僕の終わりと、彼女の世界。

目鏡

1.邂逅

 人類存続の脅威がいくつかあります。

 核戦争、壊滅的な地球温暖化、遺伝子操作されたウイルスなど、脅威の数は今後増えるでしょう。新技術の開発で、問題発生の余地も増えるからです。

        (スティーブン・ホーキング博士 英BBCインタビューより。)

 

 



 欧州にあるという世界最大規模の素粒子物理学研究所で、深刻な事故が発生した。それを知ったのは、彼女と出会ってから数日後のことだった。


 報道によると、実験機器の爆発により多数の死者がでて、消防や警察そして軍隊まで出動したらしい。そこには世界最大の衝突型円形加速器があり、近年話題になったヒッグス粒子をはじめ、ブラックホールやら、宇宙の起源やらと、平たくいうとこの世の根源みたいなものについて研究されていたという。量子力学、素粒子、ビックパン、大型ハドロン衝突型加速器、ハッキリ言って僕には皆目無縁だし、言葉として僕の理解をとうに超えた、──つまり、日常生活にさえ窮していた僕にとって、まったく別世界のモノであり事であった。


 今思えば──、彼女と出会う前にこのニュースを知っていれば、また違った結末になっていたのかもしれない。


 だけど──、後悔はない。


 その日、僕は始めて間もないバイトを辞めた。というか、自らクビにしてもらったようなものだ。何故なら、勝手に職場から離れ、帰ってきたからだ。無責任と言われるかもしれない。確かにそうだ。が、人には限界がある。バイトを始めて数日、「最初に言ったよね?」「なんでこれくらいすぐに覚えられないの?」「使えねぇな! 向いてないよ」などと毎日なじられ続ければ、心も折れます。「ここは戦場だからな!」と言っていた先輩バイトにかえしたい。職場を戦場にするのも、どうぶつの森にするのも、それは職場を作る人間次第なのではないでしょうか? と。そして僕は戦死したのだった。


 大学を中退して、そのまま住み続けたアパートに帰ってきたのは午後9時頃。霧雨が降っていて、傘を持っていなかったので、じっとりと濡れて肌寒かった。アパートの階段をのぼろうとしたとき、その階段の裏側の下で、ソレを見つけたのだった。

 

 金色の毛におおわれた、ムックリとしたナニか。ぬいぐるみ? と最初はそう思ったが、ソレは人間だった。うずくまり、前に長い髪を垂らし、見知らぬ誰かがじっとしていた。


 正直ぎょっとした。その不気味さに、これは現実の事なのか? と目を疑った。僕はそこでしばらく立ち尽くしていた。

 すると突然、ソレは頭を上げた。視線がぶつかる──。苦悩に歪んだ表情、赤い目、涙で潤んだ瞳、女の子だ! その瞬間、これは大変な事件、或いは事故だと直観した。途端に鼓動が早まった。

「だいじょぶ?!」

 と声をかけ、無意識に手を差し出すと、彼女はスッと手を握りかえし、そして立ち上がった。全裸だった。


 女性の裸を見たのは、初めてだった。ひどく動揺した。


 その後、彼女にどんな言葉をかけたか、そして彼女が何と答え、或いは何も答えていないのか、僕自身ひどく混乱していたので、よく覚えていない。だけど、小刻みに震える彼女をそのままの姿にしておくわけにもいかず、とにかくまずは部屋へ、そして温かいシャワーを──、と咄嗟に考えたのだけは記憶している。


 手を引いて、階段を登った。部屋に入りユニットバスに駆け込み、お湯を出し、そして彼女を招いた。彼女は導かれるままにバスタブに入り、シャワーを浴びた。


 7畳のワンルームでシャワーの音を聞きながら、何故女の子が、しかも全裸でこんなところに? 家出? 事件? もしこれが暴行事件ならば、シャワーを浴びると犯人の痕跡を消すことになってしまうのでは? などと色々と考えた。

