6.告白

  

「月が綺麗ね」

 彼女は、突然立ち止まりそう言った。


「えっ」

 暗闇の中、彼女の白い背中を頼りに、ただ盲目的に歩いていた僕は、思わずその肌に触れて足を止めた。絹のように滑らかで、少しひんやりとしていて、ずっと触れていたくなる、その肌。そして、彼女につられて、夜空を見上げた。

「あっ」

 煌々とした輝き、思いのほか、まん丸の月は明るかった。そして、本当に綺麗だった。

 突然停電になった直後は、辺りは暗黒の闇に感じられたが──、

「灯り消して」

「え?」

 LEDライトを消してみると、その明るさは更に際立った。月がこんなにも明るいとは。辺りは冷ややかな輝きに照らされて、やや青白くも暗いベールに覆われたような、薄闇の世界へと様変わりしてた。


「明るい。なるほど、昔の人は月明りで勉強したというけど、ほんとに出来そうだね。でも、停電になった直後は、まったくの暗闇で、奈落に落ちたのかと思うくらい真っ暗だったけど──」

「そう? 馬鹿ね。目が慣れていなかっただけ。月明りでもっと勉強したら?」


 彼女はこちらに向き直り、そして腰に手をあて得意そうに胸を張ってみせた。なんだか、子供っぽい仕草だと思ったが、玲瓏とした月明りに照らされたその裸身は、神々しくもヒドク美しかった。


「餅をつくうさぎには見えない。この国では月をそう表現するんだろ?」

「よく知ってるね。なんか、びっくりした」

「ちなみに、私、──いや彼女の国では、大きなはさみのカニ、と言うらしい」

 そんな生活感のある事をさらりと話す彼女に、僕は少し驚いた。

「月の模様の言い方は地域によって違うけど、実は月って、いつも同じ面だけをこちらに向けているんだよ」

「知っている。潮汐ロックでしょ。地球を周回する月の公転と自転が同期している。そんなこと、私が知らないとでも思った? 馬鹿ね」

「ハハッ、失礼しました。大学生なんだもんね」

 僕は思わず苦笑してしまったが、珍しく彼女もつられて「フッ」と小さく吹き出した。その自然な空気に、先ほどまでの奇妙な出来事──おっさんとの喧嘩、停電、暗闇の中の不穏な気配──をつい忘れてしまいそうになるほどの、心地良さを感じた。

「つ、月も綺麗だけど、その、君も綺麗だよ」

「フフフッ、なにそれ、馬鹿ね──」 

 彼女は再び笑って、僕に何か言いたげなポカンとした視線を飛ばし、でも何も言わず踵を返して歩き始めた。──僕は言ってから、恥ずかしさを覚えた。そう、女性にこんな言葉を掛けたのは、初めてだろう。


 月は、うさぎやカニ、水を汲む少女など様々に表現されるように、その表面にはくっきりとした濃淡がある。「海」と呼ばれる色が濃く滑らかでクレーターの少ない平原と、色の淡く白っぽい山や谷がデコボコとある「陸」と呼ばれる部分だ。そのコントラストが絶妙に美しく、ゆえに様々な表現を生み出すのだ。

 しかし、地球から見えない裏側は、全面が余すところなく無数のクレーターに覆いつくされ、岩の隆起が激しくゴツゴツとしていて、荒々しい印象らしい。


「月には女神が居るとも言われるよね」

「そうね」

「神話やおとぎ話の類も、詳しいんだ?」

「なぜ?」

「いや、なんとなく君なら、科学的な見方を好むのかなと、その、なんとなく──」

「馬鹿ね。物語は物語。科学や現実がどうあれ、それは興味深いものよ。──いや、そもそも人類の科学なんて、何を理解しているというの」

「うーん、潮汐ロックとか? 天体の動きとか? ビックバン?」

「フッ、何も理解できていない、から、──この有様だ」

「ん?」

「それに女神、神という概念に、男とか女とか、人類らしい馬鹿な発想」

「やっぱり、非科学的なものには否定的」

「──そうね。これはの思考の傾向に引っ張られているのかもしれない」

「え? どういうこと? ちなみに神は信じるの?」

「ふんっ、お前、愚問だ。その視点が間違いだ。お前や人類の多くが考えているような、神という概念は、──おそらく存在しない。おそらく」

「おそらく──?」

「人の視点で考えている以上、それを超えたものは見る事が出来ない。つまり、私にも、正確には分からない」

 

 彼女はふと立ち止まり、そしてまた月を見上げた。

 

