10.不安
僕は子供の頃から身体は丈夫だった。
たとえ、インフルエンザなどで40℃近い高熱を出したとしても、三日と寝込んだ記憶は無い。馬鹿は風邪を引かないなどと言われるが、つまりは、感染症などの不可抗力、強制的にせよ一週間以上部屋に引き籠っていたということは、一度も無い。
そしてそれは、自分の意思でも。
こんな僕でも、いわゆる鬱、精神的な要因で心身の調子を崩したとしても、誰とも会いたくない、或いは話したくないなど、一切外に出られないような状況にまで陥ったこともなかった。腹が減れば飯を買いにスーパーに出かけ、そう、落ち込むと一人で公園のベンチに座りボーっとしている、そんな質だった。その方が僕には合っていた、ただそれだけのことだろうけれど。
で、一週間ぶりに外出した。
それは、新鮮な感覚だった。まず、ひとえに感じたのは空の大きさ。広大な空間の、果ての無い様、えも言われぬ存在感、地上のすべてに覆いかぶさり、そしてその中にポツンといる。ちょうどタイミングがよかったのだろう。ほんのり雲が赤みを帯び始め、赤焼けと青空の境界のような夕空だった。広く、深く、果てしなく透き通り、ひどく美しい。風にうたれ、深呼吸した。するとなんにせよ、心身が浄化されるような錯覚さえした。
空を見上げると、悩み事なんてちっぽけに思える?
いや、違うな。
こんな圧倒的に美しく果ての無い様なんか見てしまうと、ちっぽけな自分なんて居ても居なくても変わらないのでは? 消えてしまっても、世界は何事もなく動き続けるんだろ。そんな後ろ向きな虚無感に襲われる。もう何もかも、いいのではないかと。
いいや! こんなものは自愛的な感傷だ。心を慰める、自衛的な働きかもしれない。今はそんな独りよがりの、ある種のナルシシズム的な、見苦しい心象に浸っている場合ではないはずだ。
空はどうしようもなく美しい。が、僕の抱える問題は答えが見つからず、地に足がつかないようなそわそわとした感覚は、もう簡単には戻らないような気がした。
或は、もう元には戻らないのかもしれない。
僕は左腕を失い右腕しか使えない。上肢欠損、それだけでも今までとは大きく違う。
片腕になったとたん、衣服の着替えもかなり苦労した。
この一週間、シャワーを浴びるにせよなんにせよ、要介護者、ほとんど彼女が着替えさせてくれたのだ。が、久しぶりの外出なので、自分ひとりで部屋着から着替えようと試みたのだが、四苦八苦だった。
病気も身体の不自由もない、健康、ただそれだけがどれほど幸せな事だったか。僕は初めて痛感し、身に沁みた。今まで当たり前と思っていたことが、もう当たり前ではない。僕は小中高と学校などでなにかと人間関係で躓き、器用に立ち振る舞うことが出来ず、ある種の「生きにくさ」を感じ続けていたわけだが、そんなものが今度は更に僕の身体にまでこびりつき、物理的にも離れなくなった、そんなものだ。これでは引き籠ったとしても、一人きりで公園のベンチに座ったとしても、誤魔化せない。
この先もうどうなるか、見当もつかない。もう普通の状況にはない。この普通じゃない根本は、やはり普通じゃない彼女なのだ。だけど、彼女はそんな僕にとって、いまや拠り所。トンネルの先の小さな光のような。
何故なら、どうにもこうにも彼女のことが好きだからだ。
体を重ねたからか、或いは一緒に暮らしているからか、明確な理由なんてなに一つ分からない。右腕だけになってしまったのに、普通じゃないのに、愛おしいのだ。
そう、これこそ普通じゃないかもしれない。
そんな事を考えながら、僕はスーパーに向かった。
本日は水曜の特売日。店頭の広告で、今日が何日の何曜日かを改めて認識した。もうかれこれ随分と世間とズレた生活をしている。現実を見ると、さらに不安になる。でも正直いうと、心の奥底では密かに、言い知れぬ興奮をも覚えていたのだった。それはどこか、例えば子供の頃に、大型台風接近の一報を聞いて、内心ワクワクとしたそんな感覚にも似ている。非日常がやって来る、子供心にも冒険心のようなものが刺激され勇み立ったのだ。こんな僕だから、左腕を失っても、彼女を受け入れていられるのかもしれない。
スーパーは案外空いていた。そして彼女の要望であるオマール海老とムール貝は、置いていなかった。仕方なく僕は、冷凍ブラックタイガーとアサリを買うことにした。その他、パプリカやズッキーニなどの野菜、料理用のワイン、それに目当ての食材がなかっとことでがっかりする、或いはお馬鹿といじられる、その弁解とサプライズの意味を込めて、パエリアに合わせるスペイン産ワインをカゴに入れた。まあ、銘柄がどうのこうのそんなのは知らないけれど、パエリアならスペインかなとやや短絡的だが、それでも彼女の喜ぶ顔、出し抜けに見せる純真な笑顔を思い浮かべながら、選んだのだった。
帰り道──、
片腕で持つにはやや重い荷物になってしまった。が、こんな事は大したことではない。僕と彼女を取り巻く状況に比べれば、些細な事だとさえ思う。
スーパーからアパートまで、帰り道は何通りかあるのだが、僕はふとあのコンビニを通る道を選んでいた。
そして、そのコンビニの前を通り過ぎる時、その時初めて、閉店していることに気がついたのだった。
「あっ!?」
いつから? というか、何故?
