第14話 隠れて、見えない

 振り続ける雨は、どんどんセーターの袖に染みてくる。冷たくて早く離してしまいたくなるのに、どうしてだろう、わたしの手は、慶吾けいごくんの上着の裾から離れなかった。

 苦しかった、置いていかれるのが苦しくて、怖くて、寂しくて、どうしようもなく不安で。


 ひとりはいやだよ。

 思わず伸ばしていた。

 引き留めてしまっていた。


「――――――、」

 慶吾くんが、戸惑ったように息を漏らしているのがわかった。わたしだって、自分がどうしてこんなことをしたのかわかってないんだから、仕方ない。

 けど、どうしても伸ばさずにはいられなかった。

 傘を叩く雨の音でも消せないくらい、心臓が騒いでいる。何か言わなきゃって思うのに、身体の中に空気が入って来ない。息苦しくて、何か言葉を話すよりも、どうにか息をするので精一杯だった。そんなわたしを、慶吾くんは待ってくれる。それが嬉しくて、苦しくて、だから焦ってしまう。

 顔を合わせるのが怖かったのに、今はこんなにも、離れてしまうかも知れないことが苦しい。


「あの……光莉ひかりちゃん、手が濡れてるよ」

 沈黙の苦しさに耐えきれなくなったみたいに、慶吾くんが呼びかけてくる。

 わかってるよ、そんなこと。

 けど、どうしたらいいの?

 前に進むことも、怖いことを避けて通ることも、後ろに下がることも、何が正しいのかわからない。どうしたら、嫌なこともないままでいられるの? どうして、みんなどんどん変わっていってしまうの?

 降ってくる雨の行方よりも、わたし自身が不確かなものに思えてしまう。

 慶吾くんには、ずっとお兄さんのままでいてほしかった。

 その気持ちにも嘘はないのに、どこか白々しい。


――だったら、そういうことなんじゃない?

 

 心のどこかから聞こえてくる、誘惑するような声音。そんなわけない、違う、違う、そうじゃない、そういうんじゃない、そういう意味の気持ちじゃない、そういう意味になっちゃいけない……っ!

 息がもっと苦しくなって、目の前が暗くなって、頭がクラクラしてきて。

 足下が覚束なくなってくる。ふっ、と身体が軽くなるような感覚があった。軽いのに、全然自分の思う通りに動いてくれなくて――――


「――、光莉ちゃん!?」

「――――ぁ、」


 慌てたように支えてくれた慶吾くんの腕は、わたしが覚えている数年前よりもずっとたくましくなっていた。こっちに戻ってきてからも、そんな風に見えなかったのに、あれ……? そっか、ずいぶん、大人の人……ううん、大人というよりも……。

「大丈夫、光莉ちゃん!? 光莉ちゃん、光莉ちゃん!」


 あぁ、だめ。

 もう全然、大丈夫なんかじゃなくなっちゃった。

 1度そう意識したら、もう戻れなくなってしまいそう。

 必死に呼んでくれる低い声も、ここを出て行く前より少し骨張ったように見える顔の輪郭も、学校の男子――翔平も含めて――からするのとはちょっとだけ違う匂いも、その全部に、慶吾くんが大人の男の人なんだな、と実感してしまう。

 わかってたつもりだった、もうあの頃とは違う。

 けど、ちゃんとはわかってなかった。慶吾くんはあの頃の慶吾くんで、わたしもあの頃と変わらないままで接することができる、って思い込んでた。思い込もうとしていた。

 もう、そんなことできないくらいになってしまっていたのに。


 たぶん、帰って来た慶吾くんに会って、昔との違いに気付いてしまったときから、わたしも昔のわたしじゃなくなってしまっていたんだと思う。


「あの、光莉ちゃん……?」

「――――、え、えっと、」

 どうしよう、なんて言おう?

 ……なんてすごく白々しい。

 心配そうに覗いてくる慶吾くんの瞳に映るわたしは、身体を支えてくれている彼の腕の中で、……直視したくないくらいにだった。


 

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