5.闘争
世の中にはいろんな指数があって、世界平和度指数なるものもある。
これは、犯罪率やテロなどの治安、内戦や戦争、軍事化など23の指標を基に、平和の状態を評価したものという。日本の世界平和度指数ランキングは9位。なんだか思ったほど高くはないと感じたが、しかし犯罪率の低さだけでは3位なので、大まかには比較的平和な国といえるのか──。
だけどたった今、目の前で暴力行為が発生した。
このおっさんのように、ちょっとした事で人に突っかかる、そして暴力を振るう、そのような人種はある独特のオーラを発している。僕には分かる。そして僕はそのオーラに敏感だ。そんなタイプの人物を街中で見つければ、すぐさま回避するように距離をとり、電車などでは車両を移るようにしている。
なぜこんなに敏感であるのかというと、それは我が身に降りかかる危険に対する経験上のことである。僕は中学の頃、イジメにあっていた。
元々引っ込み思案で口下手なのもあって、人に意見を強く言えない質だったけど、そこにつけ込まれてクラスの一部の生徒達から嫌がらせを受けていた。教科書や体操着を隠されたり、掃除当番で折角集めたゴミを蹴散らされたり、子供じみた、でも最低な嫌がらせ。
だけど幸いに、そのクラスは常識的な生徒が大勢で、また小学校の頃からの友人も同級生にいたので、完全に孤立しイジメられていたわけではなく、その生徒達と接点を持たないようにするとか、常に距離をとって関わらないようにして、やり過ごすことが出来た。友人や学級委員長達が僕をフォローしてくれて、不登校になるまでには心挫けず、なんとか踏みとどまったのだった。
だけど、その頃に受けた心の傷がしこりのように固まって、今ではそういった、性格がキツそう、怖そうなタイプの人間には敏感に反応するし、そして、今でもまったくもって口下手で、引っ込み思案だ。
なぜ、こんなおっさんが店内にいるのに気がつかなかったのか? イジメにあったことで身に付いてしまった、
でも、そんな事を反省している暇は無い。
彼女は、少女で、突然に出逢った居候の女の子で、僕の恋人──、そうハッキリお互いを認め合ったわけではないけれど、事実上そうで、僕はそのつもりで、確かに不穏で不可思議なところもあるけれど、初めてのガールフレンドと言っていい状況なのだ。
そして今はもう、いつも助けられていた嘗ての僕ではない、もう大人になったのだ。それにもう、回避は出来ない。
どうにかしなくては──。
この時、本当にそう強く思ったのだ。
ちなみに、世界のイジメの少ない国ランキングでは日本は12位。この国は直接的な暴力よりも「陰湿な暴力(イジメ)」の方が多いのだ。
僕は失敗したジェンガのように、ガラガラと崩れるかと思われるほど、体がガクガクと震えていたし、その場にしゃがみ込んで貝にでもなってしまいたいと思うほどに、体の芯が縮み上がっていたけど、おっさんの前に立った。
「あ、あのっ、すみません。ごめんなさい。殴ったことは悪かったと思います。だから、その、僕を一発殴って、それで気分を晴らして、それで、あの、終わりにしてもらえませんか? 本当にすみませんでした」
そう言って、深く深く頭を下げた。
「あぁん? 舐めてんのかテメェ? ふざけんなぁっ! おめぇ誠意ある謝罪ってのがどういうもんか知ってんかぁ? ああっ? 土下座だろうがぁっ!! ボケェッ!!!」
と、おっさんは間を空けず僕を殴った。そんなに直ぐに殴られるとは正直思ってもいなかった──、と言えるほど簡単に、ある意味スムーズに、人を殴り慣れた様子で腕を振るった。
「あの小娘にも謝罪させろっ! ボケがぁっ!!」
軽く横によろけて手をついた。顔が歪んだのではと思うほどに痛い。けど──、ほとんど反射的に立ち上がり、またおっさんの前にきて、そして素早く土下座した。