店内は、窓や自動ドアなどガラス面すべてに白いシートがかけられており、見えないようにされていた。そして、間もなく工事が始まるのだろうか、店前の駐車場など敷地内も、人の侵入を防ぐかのように、工事現場のような黄色と黒の縞模様の仕切りで囲われていたのだった。
何年も続いていたコンビニが突然に? まさか、停電の時に何かが──?
彼女とオッサンの喧嘩、或いは彼女自身と、なんらかの関係があるとしか僕には思えなかった。
とその時突然、僕は見知らぬ声に呼び止められたのだった。
「君、ちょっといいかな?」
「!?」
振り返ると、警察官が二人、真顔で立っていた。
「え?」
「ちょっと、お話伺ってもいいかな?」
制服の巡査が二人。そのうちの年の若い感じの方がそう言った。
「え、あっ──」
「いや別に、職務質問ってことではないんだけどね。この辺りで、ほら停電があったでしょ? その事について住民の方々にお話を伺ってるんだよ。あまり時間は取らせないよ。君もこの辺りに住んでるの?」
もう一方の、やや年配の巡査がそう切り出した。
「あ、ええ、まあ、この辺りですけど」
「学生さん?」
すかさず若い巡査が質問を重ねてくる。よく見ると、彼ら巡査二名の後方に、僕からは死角で視界に入らない──それはまるでわざとそうしているかのような──見えない位置に立つ、スーツ姿の男が二人いた。長身で神経質そうな顔立ちの30代ぐらいの男と、同じく長身でがっしりとした体躯の白人男性だ。巡査達と僕のやり取りを注意深く観察しているかのように、じっとこちらを睨みつけていた。
僕がそのスーツの二人にチラリと視線を飛ばすと──、
「高校生じゃないよね? 大学生かな?」
それを遮るかのように、また年配の巡査が質問を重ねてきたのだった。
「え、あ、はい。そうです。まあ」
一応、中退したけど、まだ事務手続きの途中だから、まだ大学生と言ってもおかしくはないと思う。
「今日は休み? あ、まだ夏休み期間かな?」
「ええ、まあ、そうです」
「因みになんだけどね、ここ以前はコンビニだったんだけど、知ってるよね? よく利用してたかな?」
「え、はい、まあ、たまに使ってましたけど」
「そう」
「なんでつぶれたんですか?」
僕はあえて質問し返してみた。その方が親しみや、自然な振舞のように感じられるのでは、と思ってのことだが──、
「なんでつぶれたか? いやぁ、うちらは警察で経営者じゃないからね。それは分からないよ」
と若い巡査のほうが笑いながら答えた。
「ただね、停電がこの辺りの送電線の不具合が原因らしくてね。君は、あの晩、この店利用したかな?」
年配の巡査が少々踏み込んだ質問をしてきた。これはどう答えたものか、返答に困る。
「あ、えーっと、その日は──」
僕は誤魔化すことにした。
「あっ、えっと、このコンビニ、来たような、気がします。朝だったか、確か。よく覚えてないんですけど──」
巡査二人とも、じっと僕を見つめて黙って聞いていた。
「あと、夜も弁当を買いに来たかもしれないですね。その時は、普通に営業してましたね。まあ、でもよく覚えてないですね」
「停電のあった日、よく覚えてない?」
年配の巡査が顎を引き、こちらを睨め付けるような感じでそう念を押してきた。
「ええ、まあ、はい」
「じゃあ、結構ここのコンビニ頻繁に利用していたんだね。閉店して残念でしょ?」
若い巡査は終始軽い感じで質問を重ねて来る。
「そうですね」
