第六章 | 平成十四年五月 | 律子

 八木律子は、突然帰省して来た息子の顔を見た途端、なぜか胸騒ぎを感じた。

 子供の頃から感情がそのまま顔に出る息子だったが、今夜の雄太郎は、いつもとは雰囲気の違う表情をしていて、それが律子を不安にさせた。急行に乗れば一時間程度の距離なのに、普段はほとんど顔を見せない雄太郎が、珍しく連絡もせずに帰って来たのには、何かしらの理由があるはずだ。飲食店を経営している夫がいるはずのない、平日の夕食時を狙ってきたということは、父親には聞かれたくない内容なのだろう。

 何があったのだろう? 律子は、探るように息子の横顔を見つめた。

「急にどうしたのよ? 夕飯まだでしょ?」

 動揺を気取られぬように明るく声をかけながら、律子は息子の帰省の理由を予想した。

 お金の無心? 転職の相談? もしかして結婚の報告?

 いや、だったらもう少し明るい表情をしているだろう。いずれにせよ、あまりこちらから急かさずに、自分から喋り出すのを待とう。大急ぎで雄太郎の好物をあれこれ作りながら、律子はこの胸騒ぎが勘違いであることを願った。


 雄太郎が切り出したのは、夕食を終えてコーヒーを飲んでいる時だった。テレビでは昨年アメリカで起こった同時多発テロの模様が、まるで昨日のニュースのように流れていた。瓦礫と埃にまみれたニューヨークの光景は、律子に昭和四十年代の学生運動の風景を思い起こさせた。

「お母さん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 来たなと律子は思った。

「何、聞きたいことって?」

「親父のことなんだけど……」

「親父? 親父ってお父さんのこと?」

「じゃなくて、死んだ方の……」雄太郎が目を伏せながら言った。

 息を呑みながら、律子は胸騒ぎの理由がわかった。今夜の雄太郎の表情は、亡くなった雄介のそれと、よく似ていたのだ。


「親父が死んだのは、俺が四歳の時だろ? 俺は何も覚えてないし、母さんからは交通事故だったって聞いたけど、それ以上の詳しい事情を今まで聞いたことがないんだ。八歳の時から新しいお父さんがいたし、あんまり聞いちゃいけないことなんだって思ってた。でも……」と、雄太郎は口ごもった。

「でも、なんなの?」律子は続きを促した。

「こないだ、突然思い出したんだ。思い出したっていうか、感情が湧いてきたっていうか。その時に偶然出会った人と話してて、だんだん分かってきたんだ。教えられてきたことが、本当は違うんじゃないかって……」

「一体なんの話?」と律子は焦れた。一体今頃、何を思い出したというのだろう?

 雄太郎は一瞬黙って、それから子供を諭すような口調でこう言った。

「お母さん。交通事故じゃないよね? 本当は親父、電車に飛び込んだんだよね?」

 音を立てて走る列車の響きとともに、あの頃の怒号やシュプレヒコールの波が、律子の耳をかすめた。

「それに俺、その場にいたんじゃない?」

 息子の問いから逃れるように、律子は視線を落とした。いつの間にか小皺の増えた自分の手を見つめながら、もう会うことの叶わない二人の男の面影を、久しぶりに思い起こしていた。

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