 月の表側は、本当に女神が住んでいると信じてしまう程に美しい。でも、近年の観測によって明かになったその裏側は、まるで別世界、グロテスクとさえ言われている。


「この月明りなら、もうLEDライト点けなくても歩けそうだね」

「そう、ならそうして」

 と、行こうとする彼女を僕は止めた。

「あ、待って、これを──」

 僕は自分が着ているフランネルシャツを脱いで、彼女に着せてあげた。

「寒くない? 大丈夫?」

 とボタンを留めながら訊いた。

「寒くはない。暗いから別に構わない」

「でも、突然停電が解消されたら、あれでしょ?」

「停電は解消されないわ。でもまあ、これでいいわ」

「よかった。じゃ、帰ろう」

 と、レジ袋を片手に持ち直して、彼女の横に並んで歩き始めた。

 すると、彼女は僕の腕に突然しがみついてきて、

「お前、さっきは私を庇おうと、おっさんに立ち向かったんだな。ひ弱なくせして。馬鹿だな」

「いや、だってそれは、君が──。うん、僕は男だし、男として、君を守るのは当然というか、その、君は僕の、あの──」

 僕は言いあぐねた。肝心な時ほど、いい言葉は出てこない。

「フッ」と彼女は軽く息を吐いて、というか笑ったのかもしれないが、

という存在は、私は当初、私にとって究極的に都合がよいという因果律によってと考えていた。でも、それだけではないのかもね」

 と言って、「フフッ」と優しく笑ったのだった。

 

 彼女の言っている事の意味は、よく分からない。というか、今までもその殆どが僕には理解不能だ。ある種、不気味でさえある。が、そのまま彼女に腕を組まれながら、薄闇の月明りの中、家路を歩いた。


 やはり、アパートの周辺も停電していた。


 部屋に入ると外よりも一層真っ暗だったが、ろうそくを探すのにおっさんのLEDライトが役に立った。丁度使い道に困っていた──大学の新歓コンパのビンゴ大会でもらった──アロマキャンドルに火を点け、ちゃぶ台に置く。部屋の中が、暖かみのある仄かな灯りにぼうっと照らされた。彼女はゆっくりとその前に座り、そして言った。


「お腹が空いたの」

「ハイハイお姫様、しばしお待ちを。でも停電だから電子レンジも使えないし、お湯も沸かせないし──」

「構わないから。頂戴。それとビールも」

「そんな顔して、帰ってきて即ビールって、オヤジかよ」

「早くして」

 仕方なく、かつ丼弁当と缶ビールの入ったレジ袋をちゃぶ台の上に置いた。彼女は片手でそれらを物色する。やはりどこか怪我したのか、動作がぎこちない。

「もしかして、やっぱり怪我してるの?」

「左腕、たぶん骨折している。それに肋骨もか。あのクソオヤジが」

「ええっ! マジで? 大丈夫じゃないでしょ!? 病院に行かなきゃ!」

「うるさい! お前。すぐ直るから平気、食べれば──」

「いや、だって、そんなこと──」

「黙って! いいから」

 と言って、彼女は弁当を破くように開け、そのままガツガツと食べ始め、そしてプシャッと缶ビールも開けてゴクゴクと飲んだ。「ぷはぁ~」とするその姿は、可愛らしくも違和感でしかなく、そしてあっという間にどちらも平らげた。

「お前、ぜんぜん、足りないわぁ。他にはぁ? 無いの?」

 途端に呂律の怪しい口調になる彼女。なんだかんだ言っても、すぐに酔っぱらう。

「一気に弁当二個食い!?」

 という問いを聞き流して、僕の手からお弁当を奪うように掴み、そして荒々しく開けて貪り始める。そもそも、彼女のこの異様な食欲もまた一体なんなんだろうか? としみじみ考えてしまう。

「お前、その、ボトルのやつ、開けてよぉ」

「駄目だよ! だいたい怪我してるのに病院も行かないで、お酒飲むなんて! あり得ないから!」

 と言って、僕はウィスキーとワインのボトルは渡すまいと、台所の隅に持っていった。

「馬鹿」 

 

 いつの間にか、アロマキャンドルの甘ったるい匂いが、部屋中に立ち込めていた。仄かな灯りにゆらゆらと浮かび上がる彼女の顔。でも、まるでロマンチックなムードとはならず、というか、貰い物のアロマで男女の関係がどうにかなる程、世の中は甘くはないのだろうが、キャンドルの灯りでしっとり輝く髪をかき上げ、ガツガツと二個目のお弁当を野性味たっぷりに貪り、ビールを煽る──、可憐? な彼女を前にして──。

 一歩前に進むというか、壁を超えるというか、新たな、或いは確かな絆「恋人」という称号を期待する僕は、それこそ彼女が連発するように「馬鹿」なのかもしれない。ほんの少し前まで、腕を組んで帰ってきたが、彼女は、客観的には謎だらけの不審者なのだ。


 そもそも、こんな色事を考えるより、もっと根本的な事を彼女と話した方がいい。彼女には奇妙な点が多すぎるからだ。多すぎるどころじゃない、もう全てが奇妙だ。ある種、不審者なのだ。頭では理解していても──、