「いやね、あの停電は送電線の不具合なんだけどもね、少し原因が不明確な点もあってね、あの晩の前後、この地域で不審者情報とか聞かなかったかな? 或は、そんな不審な人物を見かけたとか、なにかあったら教えて欲しいんだよね」
不審者? そんな大雑把な。何をもってして人を不審者とするのか? 僕には分からない。
「あ、えっと、そういった話は聞いてないですし、不審な人と言われても、ちょっとよく分からないですね」
「あ、そうだね、ま、つまり、近所で普段あまり見かけない人物がうろついていたとか、そう言う事ね」
「あー、まあ、そうですね、見かけない人かぁ、僕にはちょっと分からないというか、あまり、なにも、いつもと変わらなかったとしか──」
「そうですか」
若い巡査はあっさりと話しを切り上げた。
「ちなみに君、その腕は、あれかね? 事故かなにかで?」
年配の巡査が、また踏み込んだ質問をしてきた。これは、困る。
「え? ああ、これは──、生まれつきです」
僕は嘘をついた。きっぱりと。
「そう、ゴメンね。変なこと聞いて。大学の勉強も大変でしょうに」
「いえ、全然。慣れですよ」
僕はそう言った。確かに慣れはある。でも、突然こうなると、それは大変である。それまでの平凡な日常がどれだけ貴重だったのかと、ひどく思うほどに。
「そう。不躾に色々訊いてごめんなさいね。協力してくれてありがとうね」
と年配の巡査。
「あ、買い物帰りなんだね。なんか荷物持たせたままごめんね。うちらも業務でね。ほんとうにありがとう。気をつけて帰ってね。では、勉強頑張ってね」
と若い巡査。
「いえいえ、大した情報もなくて、こちらこそすみません」
「いえいえ、ありがとう。では」
と二人とも僕に軽く敬礼して、そして踵を返したのだった。後方にいたスーツの男二人は、いつの間にか居なくなっていた。
これはたまたまの事だ、停電の原因について電力会社が送電線等への何者かの悪戯の可能性を考慮したことによるもの、ただそれだけの事。そう考え、流そうと思えば思うほど、僕は不安に駆られた。
僕は足早に、その場から離れた。
部屋に戻ると──、
フリルの付いたひらひらしたブラウスに青いリボン、レースで覆われた紺のふんわりとした膝丈のスカート、ご令嬢がお散歩にでも出かけるのか? そんな可憐な衣装に着替えて、品よくベッドにちょこんと腰かけて、彼女は待っていた。
「可愛らしい服だね。これからお出掛けなのかな?」
「ふふん、ちがうわよ、これはメイドのつもりなの。さあ、これからお前に美味しい料理を作ってあげるわ」
メイド! なるほど確かに、言われてみればそうも見える。彼女は立ち上がり、ひらりと一回転してみせた。
「残念ながら、オマール海老とムール貝は売ってなかったよ。代わりにブラックタイガーとアサリにした。あと──」
「そう、残念ねぇー」
彼女は案外あっさりとそう答えた。
「あと、ほら、パエリアだから、スペイン産ワインも買ってきたよ」
「ふーん、お馬鹿なお前にしては、気が利いているのね。いや、食い意地にかけては天才的なのよね。うん、そうね、悪くないわ」
僕はスペイン産ワインをちゃぶ台に置き、そしてさっきの出来事を切り出した。
「実は、帰り道に通ったんだけど、あのコンビニ、閉店してたんだね。今日初めて知ったんだけど、で、そこで──」
「警察官に職務質問されたんでしょ? お前」
「えっ!? なんで──」
なんで知ってるの? 分かるの?