この場を切り抜ける為なら、なんだってかまわない。これで済むなら、大したことは無い。そう考えて──、
「ほんとに、すんませんでしたっ!!」
下っ腹に目一杯力を入れて、謝罪した。
必死で、無我夢中で、そして下っ腹に目一杯力を入れて声を発すると、なんだか、縮み上がっていた体の芯が熱くなり、
「てめぇ、カッコつけてんじゃぁねぇぞぉっ!! 女に謝罪させろつってんだろがぁっ!!」
だけど、土下座し、地面に額がつくほどに頭を下げている僕の、その頭を、おっさんは激しく蹴り上げたのだった。まるでラグビーのゴールキックを決めるかのように、さも当然であるかのように。
頭から真横に吹っ飛んだ。頭に強い衝撃を受けると本当に火花が散るのだと、その時初めて知った。キーンという耳鳴りがして──、鼓膜がイってしまったかもと──、ヒドイ恐怖と痛みだった。これは、厳しすぎる、と感じた。
おっさんは予想をはるかに上回り、非道で暴力的で、──これは僕という人間が甘すぎるのか、自分中心のごく狭い世界でひそひそと生きて、甘い環境に逃げていたツケなのか──、自分の認識の甘さを後悔し、僕の手には負えない
もうすぐさま起き上がることは出来なかった。鼻からなにかがドロドロと流れている。手で触って見てみると血だと分かった。酷すぎる──、が、しかし、もう無茶苦茶痛めつけられて訳が分からなくなったからか、開き直りか破れかぶれか、何故かその時、咄嗟に再び目一杯下っ腹に力を入れると、体の芯の熱さ、胆力というものか? 「どうせボコられるんだ。もうどうにでもなれ!」という気合だけは沸々としてきて、体の震えは無かった。
僕は立ち上がり、もうこうなりゃ、出鱈目でもいいから無茶苦茶暴れてやる。謝罪は終わりだっ! 必要ならなんだってやってやるっ! と半ば自暴自棄にも似た激情が渦巻き、人生で初めて人に手を上げよう──、
とした、その刹那「馬鹿なだお前は」という彼女の声が耳元でして──、
おっさんと僕との間に割って入り、立ちはだかったのだ。
「おっさん、死んでもいいの?」
彼女は、素っ頓狂とも思える言葉を、おっさんに向かって言った。
「はぁ? なんだこいつ? なに言ってんだぁ? オイっ! 頭おかしいのか? わざと痛い目にあいたいのか? ゴラァッ! ドМってかぁ? ドМの変態ちゃんてかぁっ!!」
「うるさい、いい歳をした馬鹿。愚か者。この上なく見苦しいな」
彼女の言葉はどれ一つも淡々として、冷静だった。
「なんだとぉゴラァッ!!」
おっさんは思い切り彼女に回し蹴りを喰らわせる! しかし、彼女は足を踏ん張り、それを両腕で器用に受けたのだった。が、流石におっさんの体重を乗せた蹴りに、ズズズと横に押される。と、すぐさまおっさんの足を離し、素早く右に回り込み、脇腹に一発右フックを打ち込んだのだった。
「ウゲェッ」
と、おっさんは呻き声を上げたが、しかしこの体格差、華奢な彼女の腕では、それほど効いている感じではなかった。
「痛えぇなこのクソガキィィッ!! ふざけんなぁっ!! ゴラァァァッ!!」
おっさんは更にブチ切れたようにグイグイと彼女に迫り、そしてぶんぶんと腕を振るう。それを彼女はまるで──、格闘技をやっていた? 或はその素養があるか? ひらりと躱していく。
「なっ!?」
僕は呆気にとられて、止めに入るのも忘れて、つい見蕩れてしまっていたのだった。
おっさんが再び腰を入れ、大きく振りかぶり彼女の顔面を目掛けて蹴りをかます。
彼女は左腕一本でそれを受けて防ぐのだが、おっさんの体格差に物を言わせた力任せの大人気無い蹴りに、少しよろめいた。
「あっ──」
この時点で僕はハッと我に返り「止めなきゃ」と思ったが早いか、
「チッ、あああああっ! もうめんどくさいっ!!」
と彼女が叫んだ。──と、まさにそれと同時に、
バチンッ!
