第九章 | 昭和四十三年十二月 | 幸治
古びたバスのタラップを降りて、幸治は長く息を吐きだした。集会所で押し込まれたバスの中は、濃厚な憎悪と殺気を孕んだ沈黙で息が詰まるほどだった。ヘルメットをかぶりなおし、タオルで顔を覆う。ヤッケの胸元を掻き合わせると、襟を伝った雨が背中まで流れてきて、思わず胴震いする。
目の前には寂れた山野が広がり、十二月の冷たい雨が、その景色をさらに荒涼としたものに変えていた。
新東京国際空港建設予定地 —— 三里塚
国家権力と革命運動が対峙する最前線は、まだ所々に残る朝靄までも、重苦しい緊迫感を漂わせているようだった。
白く息を吐く数千人の隊列の前で、セクトの幹部がメガホンのボリュームをいっぱいに上げて演説を始めた。その語尾を伸ばすアジテーション独特の節回しを聞きながら、幸治は、慎重に周囲の様子を窺っていた。
数日前、かつての学生闘争の仲間から、成田で大規模な決起集会があることを聞いた。複数のセクトが参加して、かなり激しいデモになるらしいこと。そして、それと同時に、どうやら雄介を狙って、敵対するセクトに不穏な動きがあるという噂も。
その噂は、成田の集会と直結して語られたわけではなかったが、嫌な胸騒ぎを感じて、幸治は居ても立っても居られず、今日の集会に参加したのだった。
ふいに両脇から腕を組まれ、鈍く光るジュラルミンの盾に向かってデモ行進が始まった。大学闘争と違って機動隊の装備も格段に強固で、否が応でも、これが武力闘争だということを思い知らされる。
絶え間なく耳をつんざく怒号に思考を奪われ、農民たちの悲痛な叫びに煽られて、一心不乱に隊列を押し進める。熱に浮かされるまま、小一時間も膠着状態が続いたころ、突然、夕立のような放水を浴びせらた。寒空の下、頭からずぶ濡れになり歯の根が合わない。震える唇で呪詛を吐くと、もはや正義と暴力の境は見えなくなった。もみくちゃになった隊列の前方では機動隊との小競り合いが始まり、緊張と興奮は極限に達しようとしていた。
無機質なジュラルミンの防波堤を突破しようとする角材の鈍い音が間断なく響き、機動隊のバリケードに向かって投げられた火炎瓶が方々で黒煙を上げていた。あっと言う間に戦場と化した人波の中、激しく揉み合う集団に、幸治は、遂に雄介の姿を見つけた。
暴徒と化した無数のヘルメットをかき分け、泳ぐように雄介のもとへ急ぐ。その一画には機動隊の姿はなく、明らかにセクト同士の抗争といった様相で、武器を持った男たちが雄介を含む数名を周囲から見えないように取り囲んでいた。血走った眼には露骨に殺意が宿り、手にした角材には釘が打ち付けてあるのが見てとれる。
間一髪その輪の中に飛び込むと、右肩で雄介を押し退け、振り下ろされた角材を左腕で受け払う。骨まで響く痺れに顔が引き攣るが、怯んでる余裕はない。襲いかかる男を蹴り倒し、体制を崩した雄介を背に立ちはだかる。間合いを詰めてきた前方の男に拳を叩き込み、左の男のこめかみに肘鉄を食らわしそうとしたところで、逆に脚を蹴られて大きくよろける。素早く体を捩って、右側から振り下ろされた角材をぎりぎりで躱した。つもりだった。
かつてない衝撃に目の前が真っ白になる。ぼやけた視界が歪んで、そのままぬかるみに倒れ込む。焼けるような痛みが顔の右半分を覆い、生温かい体液が首筋を流れるのがわかる。誰かの影が覆い被さり、大声で何度も自分の名を叫んでいた。すぐ近くで叫んでいるのに随分と遠くから聞こえてくるようだったが、幸治は、その声を聞けたことが嬉しく、安堵して深く目を閉じた。
いつの間にか退散した敵のセクトに代わって、駆け付けた機動隊が幸治たちを取り囲んでいた。隣では、人前で決して取り乱すことのない雄介の顔が、涙で歪んでいるのが見える。仰向けに寝かされ、担架が来るのを待つ。避けきれなかった角材の一端が右頬をえぐり、顎まで大きく裂かれていたのだった。
熱をもった顔を慰めるように、冷たい雨粒が降り注ぐ。その音は遠い日の喧騒を想起させた。青臭い主張であっても、青春のすべてをかけて懸命に形にしようと奔走した日々。あの夕暮れのキャンパスで、雄介と出会わなければ、こんな喧騒に満ちた日々に没頭することもなかった。将来を期待する父母の勧めに応じて、普通だが穏やかな生活を選ぶこともできた。だが、俺は気づいてしまったのだ。この鮮烈で騒々しい日常に身を置くことの快感を。雄介とともに過ごす日々の愉悦を。
数週間前に会った律子の言葉を思い出す。確かにここは雄介に連れられてきた場所かもしれない。でもここが俺たちの行き着く場所。俺たちが選んだ運命の場所に違いない。雄介の子を身籠り、その運命に寄り添うことを決めた律子と同じように、俺も雄介とともに生きていきたいと思ったのだ。
俺たちは何かを間違えたわけではない。やり直すことができたとしても、結局同じ道を辿るのだろう。ただ、俺はどうしても知りたい。俺たちがしてきたことが意味のあるものだったということを。その思想が行動が、次の世代の礎になることを、そうでなくても、せめて同じ轍を踏まない教義になることを。
生々しく脈動する頬の傷が、幸治の決意を後押しする。雄介の子をはじめ新しい時代を担う者たちを導いていく。きっとそれが俺たちの新しい使命だ。ゆっくりと掌を空に翳すと、遠く灰色の雲の彼方に、うっすらと光が射すのが見える。その光を握りしめるように拳を作ったあと、幸治は傍らの雄介に微笑みかけた。
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