第7話:投資研究会の仲間入り
その後、平田浩一が投資の仕方や情報の入手先、投資の勉強の資料を数多く、メールで送ってきてくれ、毎晩、勉強するようにした。三菱地所での営業活動も先輩動向訪問から、1人で、お客様を訪問するようになったがいまだに5戸のマンションしか売れてない。今年になり、やっと6月に1戸の9月に2戸の販売契約をとれた。12月の続けざまに2戸、合計3戸を売り、少しずつ、お客様との話から、相手の要望を聞けるようになった。やがて1992年を迎えた。山下健一が平田浩一に2百万円できたので、返すと言い、平田の口座に2百万円を送金し、借金を200万円に減らした。
1992年も、昨年同様に足で1人でも多くの顔なじみの人を増やす事を重点に活動した。東神奈川、菊名から橫浜の東横線沿線、川崎から橫浜の京急線沿線を歩いて、東神奈川の海岸部分のヨコハマポート・ロアの入居希望者を捜し歩いたが、7千万円以上と価格が高いので、なかなか話に乗ってくれる人が見つからなかった。景気の方も1990年以降、良くない。売れるのは、東戸塚、戸塚、橫浜線、東横線沿線の中古マンション探しばかりで、7月迄に4戸の販売ができた。
そんな、夏の寝苦しい1982年8月18日の夜に平田浩一から電話でコード6758のソニー株を入れて、2500株を3460円で指値買い注文を入れろと言われ了解し、翌日、会社に出かける前にN証券に買いの注文を入れた。その晩、山下のメールに買えたとメールが入っていた。865万円で買い口座残高が135万円になった。
不動産の仕事の方は9月迄に6戸、12月に遂に8戸、年末に1戸で合計9戸の契約が取れ、1993年を迎えた。1993年に入りヨコハマポートサイド ロア壱番館のポスターを三菱地所の橫浜営業所の前に貼り、人目につくようにして宣伝したが問い合わせする人が、ほとんどなく不景気風が吹いていた。それでも横浜エリア初の湾岸高層マンションと言うこともあって不動産業界をあげての販売合戦を行った。
売れたという話がなかなか聞こえてこなかった。1993年9月、発売半年前の最初の内覧、即売会が行われ、来場客は多かったが、売れたという話が出てこなかった。1993年に山下健一が平田浩一に電話をして借りていた2百万円を返還すると告げて翌日、平田の口座に2百万円振り込んで借金は無くなった。そうして1993年が終わり1994年となった、
1994年の新春内覧即売会でも景気の良い声がなく、静まりかえっていた。そんな寒い1月31日の夜に平田浩一から電話でソニー株の全株を6400円で指値売り注文を入れろと言われ了解し、翌日、出勤前にN証券に売りの注文を入れた。その晩、帰ってみると売れたとメールが入り税引き後利益が580万円で残高が1580万円となっていた。
そして遂に1994年3月の完成披露、内覧、即売会が始まり景気づけに獅子舞も出たが、心なしか獅子舞の目も沈んでいる様に見えたのだった。それでも、三菱地所、三井不動産、住友不動産、東急不動産、野村不動産など大手不動産会社では、購入の内諾をもたっら先があったらしく、10戸程度が売れたという情報も入り山下の三菱地所でも3戸を販売したと報告があった。その後も販売戸数の伸びは小さく様で、全社で苦戦していた。そうして1994年が終わり、1995年を迎えた。
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