 

 それから10分、20分と一向にシャワーの音は止まず、彼女が出てこないので、僕は立ち上がった。

「あ、あのー、大丈夫?」

 声をかけ、バスルームのドアを開ける。全く反応が返ってこないので、恐る恐るシャワーカーテンを引くと、彼女は最初と同じように立ち尽くし、シャワーにうたれるままだった。

 びっくりして、慌ててお湯を止めると、彼女は顔を上げこちらに目を向けた。そして神妙な眼差しで僕を見据えた。

 大きな瞳。均整のとれた目鼻立ち。白い肌。金色の長い髪。白人の美しい少女だった。


 よほどショックな事があったのだろうか? いや、ただならぬ事がない限り全裸でこんなところに居るはずがない──。


 彼女が突っ立ったままなおも無反応だったので、僕はバスタオルで彼女の頭をフワリと包み、なるべく優しくと、髪を拭きはじめた。頭から首、肩から背中と拭う。女性の肌に触れたのももちろん初めてで、その滑らかさに驚いた。さらに、ほんのり膨らみのある胸元も恐る恐る拭った。胸元にタオルを這わせる時、緊張で手が震えた。例えようのない、想像をはるかに超えた柔らかな感触──、それも僕にとってはある種の衝撃だった。


 男と女は、性別という当たり前の事はおろか、生物学的な形質もまったく違う生き物なんだろうか? とさえ、その瞬間感じた。自分が知らない人世の、未知の領域、図らずもこんな形で、足を一歩前に進めた。そんな風に感じた。


 彼女はされるがままになっていた。腰から下、お尻や脚も拭き、そしてバスタブから手を引いて出した。もちろん女性の秘部も初めて目にしたが、その時の僕は必至だったのと、ただならぬ事件の気配に、恥ずかしさとか、或いは男性的な劣情なんて、皆目催さなかった。心にそんな余地はなかったのだ。


 ユニットバスから彼女を出して、再び「大丈夫?」と訊いた。無反応だったので、「Do you speak japanease?」と、つたない英語で語りかけた。するとようやく彼女は少し反応し、僕をじっと見た。そして「fire」と、初めて小さく声を発した。

「え?」

 なんのことか分からず、

「what?」

 と訊き返したが、彼女は再び、

「fire」

 と言って、──ヒアリングが間違っているかもしれないが、確かにファイアと聞こえ、さらに何か聴き取れない、僕の語学力では理解できない英語? をブツブツと語り出したのだった。

 それは、僕に訴えるというよりは、独り言みたく呟いているようにも見えた。


 彼女は最初から全裸だったので、とりあえず着るものをと、ボクサーパンツとTシャツを渡した。が、彼女はそれを受け取るだけで、一向に着ようとしない。で、結局着せてあげたのだった。


 それからどうしようか迷ったが──、とりあえず、僕は彼女に温かいココアを入れてあげた。

 

 マグカップを彼女に手渡し、飲むように身振りで伝えると、小さく頷いた彼女は、カップを両手でしっかりと持って、そしてベッドに腰を下ろし、ゆっくりと静かに飲み始めた。


 しばらく沈黙が続いた。

 

 その間、僕は彼女をただ見つめた。そして、自分の部屋に、白人の少女、控え目に言っても美少女の、しかも自分のパンツとTシャツを着て、僕のベッドに座りココアを飲んで──、そんな状況、どうしてこうなった? いや、これからどうすればよいのか? 警察に連絡するか? あきらかに未成年では? ゆっくり話しを聞いてから判断するか? などと自問を繰り返していた。


 普通なら「少女の家出かもしれない」と警察等に届け出るのが正しい判断だろう。が、その時の僕は、というか自分の境涯も──、身にも心にも色々と堪える事柄が続いていたためだろうか、何故かその選択肢はとれなかった。

