「死にたい」を整理する

 死にたい理由を問えば、大体において「苦難から解放されたいから」というような答えが返ってくると思う。つまり、苦難からの解放が目的であって、死は手段ということになる。マーケティング的に言えば、「穴が欲しいのであって、ドリルが欲しいのではない」。死ぬ方法は豊富にあるので、ドリルが入手困難なわけではない。ではなぜ死なないかを問えば、「死そのものへの恐怖と、痛みへの恐怖」が挙げられると思う。これはドリルの比喩では「ドリル自体も怖いし、ドリルで怪我するのも怖い」ということだろう。この客が欲しいのはドリルではなく穴であって、しかもドリルも手に入れるつもりは無い。つまり、正確に言えば「死にたい」わけではない。ただしこれは例であって、本当に単純に死にたい欲求を持っている人の存在を否定するものではない。


 死そのものへの恐怖を克服し、痛みもなく安全に死ねるとしても、僕はまだ自殺を恐れるだろう。萩原朔太郎は「自殺の恐ろしさ」の中で、自殺を実行中に死が避けられない段階で「死を選ぶべきでなかつた。世界は明るく、前途は希望に輝やいて居る」と悟ってしまうことが恐ろしいと語っている。また、死後の主観がどうなるかは立証されてないので、かなりの博打になることが怖い。ピーターパンは「死ぬのは、とてつもない大きな冒険だ」と言ったが、僕は冒険家でも博徒でもない。


 「死後に主観は無い」という考え方もあるとは思うが、これを立証するのは難しい。消極的事実の立証困難性として知られるように「それが無いことを証明する」こと自体が難しいこともあるが、もう少し細かく書く。哲学的ゾンビが未だに否定されていないように、主観の存在がまず証明できていない。神経科学は「物理的な現象」と「主観として計測(報告)される事柄」を関連付けることに成功しているが、主観と「主観として計測(報告)される事柄」が等価であることは保証されない。また、死後は「主観として計測(報告)される事柄」を得ることができないので、知見が一切無い。これらの理由から、死後の主観がどうなるかは立証されてないと考えられる。

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