第八章 | 昭和四十二年五月 | 律子

 雄介と出会った日のことを、律子は今でも鮮明に覚えている。あれは昭和四十二年五月だった。巷ではグループサウンズが大流行していて、「ザ・スパイダース」や「ザ・タイガース」が爆発的な人気を博していた。律子はそれほど歌謡曲に興味はなかったが、唯一「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」は熱心に聴いていた。特にその年の春に大ヒットしていた「ブルー・シャトウ」は、幻想的かつ哀愁を帯びたメロディで、律子のお気に入りの曲だった。

 そもそも、女のように髪を伸ばしたジュリーやマチャアキのどこが格好良いのかわからない。短髪でバリッとしたスーツを着こなしたジャッキー吉川の方がずっと男前ではないか、と律子は思っていた。


 一年前に地元の高校を卒業した律子は、しばらく実家で家事手伝いをしていた。時々見合いの話が持ち込まれるようになり、そろそろ結婚を考えなければならないのかと思っていた折、東京で飲食店を営んでいる叔父が腰を痛め、少しの間で良いので手伝いに来てもらえないかと連絡があった。東京への憧れもあり、何より結婚までの猶予をもらえた気がして、二つ返事で了解した。両親は難色を示したが、二年前に警察官になり、東京勤務になっていた兄を味方につけ、一年間限定、叔父夫婦の家に居候することを条件に、どうにか説得したのだった。

 しかし東京に出てきて数ヶ月で、律子はすでに後悔し始めていた。華やかな服装で街をゆく、同い年くらいの女性を見るたびに、自分のみすぼらしさを恥じた。田舎育ちで訛りも抜けない自分には、都会を楽しむ資格はないのだと思った。叔父夫婦が営む料理店は、平たく言えば「大衆食堂」で、昼間の定食屋が、夜はそのまま居酒屋に変わるような店だった。朝から晩まで働きづめで、遊びに行ける時間などほとんどなかったが、律子にはその方が気が楽だった。

 映画やドラマのような、大恋愛や劇的な運命に憧れないわけではないが、それはやっぱり私の人生ではないのだ。来年には郷里に戻り、見合いをして結婚する。普通で平凡な田舎暮らしが、自分には合っている。それが分かっただけでも、東京に出て来た意味があったのだと、自分を慰めていた。あの日、雄介と出会うまでは。


 その日、律子は一人で店にいた。昼時の混雑が終わり、夜の仕込みが始まる前の休憩時間で、叔父夫婦は二人して買い出しに出ていた。店のテレビを付けっ放しにしながら、伝票の整理をしていると、印象的なドラムのイントロが流れ出した。

「あ、ブルー・シャトウだ!」

 慌ててテレビのボリュームも大きくしようと、立ち上がったその時だった。

「準備中」の札を下げていた店の引き戸がガラッと開き、若い男が飛び込んできてピシャリと閉じた。男は何も言わずに素早く店のカウンターに入り込み、冷蔵庫の陰に身を隠した。短い髪にガッチリとした体格だが、動きは俊敏で、身を隠すことに慣れているようにも見えた。

 テレビに手を伸ばした格好のまま固まってしまった律子と目が合うと、少し照れたように視線を下げたあと、「迷惑掛けんけ、ちょっこし匿ってくれ」と小声で言った。律子の故郷と同じ訛りだった。次の瞬間、店の外で怒号を上げながら走り抜けていく、複数の男たちの足音が響いた。律子も男も息を潜めながら、その足音が通り過ぎていくのを待った。その間ずっと、男は律子を見つめていた。律子も男を見ていた。テレビでは、ジャッキー吉川とブルー・コメッツが歌っていた。


 森と泉にかこまれて

 静かに眠るブルー・シャトウ

 あなたが僕を待っている

 暗くて淋しいブルー・シャトウ


 後に律子は、その場面を何度も思い出すことになる。何の変哲も無い五月の午後に、突然吹き込んできた一陣の風。その風は、平凡だった律子の人生を、ドラマティックにかき乱し、予想もしない場所へと導いていった。ほんの一年足らずの期間に、あまりにも多くの出来事があり、息苦しいほどの密度で過ぎていった日々を、今では断片的にしか思い出せない。


 あの五月の午後から、律子と雄介は大恋愛に突入した。郷里の近い者同士でしか分かち合えない親近感と安心感。新左翼の活動家だった雄介に連れられ、初めて参加したデモの熱気と高揚。雄介との交際がバレて、叔父夫婦から外出禁止を命じられ、どうしても会いたくて、二階の窓から抜け出し、雄介のアパートまで裸足で走った夜の道。雄介の子供を身籠もったと知った日の歓喜と困惑。生まれて初めて見た、兄の激昂と涙。連れて帰ろうと上京してきた両親に、いっそ勘当して欲しいと泣いて頼んだアパートの部屋。成田セクトに参加したいという決意を聞かされた日の絶望と決心。そして雄介の身代わりのように、律子の前に現れた幸治……。


 今、目の前にいる雄太郎の眼差しは、出会った日の雄介の瞳とそっくりだ。眼差しだけではない。体格も雰囲気も、本当によく似ていると律子は改めて思った。今の雄太郎を、幸治が見たら、一体なんと言うだろう。自分の息子のように、雄太郎を育ててくれた幸治。律子以上に、雄介を理解し、愛していた幸治。思えば、幸治も律子と同じく、雄介に導かれて思いがけない場所にたどり着いた一人だ。あの日、駅のホームに佇んでいた幸治の姿を思い出し、律子は荒れた手を強く握った。

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