第四章 | 平成十四年四月 | 雄太郎

 翌週、職場に雄太郎宛ての封書が届いた。中には、タクシーとクリーニング店の領収書と、返金先が書かれたメモが入っていた。あの男の名前が「田村」だと、雄太郎は初めて知った。手書きの文字が思いがけず達筆だったのにも驚いたが、きちんと領収書が同封されていたことのほうが、雄太郎には意外だった。なんだかんだ理由をつけて、法外な金額を要求されるのだろうと、半ば覚悟していたのだ。

 領収書の金額は二枚足しても、五千円にもならなかった。あの夜、半袖の白シャツ一枚で、地下鉄のホームに佇んでいた田村の姿が脳裏に浮かんだ。雄太郎は便箋に詫び状をしたため、二万円を同封して、田村宛てに書留で送付した。これでもうあの男とも会うことはないだろうと思った。


 なので数日後、職場に田村から電話が掛かって来た時には、正直うんざりした気持ちになった。しぶしぶ受話器を取ると「仕事中悪いな」と大して悪びれた様子もなく田村は言った。

「ちょっと話があるんだが、今夜会えないか?」

「話ってなんの件でしょう? お金なら先日……」

「会ってから話すよ」

 駅前の居酒屋チェーン店を指定し、「八時くらいから飲んでるから、仕事が終わったら来てくれ」と言って、田村は一方的に電話を切った。気が進まなかったが、身元が割れていることもあり、無下にすると何をされるか分からないという恐怖心があった。雄太郎は早めに仕事を片付けて、八時過ぎには指定の居酒屋に向かった。


 田村は入り口に近いカウンター席でハイボールを飲んでいた。今夜は黒いティーシャツにチノパン姿で、相変わらず薄着ではあったが、体格の良い田村にはよく似合っていた。雄太郎を認めると軽く手を上げて、隣の席を指した。カウンターには雄太郎が送った書留が、封を切られた状態で置かれていて、「今夜はこの金で飲むぞ」と田村は言った。

「話ってなんでしょう?」

 挨拶も早々に雄太郎が尋ねると「なに飲むよ?」と田村は逸らした。

「お金が足りなかったんなら、言ってくれれば……」

「バカか。そんなんだったら飲みに誘ったりしねえよ」

「でもじゃあ何の……」

 ジョッキに半分くらい残っていたハイボールを一気に飲み干して、田村は言った。

「お前、嘘ついたろ?」

「はい?」

「先輩と間違えたって、あれは嘘だよな?」

 田村は店員に「ハイボール二つ」と勝手に注文をし、駅員室でそうしたように、雄太郎をじっと睨んだ。

「俺は格闘技やってんだよ。だから体力には自信がある。それでもお前のタックルは効いたよ。あれは、先輩にふざけてかけるタックルじゃなかった。お前は本気で俺を倒そうとした」

 頬の傷を撫でながら、田村が言った。

「それにタックルしたあと、お前、叫んだろ?」

 叫んだ? 俺が?

 あの時、通過する電車の音にかき消されながら、雄太郎は腕の中で叫び声を聞いた。てっきり、田村が叫んだのだと思っていた。

「死ぬなって言ったんだ、お前が。死なないでくれって、俺に叫んだんだよ」

 店内のざわめきが遠のき、レールを踏みつけて走る車輪の音が聞こえる気がした。あの夜感じた焦燥感が、えずくように胸の奥から湧き上がってくる。

「でも駅員室で、お前は嘘をついた。だから余計に気になったんだ。俺はあの時、死にたいなんて一ミリも考えてなかったよ。でもお前は、俺が自殺するんだと思ったんだよな? なんで、そんな風に思ったのか、聞いてみたくなったんだ」

 店員がハイボールのジョッキを運んできた。田村はその一つを雄太郎の前に差し出し、「飲みに誘うには、十分な理由だろ?」と笑った。

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