4.衝突
正直理解できないけど、素粒子物理学の世界では、この世は11次元からなるらしい。
X、Y、Z軸、つまり縦横高さからなる3次元空間しか認識できない僕にとっては、想像すらできない、まったく途方もない理論だ。ドラえもんのポケットでも4次元だというのに、一体この世界のどこにそんな異次元が存在するのか。ここまでくるともはやオカルトと変わらない、そう思った。
しかし逆に考えれば、一般人にはオカルト的とも思える理論が、物理学の世界では確然と存在するのだから、日常に超自然的現象が起こったとしても、実はなんら不思議ではないのでは? そうとも思った。
今、ベッドですうすうと寝息をたてている彼女の存在が、それだ。
あり得ないと思うのは、認識が追いついていないだけかもしれない。
さらにこの世は、6種類のクオークと呼ばれる粒子と、6種類のレプトンと呼ばれる粒子によってできていて、それらの間には電磁気力・弱い核力・強い核力・重力のたった4種類の力の作用しかなく、それで全てを構成して──、欧州素粒子物理学研究所での事故のニュースから、僕はいつのまにか素粒子物理学について調べていた。そしていつの間にか、眠ってしまっていた。
突然、僕は椅子から転げ落ち、目覚めた。
無様に床に転がりながら上を見上げると、彼女が仁王立ちで、僕を見下ろしていた。
「お腹空いた」
と彼女は言って、悪戯っぽく足で僕のお腹の辺りを円を描くようになぞって、くすぐった。
「ひどいな、もっと優しい起こし方できないの?」
「優しい? 例えばどんな?」
「例えばっていうか、普通に──」
普通? と、本当に意味が分からないみたいな顔をする彼女。
「知らない。私、急いでるの。お腹が空いた」
「君、──食べて寝て、セックスして、そればっかりだね」
「お前がそうしているからだ」
あ、確かに──。
「やれやれ、またコンビニに行くしかないよ」
と言って立ち上がると、
「調べてたの? 馬鹿ね」
とパソコン画面を見て彼女は言った。やっぱり、彼女が調べていたのも、この事故のニュースなんだ。
「──けれど、お前も馬鹿だが、ここの人間も馬鹿だ。この世界で最も優れた、そう言われる者達が、寄ってたかって馬鹿な実験をする。つまり、愚かね」
「君は何者なんだ?」
「ルイーズ・シャークと言った」
「それはいいけど、どうしてここにいるの? 君の言うことが本当なら、そのルイーズ・シャークは事故で亡くなってるよ」
「そうね。いや、死んでない。いや、死んだか──」
「なに言ってるの?」
彼女は答えず無表情で黙りこくり、しばし睨むように僕を見据えた。
「もう面倒! 私は腹が減った。私もコンビニ行く」
質問には答えず、少し語気を強めて言い放った。短気なのかもしれない。
「はぁ?」
「私も行く」
そう言って、そくさと外に出ようとするので、慌てて彼女を止めた。
「ちょ、ちょっと、その格好で? 待ってよ、ちゃんとした服着なよ! てか、どうしようか──」
で、結局僕のハーフパンツとパーカーを着せてあげて、そして二人で真夜中の3時にコンビニに行くことになったのだった。まさか「私もコンビニ行く」なんて言い出すとは、思いもよらなかった。一緒に行って大丈夫なのだろうか? 大丈夫? いや普通の女の子なら別に変な事ではないのだろうが、やや不安になる。
外に出ると、雨はすっかりやんでいた。濡れたアスファルトが、街灯でキラキラと輝いていた。まるで星を散りばめたように。少しひんやりとしていて、空気がすっきりと澄んだように見える。街中が雨で洗われたみたいに。
「ふーん、外は思ったよりも気持ちいい」
と言いながら、彼女は夜空を見上げ「あれが月?」と訊いてきた。
というか君、最初は外にいたんだけど、全裸で。
「え? そうだけど──」
「綺麗」
「うん。──?」
月、見たことないのか?