という大きな音が辺りに轟き、コンビニの周りの電柱から一斉に火花が散った!? かと思うと、──辺りが一瞬にして真っ暗になってしまったのだった。
暗闇。そして静寂。本当に真っ暗で、なにも見えなくなってしまった。
あ、れ? まさか──?
「はぁ? なんじゃこらぁ? 停電かっ!?」
というおっさんの声が暗闇から聞こえた。そしてチャラチャラと小銭や鍵などが揺れる音がして「スマホがつかねぇ」などと、ぼそぼそ呟いている。
と、その次の瞬間──、僕は自分の背後、或いは傍らに、とても不気味な気配を感じたのだった。
背後か真横辺りに、とても熱のこもった大きな
「グオォロロロロロッ」
重く、ひどく不気味な呻きのような、深い内部から響くような、動物? の咆哮が轟いた。
「ヒッ?!」
声を上げるというより、息がつまった。
一体何!?
その聞いたこともない不気味な響きに、背筋に冷たいものが走り、動けなくなってしまった。怖そうな人とか、そんなレベルでない。人間も例外なく、全ての動物が本来的に持っているであろう危険を察知する勘、とでも言おうか、本物の恐怖心というものをこの時初めて僕は知った! そんな気さえした。
なんか、訳がわからないけど、ヤバイ──、彼女はどこに?
「ッ──」
彼女を僕の所へ呼ぶために声をかけたかったが、その暗闇に潜む
「な、なんじゃ?」
おっさんもその
カチャカチャと弄る音がして、そしてカチリッと鳴り、か細い光が暗闇に輝いた。
おっさんはLEDのペンライトかなにかを持っていたのだ。
暗闇に灯りがともるというよりは、暗黒の夜空に星が一つ輝く程度のその心もとない小さな光の筋が、フワフワと揺れて、そして僕のいる方向、つまり不気味な咆哮が響いた辺りに向けられた。
とその時、闇に潜む
赤黒というか赭というか、濁った赤土のような、ゾウの皮膚のようなゴワゴワした表面と、複数の触手というか脚というか、昆虫類の付属肢みたいなものも見えた。──気がした。気がしたというのは、余りに一瞬だったのと、余りにも気持ち悪かったので、頭が生理的に見たことを忘れさせようとしているのかもしれない。
ゾウやキリンのように巨大だと思われる
「ぎゃぁぁぁぁっ!!!」
という女々しい、そうとはとても思えないが、おそらくおっさんの悲鳴が上がり、その後すぐさまか細い光が回転しながら宙に舞い、ポトリと落ち、そしてコロコロと地面転がったかと思うと、カチャカチャという音と共に「ヒィッ、ヒィッ」と泣き叫ぶような呻きと、ジャリっと地面を蹴り駆け出す音、そしてほんの少し空いて──、ゴンッと金属性の何かにぶつかり? ドサァッと倒れる音が最後に響いて、静かになった。──多分、おっさんだ。逃げたのか? 暗闇の
僕から少し離れた所に落ちたLEDライトのか細い光りは、明後日の方向を射していて、こちら側はまったく暗闇のままである。
その後、暗闇に潜む不気味な
いろいろな思考が頭を駆けめぐり、力なく立ち尽くしていた。
まるで異世界だ。いや、異世界のモンスターが現れたのか?! 何故こんなところに? いやまさか。それとも突然の停電でパニックに陥っているだけか? 実は全て気のせいなのでは?
