2.接触

 

 20代男性の初体験平均年齢は18歳だという。ということは、成人するまでに経験している奴の方が多いということだ。ならば僕は、一般的に遅い方だ。でももう、今更早い遅いなんてどうでもいい。


 僕は経験した。


 といっても、昨夜の出来事は、恋愛、性愛などとは到底言えず、──それ以前に、僕なんかは、いつまでたってもそういった経験に恵まれない類の人間だと、そう思っていた。事実これは、そんな甘い物語ではないのかもしれない。


 セックスは、彼女との精神的な絆のようなものを、否応無しに深めた。そう感じた。たった一度の肉体的交わりは、何時間と重ねる言葉のコミュニケーションのそれを軽く飛び越え、互いの心と言うべきか、魂と言うべきか、そういった目に見えないなるものの内側により近づける。──そう考えた一方で、肉体的な触れ合いが先行した関係は、何かが欠落しているようにも感じた。互いの感覚、距離感というようなものは近づいたが、本来もっと明確に見えるはずであろう、が遠い。でも、今の僕には分からない。


 でもすべて、独りよがりかもしれない。


 目覚めたのは昼過ぎだった。


 昨夜、何度も何度も彼女と体を重ね、疲れ果て、眠りについたのはカーテンの隙間から光が差し込み、部屋の中よりも外が明るいことを知ってからだった。


 ベッドの上には僕一人、彼女はすでに起きていた。裸でデスクの椅子に膝を立てて座り、パソコンに向かっていた。


 無言で起き上がり、彼女の背後からパソコンのモニターを覗き込んだ。海外のニュースサイトのようであった。彼女はあちこちに飛び、サイトを開き、頻りに何かを探しているようであった。


「なにを見ているの?」

 彼女を背後から抱きしめ、そしてそっと頬にキスをした。さも、恋愛映画の俳優のように。そして、胸にも触れた。さも、自分のモノであるかのように。

「お前に言っても、分からない」

 とそっけなく彼女は言う。

「英語は苦手だけど、ひどいなぁ」

 再び彼女の頬にキスをした。恋人のように。──恋人? 僕たちの関係は一体なんだ? とも思ったが、肉体関係を持った以上、これはもう恋人といっていいだろう、としか僕には考えられなかった。


 ところが、彼女はキスに対してなんのリアクションもなく、

「腹が減ったの」

 と、声のトーンを一切変えず、一本調子で不服そうに言った。

「僕もお腹がすいたよ」

 と、それでも彼女の頭のてっぺんに顔を乗せ、その柔らかな髪に埋もれ、そしてギュッと強く抱きしめた。心地よいほんのり甘い香りがした。

「お腹が空いたと言ったの。お前はやさしいが、馬鹿。残念」

「ん? 酷いなぁ」 

 そのまま彼女を抱き上げて、ベッドに連れていきたい衝動にも駆られたが、自制した。

 もう一度彼女の頬にキスをして、

「なにか冷蔵庫にあったかなぁ」

 と、キッチンというのはおこがましい、玄関のすぐ脇の流し台と電気コンロのある通路ともいえる台所へ行き、冷蔵庫を開けた。数ヶ月前に買ってから飲む機会に恵まれず、忘れられ底冷えしたような缶ビールが2本あるだけだった。

「なにも、無いな」

 

 仕方がないので、再びコンビニに行くことにしたのだった。


 シャワーを浴びたかったが、彼女がそんな時間も待ってくれなさそうだったので、サッと顔を洗って、脱ぎ捨てていた服を引っかけ、部屋を出た。昨夜の事を考えると、体臭が少し気になったが、なぜか寧ろ意気揚々とした気分でもあった。昨夜に続き、また一人でコンビニに食糧を調達しに行くなんて、ヒエラルキーとしていわゆる尻に敷かれているようなノリだけど、それも悪く感じなかった。


 図らずも、僕は一夜にして人世において最も大切であるモノを手に入れた! そんな気分だった。恋人、恋愛、愛、どれも僕にとっては空想上の産物と言っていいレベルのものであったし、こんな揚々とした心持ちで朝のコンビニに向かったことは、今まで一度も無い。