「本当に輝いている。こんなにも明るいのか。あれは、どれほど遠いのか。こうして見ると、近くに感じる──、不思議」
などと、子供のようなことを彼女は言った。
「今日は満月なのかな? ほぼまん丸だね。てか君、月見たことないの?」
「そうね、実物を見るのは、きっと初めて」
「嘘?!」
「ふはっはっはははっ」
突然、子供っぽい無邪気な笑い声を上げた。
「なっ──」
とても妙なことだとは思うけれど、未だに彼女は謎だらけで、ある種異常な状況にもかかわらず、今この瞬間、僕は心地よく楽しいと思った。恋人と夜中にコンビニへ行くのって、こんな感じなんだ、と。そもそも、彼女の本当の素性さえ分かれば、何も問題はないのではないか? ──と錯覚するほどに。
僕は改めて訊いた。
「君はどうして、ここにいるの?」
「またそれ? その話はおしまい」
「え、なんで?」
「お腹空いたの」
「またそれだね」
と、そうこうしているうちにコンビニに着いたのだった。
「ふーん」
と言って、彼女は店内を歩き回る。
とりあえず、お弁当を適当に2、3個カゴの中に入れ、そしてサンドイッチや食パン、それにコーンフレークや牛乳も──、ただ、まだ母親に生活費の用立てをお願いしていなかったので、金銭的にそれほど余裕がない。
「コーラは家にまだあるから、いいよね?」
と彼女に声をかけた。彼女は雑誌コーナーでファッション誌らしきものを読んでいる。やっぱり女の子か。──いや、にしても、彼女のこれまでの奇行に対する違和感は拭っちゃいけない。だけど、コンビニと言えどもこの感覚、女の子と一緒に買い物という状況に、自然と心弾むのだから、自分で言うのもなんだけど、僕はほとほと能天気で間抜けだ。
財布の中は3千円ほどだったが、足りるだろうと会計レジに行った。
「お会計、2,115円になります」
レジのぶっきらぼうな男性店員に言われ、心細い気持ちになった。
電子マネーもまだ少し残っているはず。
「電子マネーで」
と返答し、カードを取り出すと、その時突然、彼女が缶ビールやら赤ワイン、ウィスキーの瓶やらをドカドカと乱暴にレジカウンターに置いたのだった。
「これも、欲しい」
「ちょ、ちょっと君──」
と彼女に注意する間もなく、無愛想な店員はさっさと商品バーコードをスキャンし、
「お会計、7,238円になります」
と、いかにもめんどくさそうに告げるのだった。
オイッ!
「ちょっと待ってよ、こんなに、お酒なんて、君!」
「ビール、欲しいって言わなかった? そのために来たんだけど」
「てか、君、いや、それ以前にお金足りないよ」
「そんなことない。大丈夫だから」
「現金もそんなに無いよ!」
「私が大丈夫って言ってる」
「大丈夫じゃないよ、そもそもこんなに無理だって。食べ物を買いに──」
「さっきも言ったけど、ビールが欲しいって言った。馬鹿なお前は覚えてないの?」
「ていうか、お金足りないから無理だよ」
無愛想な店員は、あからさまに面倒くさそうな顔をして「お会計、電子マネーでいいですか?」と即すように確認してくる。いけ好かない店員だと思った、が、確かに僕たちのやり取りも些か見苦しい。と、その時ふと、僕と彼女の後ろに、40歳前後くらいのおっさん──厳つい顔つきのこれまたガラの悪い派手なストライプのスーツを着た──が、ロック氷1㎏を山のように詰め込んだカゴを両手に持って並んでいることに気がついたのだった。
チラッとそのおっさんの様子を気づかれない様に確認して、仕方なくICカードを電子マネーの読み取り機の上にかざした。残高が足りないのは分かっていたし、現金を足したとしても買えない分は戻すしかない、彼女もあきらめるだろうと。で、やはり「ピー」というレジの警告音が鳴り、お会計金額不足となった。
後ろのガラの悪いおっさんが、あからさまに聞こえるように「チッ」と舌打ちをする。
