第一章 | 昭和四十三年九月 | 幸治

 その夏は、田村幸治にとってもっとも長く暑い夏となった。

 九月に入ったばかりの泥のような蒸し暑さの中、煤けた廊下を急ぎ足で抜けて、仲間たちの詰めている西門へ向かう。かつては活気に溢れていたキャンパスも、今ではそこここに熱気と殺気が渦巻いていて、戦場のような有様と化していた。陽炎の立つ西門は幾重にもバリケードが組まれ、埃と煙草の煙の中で揺らいでいる。思わず顔をしかめると、目深にかぶったヘルメットの下、眉間を伝って汗が流れてくる。


 もともと幸治は社会主義に心酔していたわけではない。この先の見えない争いに参加している学生のほとんどと同じく、ただ反体制といきがって暴力に酔い痴れるまま加担しただけだった。それによって失うものの意味を考えようともせずに。

 汗にまみれたTシャツに、アナーキストを気取って黒く塗ったヘルメット。ここに詰めている仲間たちの顔はまだ若い。なかには、思想に溺れ理想だけを宿した目をきらきらと輝かせる者もいるが、大半は、幸治のように疲れ果てて生気のない目をしている。それでも、今日一段とこの場の緊張感が高まっているのは、昨日学生の一人が投げつけたコンクリート片で、機動隊の一人が大怪我を負ったことによるものだった。


 ひときわ大柄な幸治は、その体格による威圧感からバリケードの前線に配置されがちだったが、柔和な目が物語るように、相手を傷つけることを好まず、ただ仲間を守ることを自分の任務と思っていた。特に今隣にいる雄介だけは、必ず守ることを。

 なぜそう思うかわからないが、日に日に強くなるその思いに、幸治はそれが自分に課せられた使命だと自覚するようになっていた。


「おい、今日はやけに機動隊の数が多くないか」

 誰かの不安げな声に、バリケードの隙間から外を覗くと、紺色の重装備で身を固めた機動隊員が列をなしてこちらを睨んでいる。確かに昨日の倍ちかく人数が増えているようだ。

「やつら、昨日の復讐のつもりだぜ」

「面白ぇ。返り討ちにしてやろうぜ」

 口々に気勢が上がるが、その興奮した声色もどこか不安を隠しきれない。

 張りつめた空気がにわかに凝縮していく中、場違いなほどのんびりした雄介の声が後方から聞こえた。いつの間にか隊列の後ろに移動していたらしい。

「なぁ、幸治、ちょっとこっちに……」


 そのときだった。昼日中の陽炎を切り割いて閃光が走り、爆音が響く。前線で始まった小競り合いは、ちり紙に火をつけたように一気に燃え広がり、人波の中で拮抗する。思うように動かない体を捩り、怒声と悲鳴の坩堝をかき分け、幸治はひたすら雄介の姿を探した。

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