 

 ただ些細な事だけど、朝起きたら毎日やる日課のはずだった、ハムスターの水を取り換えなかった事が、少し申し訳なく思った。小さな同居人、或いは僕のささやかな相棒ともいうべき奴で、大学を中退してからふと飼い始め、ハム次郎と名付けていた。昨夜のアレコレのおかげで、すっかりほったらかしにしてしまっていた。


 コンビニに入ると、まずは弁当をと思ったが、しかし冷静に考えてみると、僕は昨夜から無職になったのだ。節約しなければならない。が、そんな心配事もすぐに吹き飛ぶ。実家の母親に再び無職になった事を知らせ、当面の生活費を工面してもらう。そんな無責任な考えがすぐに浮かんだ。中退以来、関係が悪化している父親に知られるとマズイのだが、しかし、それしか選択肢は無いと開き直った。

 次の瞬間には、彼女はコーラが好みのようなので、大きめのペットボトルを数本買っておこう。そんなことを気楽に考えていた。それに、避妊具も必要か──昨夜は何も考えず夢中だったが、年上の僕がちゃんとしておかないと──などと考えながらの買い物は、ひどく楽しいものであった。


 コンビニを出ると、空模様は曇りに変わっていた。天気予報通りであれば、夕刻から再び雨だ。僕は跳ねるように帰路を急いだ。


 部屋に戻ると、奇妙な笑い声が聞こえてきた。

 

 彼女に違いないはずだけど──、彼女がそのような笑い声を上げるとは思えなかった。


 7畳間に入ると、彼女はへらへらと奇声のような笑い声をあげ、パソコンに向かっているというよりは、椅子の上でふんぞり返るというか、脚をデスクに上げ、器用に足でマウスを操作しながら、缶ビールを飲んでいた。頬を赤らめて、あきらかに酔っぱらっていた。全裸で。


「なっ! 何してんのっ! 君、未成年じゃ、ないの?」

「あはっ、お前、カカカカッ、クククッ、何言ってんの? お前? クククッ」

 と、低く押し殺したような気味の悪い笑い声に紛らせて、彼女は言う。

「何じゃないよ、ビール!」

「んあ? これ、苦いな、アハハハッ! いいな。これ。美味い。クカカカカカッ、ギャハハハッ!」

「1人で何やってんのさっ! あり得ないよっ! 君っ!?」


 彼女はすでに500ml缶1本を空けて、2本目を飲んでいた。

 

 詰め寄ると、僕の動揺などお構いなしに、彼女はにっこりと満面の笑みを浮かべ、そして缶をゆらゆらと揺らして見せつけた。とても上機嫌で、そして無邪気にからかうように。ただ、彼女の笑顔は天使のそれのように、ひどく可愛らしかった。注意する気も、消え失せるほどに。


 彼女はパソコンで、動画投稿サイトの動物の映像を見ていた。アフリカのサバンナかどこか、野生のライオンやら豹やら猛獣がシマウマの子やガゼルの子を狩り喰らう、いわゆる野生動物の衝撃映像の類だった。


「こんなのがそんなに面白いの?」

「フフフッ、アハハハッ! お前に説明しても、分からないのよ。きっと、フフフッ、ギャハハハァッ!」

 酔っぱらっているとはいえ、彼女のその奇妙な笑い方に、ある種の不気味さを感じた。素性はおろか、見た目は少女だけど、その行動や言動から年齢も不相応というか、人間的に違和感しかない。

「確かに、よく分からないな。君は」

 流石に僕が呆れ返った表情をしていたのだろうか、彼女はしばらくしてへらへらとした眼差しを正し、デスクに上げていた脚を下ろして普通に座りなおした。

「ごめんなさいねぇ、フフフフッ」

 それで少しは安堵したけど、

「君は、未成年じゃないの?」

「んあ? え? ああ、年齢とか? どうだか。調べてみる」

 などと、さらに訳の分からない事を言い出したので、やはり些か不安になった。


 飲んでしまったものは仕方がない。見た目は未成年に見えるけど、違うのかもしれないし、そもそも海外は日本と飲酒年齢が違うし、文化が違うのだと勝手に納得することにした。とにかく買ってきた食糧をと、買い物袋をちゃぶ台に置くと、すぐさま彼女は寄ってきて漁り出した。


