第十章 | 昭和四十八年七月 | 律子
「雄介が死んだ」と聞いたのは、昭和四十八年夏の夕方だった。その頃律子は、高円寺にある四畳半アパートに、四歳になったばかりの雄太郎と住んでいた。昼間は事務職、夜は家で仕立ての内職をこなし、何とか糊口を凌いでいたが、忙しさにかまけ、雄太郎の面倒はどうしても疎かになった。
そんな雄太郎をいつも気にかけてくれていたのは、幸治だった。隣駅の荻窪に住み、二日と空けずにアパートに顔を出してくれる幸治を、雄太郎は「パパ」と呼ぶほど懐き、近所の人たちも「別居している旦那さん」だと思い込んでいるようだった。幸治との関係を説明するのも面倒なので、律子はそのままにしていた。
知り合って四年半ほど経っていたが、幸治は律子に指一本触れようとしなかった。触れるどころか、敬語すら崩さなかった。一度だけ、律子からカマをかけたことがあったが、幸治は苦笑しながら、やんわりと律子を拒絶した。「雄介に怒られます」とポツリ呟いたその寂しげな横顔で、律子は覚った。この人は、誰よりも雄介を愛しているのだと。
そんなある日、律子が昼間の仕事を終えアパートに戻ると、幸治が畳に胡座をかいて、ぼんやりと窓の外を見ていた。雄太郎は、幸治の膝を枕にして眠っている。留守中に幸治が部屋に来ているのはいつものことなので、顔も見ずに「夕飯食べていくわよね?」と話しかけると返事がなく、不審に思い幸治を見ると、西日に照らされた頬の傷が涙で濡れている。
「どうしたの?」
律子が声をかけると、幸治は座ったまま一片の紙切れを差し出した。電報だった。慌てて開くと「ユウスケ、シボウ。レンラク、マツ」と書かれていた。宛先は幸治、差出人は律子の知らない名前だ。思わず息を飲んだ律子を見上げ、「そんなはずないよ」と呟くと、幸治は膝から雄太郎の頭をそっと外し、座布団に移した。
「律子さん、俺、今から成田に行ってきます」
「私も行く」
「ダメです。今、三里塚の辺りは酷いことになってる。律子さんはここで待っててください」
空港建設の反対同盟が、滑走路予定地に鉄塔のバリケードを建て、予定していた開港が延期になったというニュースを、つい最近も聞いたばかりだった。確かに自分が行っても足手まといになるだけだろう。幼い雄太郎を一人にしておくわけにもいかない。
「わかった。じゃあ雄介の安否が分かったら必ず連絡して」と律子は言った。幸治は黙って頷き、アパートを出て行った。薄いドアが閉まると、部屋の中が急にシンとして、雄太郎の寝息だけが聞こえた。
雄介がいなくなって四年。正直、律子はもう何も雄介には期待していなかった。結婚を約束したわけでも、将来を誓い合ったわけでもない。「革命」とやらに夢中になっている男より、今は雄太郎との生活の方が大事だった。まだ若い律子には、言い寄ってくる男性も少なからずいたし、生活力があり、雄太郎を大切にしてくれる人であれば、いずれは……とも思うが、そう考える時、脳裏に浮かぶのは、雄介ではなく、幸治の顔だ。私が、雄介以外の男と一緒になると言ったら、あの人は一体どんな顔をするだろう。
幸治から連絡があったのは、一週間後の夜だった。公衆電話から、ひどく酔っ払った様子で電話が掛かってきた。呂律が回わらず埒の明かない会話の中、どうにか高円寺駅前の居酒屋で飲んでいることを聞き出した。少し迷ったが、「パパに会いたい」とごねる雄太郎も連れて行くことにした。
居酒屋に到着すると、幸治はカウンターに突っ伏して眠っていた。店員が助かったという表情で、「旦那さん、泣き上戸だねぇ」と笑った。雄太郎が「パパ、起きて」と膝を揺すると、幸治はぼんやりと目を覚まし、泣き出しそうな顔で雄太郎を抱き上げた。その間に律子は会計を済ませ、「帰ろ」と幸治の腕を取った。幸治は何も言わず、雄太郎を抱きしめたまま、ふらふらと店を出た。
タクシーを使う金もなく、国鉄の駅まで歩いた。雄介のことを聞きたかったが、こんな状態では何を聞いても無理だろうと諦め、黙ってホームに向かった。高架のホームは、夜風が抜けて涼しかった。
「律子さん」と、雄太郎を抱いたまま、幸治が呼んだ。
「なに?」
「雄介は……、見つかりませんでした」
嘘だと、律子は思った。
見つからないまま帰ってくる幸治ではない。酔いつぶれて電話してくる男でもない。
「きっとどこかで生きてるはずです。野垂れ死ぬようなヤツじゃない。だから、律子さん。もう少し待って……」
「私、結婚しようと思うの」
自然と口が動いた。
「え?」
「生きてようが、死んでようが、そばにいないんだったら、同じだもの。四年も会ってないのよ。顔も忘れたわ!」
幸治の腕から、雄太郎を乱暴に取り戻し、愕然とした表情の彼を冷たく見つめた。
「向こうも私のことなんて、忘れてるわ。あんたのことも、忘れてるわよ!」
バカみたい。死んだのに。雄介は死んだのに。この人、バカみたい。
下りの電車のアナウンスが流れた。幸治が乗る電車だ。律子は雄太郎をホームに下ろし、ベンチに座り込んだ。めまいがする。夏の生ぬるい空気を押しながら、電車が近づいてくる。ホームの蛍光灯がチラついている。目を閉じる。涙が滲む。水に落とした墨汁のように、黒々とした自己嫌悪が胸を満たしていく。革命なんて、大嫌い。雄介なんて、大嫌い。幸治なんて……。
突然、つんざくような電車の急ブレーキが聞こえた。驚いて顔を上げると、傍らに雄太郎がいない。慌てて立ち上がると、幸治がホームに倒れているのが見えた。その足元に、雄太郎がしがみついている。しがみつきながら、叫んでいた。
「パパ、死なないで! 死なないで!」
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