずよ」
僕は彼女に歩み寄り、そして手を取った。見つめる大きな瞳。その潤んだ輝き。そうだ、僕は、ずっとこれを求めていたのかもしれない。
「ふふっ、でもね、これだけではないわ。お前と私は」
「どういうこと?」
彼女は悪戯っぽく、どこか意味深な笑みを浮かべ、そして口を開いた。
「思慮が浅く、努力せず、怠惰で、自己中心的で、狡く、都合が悪いとすぐ逃げ出す。そのくせ理想だけは高い。お馬鹿なお前よ。今の生活を、自分自身を顧みることね。大学は辞め、仕事は解雇され、自分の道、目標も見つけられていない。さて、どうかしら?」
「なっ──」
何故、今更にそんな、僕の──、
「お馬鹿なお前、ほんとうにどうしようもなく、世界に適応できていない。それなのに、言い訳はいくらでもできて、無意味に知恵は多い。大学は本来学びたかった分野ではなかった? でも一度は行くと決めたはずよ。仕事は、環境が良くなかった? 環境が悪ければまた別の職場を探せばやり直せるわ。挫折し、言い訳をして、そこから何かしらを学んだとしても、前には進めていない。知識を溜め込むだけ、動けない」
「苦しいな、そんな──」
何故? 何故わざわざ僕の現実を突きつけて、責めるの? 今更、君、酷いよ──、
「心の底で、こんな事、辛いよ」
その場で固まってしまった。そして、おそらく狼狽どころか、死んだような表情をしているであろう僕を見て、彼女は「ふふふっ」と笑った。でもそれは、ひどく優しい微笑みだった。
「ふふっ、お馬鹿なお前、でもいいのよ。お前の弱さ、前に進めない弱さ、その根源は何かしら? 何故お前は上手く前に進めないのかしら? 何故上手く生きられないのかしら? その正体、知っている?」
「知らない」
「教えてあげるわ。お前の心の奥底にあるものの正体」
「いらないよ」
「駄目、私、教えるわ」
「分かるの、そんな、僕の心が──」
「ええ分かるわ。共鳴しているのよ。いいえ、お前も、薄々気がついてるはずよ」
「知りたくない」
「そうね、お馬鹿なお前が目を逸らし続けてきた所だもの、分かるわ」
「もうやめてよ」
「駄目、私、言いたいの、お前に、それを。言いたくて、たまらないわ」
彼女は僕の腕を強く掴み、鼻先がくっつくほど顔を近づけて迫った。
嫌だよ、どうして、君、苦しいよ。
「君、本当は、僕を殺す気なの?」
「ちがうわ」
「ならやめてよ」
「嫌よ、云うわ私、お前に。何故いつも逃げてばかりだったのか、何故前に進めないのか、お前の心の底にあるもの──」
「あああっ──」
僕は目を閉じて、そして両手で耳を塞いだ。殻に閉じこもる貝のように。すべてを遮るように。
でも、それは──、聞こえたのだった。
「劣等感」
それは、僕の声だった。
「──私の最も感じる念。私に共振する心の溜り」
その言葉、ソレを認識した刹那、僕はどうしようもなく悲しくなり、そして全身の力が蒸発か、或いは霧が晴れるかのようになくなり、僕自身も消えていく様な気がした。
「ああ、──そうだ。確かに、僕は──」
──そうだ、彼女の言う通りだ。僕は常に、ソレにとらわれて、重くて、苦しくて、動けなくて、まるで悪魔にとりつかれたかのようで、死んでいたのだ。生きる屍のように、ズルズルと体を引きずる事しか出来ずに。
何故ソレは僕の中にあるのか、何時からソレはあるのか、分からない。でもそれは厳然として、呪いの様に解き難く、そこにあるのだ。
もうこればかりは、どうしようもない。
「私は、人間の、生命の、嫌悪の念、まるで劣等感の溜り、そのものといえるわ」
そういって、彼女は棒切れのようになってしまった僕の身体を抱きしめてくれた。ひどく優しく。
「心の嫌悪の念、それを噛みしめなさい。その溜りに溺れてもいいのよ。私はそれを具現化した存在。お前のためのね。どこまでも逃げればいいわ。狡く、怠惰に。その果てに、自分を認めなさい。そうしてそこから、始めればいいわ」
僕は辛うじて彼女を抱きしめ返した。青い空広がる、白い雲浮かぶ、暖かい陽光の中、緑の草原の上で、しがみつくように。まるで母親の腕に抱かれた、赤子のように。
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