 或いは、彼女が使のように美しい少女だったから? それもあるかもしれない。どこか遠くへ逃げ出したい気持ちでいっぱいであった僕に、ある種の非日常を持って来た彼女だったのだ。


 日本語を話せないからか、それとも何らかの心的外傷からか、余りに彼女が何も言葉を発しないので、僕の苦手な沈黙と気まずい雰囲気が立ち込め、居ても立っても居られず、

「お腹はすいてない? 食べるモノ。Are you hungry?」

 と身振りを交えて訊いた。

 すると、少し落ち着いてきたのか、彼女はコクリと頷いたので、

「ok! あー、えーっと、I am go to buy food ok?」

 と再び身振りを交えて言って、

「wait a minutes えーっと、10minutes! ok?」

 と言って彼女を部屋に残し、とにかくコンビニに走ったのだった。

 

 後から思えば、少女とはいえ、見ず知らずの人を独り自分の部屋に残し出かけるというのは不用心だろう。でも、その美しい少女が、信用できない悪意ある人間だとは、直観としてあり得ない、と楽観していたのだと思う。

 

 そして、最寄りのコンビニで弁当やおにぎり、パンやサンドイッチ、お茶やジュース類、チョコレートやスナックなどのお菓子も色々と買い込んだ。日本語が話せない外国人だし、何を食べるか分からないので、とにかく沢山買い込んだ。そして、一刻も早くと走って帰ったのだった。


 アパートの部屋の扉を開けると、テレビの音が聞こえた。7畳間のドアをあけると、


 ──思いもよらない彼女の姿があった。


 テレビはつけているが見ることなく、彼女はデスクの椅子に膝を立てて座り、勝手にパソコンを立ち上げて、何かを見ていたのだった。


 え!? パソコン使えるのか? とういうか、なんで? と思うが早いか、彼女はこちらに向き直り、はっきりとした口調でこう言った。

「早かったね」と。


「え! 日本語話せるの!?」

 と咄嗟に訊いた僕に、彼女はそれまで全く見せることの無かった表情の変化──、口元を歪め微笑んでから、

「話せる」

 とだけ言って、再びパソコン画面に向かい、マウスを操作してなにかを熱心に見ていた。


 僕は再び、夢でも見ているのだろうか? これは現実なのか? と自分の目を疑った。


 部屋に招き入れた時とは、まるで別人のような雰囲気。いや、別人なのか? 或は、急に日本語を話しだしたから別人のように感じるのか? でも、最初の悲壮感漂う涙目の無表情とは明かに違う。妙な笑みを僕に投げかけた。何故急に? それは何かしらの余裕ともとれるものを感じたし、正気を取り戻したのだと考えることもできなくもないが、まるで腑に落ちない。


 戸惑ったが、とにかく買ってきたものをちゃぶ台に広げ、彼女に食べるかどうか訊いた。


 彼女はすぐさまデスクを離れ、こちらに来た。そして迷わず一番ボリュームがありそうなかつ丼弁当を手に取り、包装ビニールを破いた。

 お箸を渡し、

「お箸は使え──」

 と訊く間もなく、彼女は箸を割らずに握りしめ、それをまるでスプーンのように使い、ガツガツと食べ始めたのだった。しかも、温めてもいないのに。

 仕方なく、僕もサンドイッチを開けて食べた。

 

 テレビでは天気予報が流れていた。明日は大雨になるらしい。


「少しは落ち着いた? 君は、どこから来たの? どうして階段の下に? その、裸で──、あの、一体何があったの? 正直、びっくりしたよ」

 と僕は訊いた。

 彼女はチラリとこちらに目を向けたが、何も言わず、今度はミートソースパスタの包装を破いた。

「あ、温め──」

 という間もなく、彼女はそれもガツガツと食べ始めたのだった。

「そんなにお腹すいてたの? 美味しい? 温めた方がもっとおいしいよ」

 と言ったが、彼女は無言で食べ続けていた。

 