「ふふん、お前の行動なんて、全てお見通しよ。私はあらゆるネットワークに接続できるのよ、言ったでしょ?」
あっ!? というか、
「ストーカーかよっ! というか、どういうこと? 見てたの? どうやって? 或いは、まさか僕の思考が──」
「お馬鹿ね、この街には監視カメラが至る所に設置されているわ。この街だけでなく、世界中だってね。あ、そうそう、この星の衛星軌道上にもあるわね、おっきな監視カメラが」
「マジで?」
「そうよ。なんにでもアクセス出来ると言ったじゃない、ほんとうに便利なシステムね」
「便利って、いやいや、普通の人間にはそんな事出来ないよ」
僕がそう答えてから、彼女はしばし伏し目がちに黙り込んだ。
「でも、そうね、ちょっと面倒なことになるかもしれないわ」
「え?」
「せっかく、楽しく過ごしていたのに、この街も──、せっかく」
その彼女の言葉に、僕はさらに不安になった。
「もしかして、君、探されているの? 警察に? いや、政府というか、何かしらの組織にみたいなものに」
「うん、そうね、おそらくわ。仕方がないけれども、もう、たまらなく面倒だわ」
「そんな──」
やっぱりだ。そうなのだ、彼女のような普通じゃない存在に、政府とか、然るべき組織というか、得体の知れない研究をしていた機関なのだ、気づかない訳はないのだ。事故当時にすでに、彼女という存在は捜索されていたのかもしれない。
「ここは先進国で治安もいいし、統治機構の市民に対する介入も少ない。つまり平和。美味しい食もカルチャーも高度に洗練されている。必然として私にとっては棲みやすい所だったよの。ひっそりと存在するのには最適だった。それに、お馬鹿なお前ね」
「僕?」
「お前、どうして私がここに居ると思う?」
いや、それは、僕が最も疑問に思っている点だ。
「どうして、君はここに居るの?」
「お前、お馬鹿ね、私の理想だからよ」
「理想!?」
この環境が? え? 僕が?
「それだけに残念ね。おそらく、嫌なことになるわ」
そう言って彼女は、手慣れた様子でワインオープナーのスクリューをコルクにキュッとねじ込み、ポンと開けた。それを見て、僕は黙ってワイングラスをキッチンに取りに行った。この話の続きを聞くのが恐くなったのだ。差し出したワイングラスに、彼女はコポコポコポと赤ワインを注いだ。
「ワインを飲みながら料理するのも、好きよ。お前、お馬鹿なお前、私の好きな事、本当によく分わかるのね」
「そう? それは良かったよ」
「でも、それは当然のことなのよ」
「なぜ?」
「私は元来、自我も何もないエネルギー場、念の溜りのようなものと考えられる、そう言ったわよね。でも、その念にも、方向性なるものがあるとおもうわ。趣向や傾向というものかしら? それに最も強く共振したのが、お前の魂の念」
「え?」
「おそらくね」
おそらく? と言って、彼女はワイングラスを手に取り一口飲んで微笑んだ。
「念の、共振?」
「時間も空間も関係なく、どんなに離れていようとも、それは共振するわ。そもそもお前、己というものを、自分自身で自覚してないのかしら? それとも自覚してるけど、誤魔化してるのかしら? まあお馬鹿さんだから、そうよね、うん」
「どういうこと?」
「そうね、簡単にいってしまえば、つまりは似た者同士よ。だから文字通りに、落ち着くの。私は、ここにね。おそらく」
「似た者同士──」
なのか? 僕等は。偶然ではなく、君は僕を求めてやってきたというのか──、
「そういう見解ということ、今のところ、考えうる範囲でね。まだあくまでも仮説よ、でもきっとそう。私の心にそう感じるの、心、私の心」
そう言って彼女は胸に手を当てた。とても大事なものを想うように。
「君の、心──」
彼女は元来自我を持ち合わせていなかった。つまり心が無かったのだ。そして、この世界に突然現れて、ルイーズに接触し、そして僕と出逢い、心を手に入れた。彼女にとってそれは、かけがえのない宝なのかもしれない。この世に生きている証しであり、またその理由のような。
「ふふん、そうね、お前、
彼女はそう言って、再びワインを一口飲んだ。
「え? 君の中って──?」
どういうこと?
彼女の中というのは、つまりは彼女の精神? 心? その得体の知れない根本の、念の溜り、ということなのだろうか? でも、一体どうやって?
これまた不安でしかない。が、でも答えは考えるまでもなく、僕は、見たいと強く思っていた、その場で彼女に飛びつかんばかりに。
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