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。もう分からなくなっていた。
分かっているのは、ここはコンビニ前の駐車場だということ。
しばらくして、暗闇に目が慣れてきたのか、何となく周りの様子が薄闇の中にボーっと浮かび上がるような感じで分かってきた。ハッキリとは見えないが、何かが有る、或いは無いということだけは分かる程度に。そうだ、今夜は月が出ていたし、もう少ししたら月明かりに慣れるか──。
不意に、おっさんの落としたLEDライトがふわりと宙に浮いた。かと思うと、ビっと僕の方に向けられ、静かにこちらに向かって来る。
「あっ」
と声を出す頃には、それは目の前まで来ていて、またビっと僕の顔を真正面から照らしたのだった。
突然の光に目が眩む、が、そのLEDライトを持つしなやかな手を見逃さなかった。白く華奢な腕、そうそれは彼女の──!
「お前、相変わらず馬鹿だな。いつまでここで立ち尽くしているつもりだ」
「あっ、君っ!!」
眩しくて目を開けられなかったが、彼女の手を握った。
「大丈夫だった?!」
「馬鹿。あんなおっさんなんて、なんでもない」
「いや、そうじゃなくて、いや、そうだけど、あのっ、停電して、その、怪我してない?」
言いたい言葉がうまく出てこない。
「怪我は少しした。少しね。でも大丈夫」
「えっ!? ほんとに大丈夫? 君っ、あっ、──その、さっき、
「馬鹿だな。お前は、大丈夫だから」
「あっ、いや、その、さっき暗闇に
「そんなの、いない。馬鹿じゃないの」
「え、嘘っ──」
彼女は問いを無視するように、サッとLEDライトを別の方向にむけて、
「買った物、忘れるな。帰るから」
と、本当に何事も無かったかのように言った。
そんな馬鹿な──、おっさんも絶叫したし、彼女は何も感じなかったの?!
「で、でも、真っ暗で、まさか街全体が停電なのかな?」
「じゃ、お前が持て」
と言って、彼女はLEDライトを僕に向かって放り投げた。危うく落としそうになったがキャッチして、すたすたと暗闇の中を進もうとする彼女を「ちょっと、まってよ!」と止めるべく彼女の肩を掴んで──、
「あれ?」
彼女の後ろ姿をLEDライトで照らす。白い背中、彼女の透き通るような素肌が暗闇に浮かんで──? 慌てて全身を上下に照らして見た。
彼女は何故か、全裸だった。
「なっ!? 君、なんで服脱いでるの! ちょっ、なんで素っ裸なの?!」
「うるさいなお前は。暗闇だから、別にかまわないだろ」
「いや、そういう問題じゃなくて──」
「ビールの袋も忘れるな。これを買いに来たんだから」
と、彼女の足元を見ると、レジ袋があった。ちなみに、僕が貸したサンダルも履いてなくて素足だった。
「いや、でも、なんで?」
「もう、いいからっ! 袋持って。私、持てないから」
「え、怪我?」
「うるさいっ。私不機嫌なの。帰る」
そう言わずとも、あからさまにイライラした口調だった。
彼女は、LEDライトで前を照らさなくても正確に暗闇の中を進み、買い物袋の落ちてある所に辿りつき、そしてそのまま家路を全裸で帰るつもりらしい。そして、あの暗闇にいたであろう不気味な
アレは本当に気のせいだったのか? そんな馬鹿な。
彼女が知らないと言ってはいても、でも不穏なこの場から早く離れた方がいいのでは。そうとも考えた。
「君は、暗闇でも、見えるの」
「ああ見えるわ。お前のことなんてお見通し。お前は黙って私について来ることだな」
彼女は事もなく、すたすたと暗闇を進んだ。
──全裸の彼女。絶対に何かがおかしい。
が、僕は、か細く心もとない光で照らした彼女の美しい背中を見つめ、そしてその後をついて歩いた。
まるで、悪魔に導かれる迷える子羊のように。もはや、盲目的に。
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