「あのさ、いいかげん、なにか着たら? その、目のやり場に困るというか──」

「フフフッ、そう? 好きなんでしょ? 裸の女、お前は。そんな情報ばかり」

「いや、でも──」

 と言いつつ、もうその場で押し倒して、そのままてやろうかとも考えた。

「あ、そうか、お前、あれか、衣装。身に着けた方が、好きなコトもあるのか。キャハハッ」

「──風邪ひくよ」

「ならお前の好きなモノ着てあげる、出しなさい? ないの?」 

 

 僕が女性用の服なんて、持っているはずもない。それに、女の子と付き合ったことのないこの部屋に、女性用のモノがあるはずもない。そもそも、彼女用に、を持っている人の方が稀なようにも思うが──、とにかく、また自分のTシャツを彼女に渡したのだった。

「フフフッ、どう?」

 彼女はそれを、普通に着て見せた。

「ま、まぁ、可愛いよ」

「キャハハハハッ! お前、クククッ、馬鹿ッ、クカカカッ」

 一体何がそんなにおかしいのか、さっぱり分からなかった。酔っぱらうとそうなるのか、彼女は本当に上機嫌なようで──、彼女とのやりとり、この一見楽しげで自然な受け答えが、逆にどこか不自然にも感じた。

 そもそも僕は、彼女の名前すらまだ知らない。


「ちなみにだけど、お弁当、温めた方が美味しいよ」

「そう、ならそうして」

 と、食べかけの唐揚げ弁当を素直に差し出した。何故かは分からないが、彼女は昨夜と打って変って、箸を正しく器用に使っていた。

 弁当を電子レンジで温めている間、彼女はおとなしく待っていた。そして、コーラをコップに注いで渡してあげると、にっこりと優しく微笑んだ。そうした彼女の自然な笑みは、ほんとうにひどく美しいと改めて思ってしまった。


 僕もカップ麺を食べようと、流し台のケトルを取ろうとしたとき、部屋の隅に置いてあるハムスターのゲージの扉が開いている事に気がついた。

「あっ、ちょっと! 君、ハムスター見たの? ゲージ開けっ放しにしたらダメだよ。部屋のあちこち散歩しちゃうんだから、彼」

 と言ってゲージの中を見ると、僕の同居の友、ハム次郎は居なかった。

「ほら、どっか行っちゃっただろ? ねえ? 君、聞いてる? どこ行ったの?」

「フフフッ──」

「いきなり触っちゃだめだよ、知らない人だと怖がるでしょ。触った?」

「あぁ、小動物、鼠、ね。クククッ──」

「ねぇ、どこいった?」

 と部屋中を見渡し、大体いつも潜り込んでしまうベッドの下を覗き込んだ。

「お前、それ飼っているの? 何用なの? 鑑賞用なの?」

「は? 鑑賞?」

 向き直ると、彼女は口元を歪め──、ゆるく微笑んでいるのか?

「それが、食用ではないことは、分かっているの」

「え? はあ?」

 なにを言ってるのか──?

「でもね、興味があって」

「え? どういうこと?!」

「興味深いの。お前には、分からないのかもしれないけれど、生き物というもの」

「意味が分からない」

「動物。動物よ、お前も、そして私も、興味深い」

 彼女はコーラを一口飲み、そして「ククククッ」と笑ってから、

「この缶のやつ、飲みたい。もう無いの?」

 と言って、ビールの缶を持ち上げてゆらゆらと振り、再びゆるく微笑んで見せた。


「えっ?!」

 

 あれ? まさか──、嘘でしょ?


 パソコンのモニター画面では、ライオンがトムソンガゼルの子を捕食していた。

 





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