ヤバイと思いつつも、
「ほら、足らないだろ? だから──」
と言いかけると、彼女は、
「そんなことないから」
とICカードを取り上げ、自ら読み取り機の上にかざし「もう一度やって」と店員に言った。
すると、「ピピッ」という電子マネー決済音とともに、会計は完了した。
「えっ、あれ?」
僕は声を上げたが、無愛想な店員は少し不思議そうな顔をしただけで淡々と「レシートいりますか?」と差し出してきた。それを受け取り確認したが、確かに会計は完了している。残高は12,762円となっていた。
「嘘? こんなに入れてたっけ?」
「ほら、私は大丈夫と言った。私、こういうのには相性がいい。昨日、気がついた」
「え? なにそれ、どういうこと?」
などとしていると、後ろのおっさんがさすがにしびれを切らし「オラ! どけっ! 会計すんだんだろうがぁ!」と僕を突き飛ばしたのだった。
咄嗟に缶ビール等の入ったはち切れんばかりのレジ袋を掴み、フラフラとよろけるが、
「あ、す、すみません」
と、ごく自然にスムーズに深く頭を下げて謝った。ムカつくというよりも、こういうタイプの人には関わっちゃいけない、そそくさと店を出よう、ここは穏便にと──、
と思ったが早いか「なんだお前っ!」との吐き捨てるような彼女の声が聞こえた。それは、あきらかに僕に向かって言ってない。
顔を上げると、レジ前でおっさんに立ち塞がるようにして、突っかかり返している彼女がいた。
堂々と胸を張るように、これでもかとピンと屹立して。
「嘘──」
まじかよっ!?
「なんだぁ?」
と、どすの効いた──これはあきらかにキレかかっているであろうおっさんの凄み。
「うるさい」
厳ついおっさんの威圧にもまったく動じず、彼女は淡々と返し、そして──、
「!?」
──有ろう事か! 目にもとまらぬ速さで、おっさんの左頬に右フックを綺麗に打ち込んだのだった。そのしなやかで華奢な腕で!
「はっ!?」
いかにも痛そうな「ゴツッ」という音がして、──もう茫然と見ているしかなかった。
が、すぐさま鼓動が、心臓が壊れるんじゃないかと思うほどに大きく早くなり、そしてビリビリと全身が小刻みに震えてきたのだった。
「イッテッ!!」
おっさんは中肉中背でややがっしりしとした体格であったためか、というか身長150㎝前後の彼女に比べれば体格差は歴然で、頭を横に振られただけでびくともせず、そしてすぐ向き直り、
「なんだぁっ!! てめぇっ!!!」
と猛獣のように吠えたかと思うと、「ドスッ」と鈍い音がして、
「なっ?!」
──彼女がその場から吹っ飛んだ。
おっさんは些かの躊躇もなく、相手が少女であることも関係なく、彼女を蹴り飛ばしたのだった。
入り口近くの新聞ラックに激突し、尋常ではない大きな音が店内に響き渡り、彼女は「ぐげっ」と少し嘔吐した。
「なっ、なんてこと! あ、あっ、あのっ、すみま──」
僕はうまく声を出せなかった。が、代わりにとても冷静に彼女が声を発した。透き通るような美しくハッキリとした口調で、
「この人間、おっさん? クソオヤジとでもいうの? 生意気だ」と。
まじでっ!? 生意気って、それ君でしょっ!? 滑稽にもそう思うが早いか、
「なんだとコラァッ!! 上等だぁっ! 表出ろゴラァァッ!!!」
とおっさんは、怪獣のようにどすどすと歩み出て、僕を出入口の自動ドアの方へ突き飛ばしたのだった。自動ドアは彼女が新聞ラックに激突した際に開いていた。
そしてその一瞬の間、彼女はなよなよとよろける僕に向かって「お前、その顔なに? 可笑しい、馬鹿?」と、腕で口を拭いながら小声で言ったのだった。ひどく楽しそうに、そして無邪気に。
僕はこの時、もはやここは異次元なのではないだろうか? とも思った。
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