レールの果て

智信

序章 |  平成十四年四月  | 雄太郎

 一説によると、既視感はストレスが原因らしいが、そう言われればその日たしかに、八木雄太郎はストレスフルな一日を過ごしていた。前日、部下が犯したミスで、午前中に粘着質な顧客から、嫌味しか感じられない長いメールをもらい、それが原因で上司に呼び出され、席を外している間に、同じ部下がさらなるミスを生み、粘着質は灯油のごとく炎上した。その謝罪と対応で、その日に片付ける予定だった事務処理がすべて後回しになり、気がつけばランチも休憩も取れないまま、就業時間を過ぎていた。

 喫煙所でタバコを吸いながら、気晴らしにつけたワンセグでは、半年前に起こったアメリカ同時多発テロの被害者家族が、涙ながらにインタビューに応えていた。可哀想だとは思いながら、続けて見る気にはなれず携帯を閉じた。


 人気もまばらな地下鉄のホームに立った時、だから雄太郎は胸いっぱいに、黒々としたストレスを抱えていた。降車駅の階段に近い位置までホームを移動しながら、せめてどこかで酒でも飲んでから帰ろうかと考えていた。このまま真っ直ぐ一人暮らしのアパートに帰ったら、部屋で大きな声を上げてしまいそうだった。

 ホームの端のほうまで来た時、一人の男が電車待ちしているのが見えた。雄太郎より少し年配、三十後半あたりに見える大柄なその男は、まだ四月だというのに、半袖の白シャツだけで上着も持っていない。右頬から顎にかけて、大きな古傷の跡があり、それを庇うように無精髭が覆っている。薄暗い蛍光灯に照らされ、俯き加減に鈍色のレールを見つめているその横顔は、放心しているようにも、疲れきっているようにも見えた。きっと今の自分も似たような顔をしているのだろうと自嘲しかけた時、思いがけず「それ」がきた。

 今まで経験したことのない、圧倒的な既視感だった。目の前の風景と、記憶の中のイメージが、まるでかつての製版フィルムのように、重なり合ってリアルな像を結ぶ。通過を告げるホームアナウンス。蛍光灯の点滅。動かない男の眼差し。沈滞した空気を動かしながら入ってくる地下鉄の音。水に落とした墨のように広がる絶望と焦燥。そして、抗いがたい激情。この場面を知っている。この感情を知っている。

 でも、いつ? どこで?

 そう思った時にはすでに、鞄を放り出し、ダッシュで走り出していた。ホーム端に立つ男をサイドタックルで倒し、床に組み伏す。雄太郎の下で男が何かを叫んでいたようだが、通過する電車の音で聞き取れない。まるで心臓が耳に移動したかのように、自分の鼓動ばかりがやけに近く大きく聞こえる。向こうから駅員が走ってくる。雄太郎は、自分をこの「奇行」へと駆り立てた、衝動の源がいったい何なのか、まだ分からずにいた。

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