第15話 鏡の向こうで

 わたしを支えるために傘を手放した慶吾くんをも濡らして、雨はまだ降り続いている。


 たぶん、薄々わかっていたんだと思う。慶吾けいごくんが帰って来た時点で、もういろんなことが変わってしまうこと。目を背けていた……気付かずにいようと思っていたことに、向き合わなくちゃいけなくなること。


 傘に当たる雨音が、ちょっとずつ感覚を麻痺させてくる。服越しに感じる慶吾くんの温かさが、認めてしまえと囁きかけてくる。


 わたしは、慶吾くんのことが好きだった。近所のお兄さんとしてではなく、ひとりの男の人として。

 ……そう、思っていた。

 けど、わかってしまったんだ。

 なんかじゃなかった、ってことを、もうわかってしまうしかなくなってしまった。どうにかわたしを立たせてくれて、なにか言葉をかけてくれている慶吾くんを見つめているうちに、お腹の奥が締め付けられたみたいになる。


「……光莉ひかりちゃん? まだ立ってるのつらい?」

「――――――、」


 その言葉に、どう答えたらいいのか、少し迷った。

 まだちょっと頭はぼんやりしているけど、それは別に慶吾くんが心配してくれているような理由じゃない。わたしの体調は悪いわけじゃないし、むしろ慶吾くんをこうやって見つめている方が、もっと心が千々に乱れてしまうような気さえしている。

 足下が覚束ないような感覚もないし、たぶん気持ちだって落ち着いてきている。そのうえで、思ってしまう。


 あぁ、好きだな、って。

 わたしは、今でもまだ、ひょっとしたらあの頃から変わらずずっと、慶吾くんのことが、好きなんだ、って。

「慶吾くん」

「なに、光莉ちゃん?」

「これから家、行ってもいい?」

「――――、」

 なんで、と吐息に混ぜられた声が聞こえないくらい弱々しくて、きっとわたしはまた、慶吾くんを苦しめているんだろうな、と思い知らされる。悲しそうな瞳をする慶吾くんを、わたしは正面から見つめ返す。

 今度は目を逸らしたくなかった。わたしがしていることから、わたし自身の気持ちから。

「なんで……そんなことを……? 駄目だ、光莉ちゃん、1回落ち着いて考えようよ。たぶん、今うちに上げたら、僕は光莉ちゃんを傷つけることになる。そんなことは、したくない」

「怖いの?」

「…………っ!」

「傷付いても別にいいよ、って言っても、慶吾くんは……怖いの?」

 そう言ったときの慶吾くんは、すごくつらそうに見えた。必死に何かを噛み潰しているのは目に見えてわかったけど、それがいったいどんな言葉をこらえているものなのかは、どうしてもわからなくて。

 何秒か、それとも1分くらい?

 鼓動と地面に当たる雨の音がうるさくなっていく沈黙のあと、ようやく慶吾くんが返してくれた答えは、「もう帰ろう?」という、泣きそうな顔と優しい声だった。

 その顔と声はとても弱々しくて、今にも崩れてしまいそうなほど脆い何かが見えるような気がして、もうそれ以上何も言うことができなかった。


 それから帰るまでの数分間、慶吾くんは何も言ってくれなかった。わたしのことを怒ったってよかったはずなのに、それすらせずに、ただ黙ってわたしの隣にいるだけ。

 けど静かな分、だんだん勢いを強めている雨が慶吾くんの心の叫び声のように思えて胸が苦しくなって、きっとこの苦しさは慶吾くんが感じているものなのかも知れないとか、そんなことを考えて。


「それじゃあ、濡れちゃったし、風邪ひかないようにしっかりあったまりなよ?」

 意識してかけられた優しい言葉のぎこちなさに、また胸が苦しくなった。わたしもぎこちない感謝の言葉を返して、ドアの鍵を閉めて、溜息をつく。

 暗い家のなか。お母さんはまだ仕事から帰っていないみたいだったから、お風呂のお湯をいれて、先に入ってしまうことにした。


 脱衣所で服を脱いで、ふと鏡を見る。

 そこには、大人の女の人とそんなに違いがなくなってきている身体が写っている。いつまでも子どものままでいられないんだということを語り聞かせるような身体はどこか醜く見えて、それを見つめるわたしは、なんだかひどい顔をしていた。


「わたし、何してるんだろう……?」


 おんなじ顔をしていて、わたしの気持ちだってわかっているはずの鏡像はそんなわたしの言葉に対して、わたしと同じように涙を滲ませることしかしてくれなかった。

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