「駄目だわぁ。こんな食べ物じゃ、いくら入れても、駄目。肉が食いたいぃ」

「え?」

「肉!」

「はあ?」

「本物の肉。こんな加工食品では駄目なの。生き物の肉が食べたいの」

 と言って、彼女は二本目のビールも空けた。


「でも、停電中に、買い物なんて無理だよ。ちょっと停電の情報スマホで調べてみるから。ていうか、こんな夜中にスーパーは閉まってるし。てか、君、酔ってない」

「うぅ、うるさい。肉を食べなければ、怪我すら治らない。肉よっ! 肉ぅ!」

 本当に毎度訳が分からないと思いながら、部屋に置きっぱなしにしていたスマートフォンを探す。が、見つからない。

「分かったから、とにかく今は食べたらもう寝ようよ。停電だし真夜中だし。それで、明日早朝に病院に行こう。その帰りにスーパーに寄って、牛肉でもなんでも買ってあげるから」

 と言って、彼女の左腕をそっと持ち、袖を捲り上げてみる。彼女のしなやかな腕に赤黒い痣があり、大きく腫れていた。

「すごく痛そう。大丈夫なの?」

「ああ痛い。折れてるもの。痛いに決まっている。馬鹿」

「やっぱり、夜中にやってる救急病院探そう」

「いらない」

「どうして?」

「お前、さっきぃ、私を守るのは当然と言ったな。──つまりはぁ、お前、私のこと、好きなの? そうでしょ?」

「なっ!」

  突然彼女は、さっき僕が悶々と考えていた部分に切り込んできた。直球で。動揺というより、好きとか、そんな言葉を彼女が語るのにも驚いた。酔っているからか?

「えっ、あっ、と、──す、好きだよ」

「そう」

「え?」

「フフッ、──そうね。フフフ、お前、こういうの、良い気持ちかもしれない。なら、お前は、一生私を守るのか?」

 え?! は? 一生? それって、つまり──、

「そ、それは、き、君が、ずっとここに居たいと望むなら、僕は──」

「ふーん、私を一生守る程ならば、どんな事も出来るなぁ、お前」

 え? なんでも? と少し不安になりつつ、僕は頷いた。

「なら、お前のをもらうわ」

「はっ!?」

「足か腕の一本ぐらいでいいと思うのぉ。お前の肉、もらう」

「え? どういうこと? 嘘でしょ?」

「お前ぇ、私のために、私を守るためならぁ、どんな事も出来るんだろ? ねえ?」

 はあ?! まさか、僕が食べられるのっ!? 嘘でしょ!

「痛くはしないしぃ、後であげるから。今は生きた肉が、私、必要なの」

「えええっ!! ちょっ、嘘でしょう? まさか、僕を食べるの!? てか、ハム次郎もやっぱり本当に食べたってことっ!? まさかっ! そんなバカな! 嘘でしょっ?! ねえ! 君っ──」

 声が裏返る。というか、いくらなんでもそんな事あり得ない! と思いつつも、咄嗟に、いや彼女ならあり得る事態かも! と血の気が引くような考えが頭を駆けめぐり、クラクラとして、思考がまとまらなくなっていた。


「私ぃ、もう我慢できない。お前、痛くしないから、ねぇ、おそらく──」

 と言って、彼女はキャンドルの火を吹き消し、想像だにしなかった猛烈な力で僕をベッドに押し倒して、そして馬乗りになり、僕の顔面を右手で押さえつけ目を塞いだ。

「ちょっ、待って、う、嘘でしょ、君っ──」

 まさか、もしかして、暗闇の化け物みたいなのは、本当は、彼女自身だったのでは?

 そう思うが早いか、彼女の低く透き通った声が耳のすぐ傍で聞こえた。

「私のこと、好き?」

 僕はもう、震えるように首を縦にカクカクと振った。

「そう、ならいっそぅ興奮する。きっと美味しいわぁ」

「なっ──」

「好き? ねぇ? お前、いつも私の身体を貪っていた、でも、それよりもぉずっと──」

「待っ──」

 もう首を縦に振っているのか横に振っているのか、いや、震えているのだ。もう訳が分からない。僕は必死で抵抗しもがいた。


「私もお前が好き」

 という彼女の声が耳もとで聞こえて、その直後、服が破ける音、そして、大きなが僕の左腕に食いつき、突き刺さり──、


「ぎゃあああああっ──」

 僕の絶叫はすぐさま塞がれ、そしてガブリと肘から下を食いちぎられる感触と、今までの人生で経験したこともない、とてつもない痛みと共に、意識が遠のく感覚、思考がぼんやりとしてきたのだった。

 

 貧血で気を失うというよりは、穏やかな睡魔にも似た、その霞んでいく意識の中で、僕は「なんで!? 僕は君のことが好きなんだ、僕は君と出会ったから、また人生を仕切り直して、明日から頑張ろうって、本当にそう思ったんだ。僕は君のことが好きになってしまったんだ! なんで!?」という思いを、心の中で繰り返し繰り返し語っていた。


 それは、告白というよりは、まるで念仏のように。




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