 彼女がパソコンで何を見ていたのか、チラッと画面を見たが、何やら外国のニュースサイトで、英語だらけでよく分からなかった。


「何をパソコンで見てたの? あの、ちょっと驚いたよ。──その、日本語が話せるんだね? 日本に住んでるの? この辺りに住んでるの?」

 そんな問いもすべて聞く耳を持たず、ペットボトルのコーラを手に取り、キャップをとろうとした。上手く開けられないようで、僕が手を出すと、それは素直こちらに渡した。そして開けてあげると、勢いよく飲む。が、口に含んだ瞬間、少し驚いたように目を見開いて吹き出しそうになる彼女。なんとか堪えて、そしてコーラのペットボトルをまじまじと見る。

「どうしたの? まさか、コーラ初めて飲むの? いや、国によって味が違うのかな?」

 チラリとこちらに目を向けたが、無言で二口目を飲んだ。


 細い腕、長い首、きめ細やかな白い肌、少し華奢な体躯。その美しい顔立ちからは想像もできないであろう豪快な食べっぷりと、その仕草、──腕で口を拭い、彼女は言った。

「言っても、わからないと思う」

「え?」

「私が何者なのか、どこから来たのか、説明しても理解できないと思う。あなたには」

「ええ!?」


 とても流暢な日本語だった。その言葉を受けて僕は考えた。彼女はひょっとして、不法滞在の外国人? どこかの物騒な組織に属していて、たとえば夜の飲食店とか風俗店とかで働かせられていて、嫌になり逃げてきたとか? だから裸で──、

「家出とか?」

 僕はあえて遠回しに聞いた。

「大体そんなところにしておいた方がよさそうね。私、帰るところがないの。これから住むところも」

 

 やはりだ、彼女に何があったにせよ、これは絶対に警察等に届けるのが正しい事案だ。


 だけど──、


「じゃ、じゃあ、行くところがないなら、僕のところにいるといいよ」

 と彼女に言って。そして、なるべく、優しく自然に見えるようにと心がけて、微笑みかけてみせた。

 この時、僕の声は少し震えた。こう返事したら今後どうなるか、実際にそうしたらどうなるか、もう想像もつかなかったからだ。別に下心があった訳ではない。確かに彼女は天から舞い降りた天使のようにも感じられたけど、そんな超自然的なファンタジーを夢見た訳でもない。ただ、冷たい霧雨のとめどなく降り続ける夜のようなこの世の中、どこからか逃げ出したい気持ち、それは僕にも痛いほど分かったし、それに、僕もどこか遠くへ行きたかったからだ。


「やさしいのね」

 と言って、彼女は僕を見つめた。

 ラッパのようにしてコーラをもう一口飲み、口を拭って、そして突然、Tシャツを脱いだのだった。

「え?」

 露わになる胸元。華奢な肩と、ほんのり膨らんだ乳房が、ひどく美しかった。

 そこから這い寄るようにして、すぐ傍らにくる彼女。

「え! なに?」

「好きなんでしょ? あなたの持ち物、閲覧履歴も女性の裸体ばかり」

「あっ、え? それは──」

 

 一瞬にして鼓動が爆発しそうなほど早まった。そして──、


 抗うこともできず、彼女のゆるい微笑みに引き込まれるように、僕は彼女の小さな乳房に触れたのだった。

「あっ」

 と、声を上げたのは僕だった。その、今まで体験したことのない柔らかさを感じ──、

  

 刹那、もう夢中で、彼女を抱き寄せた。


 彼女はされるがままに身をまかせ、柔らかな手つきでそっと、僕の顔を指先でなぞった。


 そして僕は、彼女と体を重ねたのだった。それこそ貪るように、ひどく動物的に。


 この時生まれて初めて、男女の性へと足を踏み入れた。遅ればせながら。


 そののちに、それこそ文字通りに踏み込むことになるとも知らずに。


 



 

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