第13話 まっくろに、とける

光莉ひかり!!」


 聞こえてきた、1番聞きたくなかった声。どうして――なんて訊くまでもない。だって、翔平しょうへいは何度もうちに来たことがある。わたしも翔平の家に行ったことはあるけど、うちの方が周りに遊べる場所が多いっていう理由で、会うのはわたしの家の方が多かった。

 何度も、こっちまで来たことはあった。

 

 だから、もしかしたら。

 もしかしたら、普段と様子の違うわたしを見にこっちまで来る可能性だって、考えてみればないわけじゃなかった。でも、来るわけないって思ってた。

 だって、もう……違うんでしょ?

 わたしは、翔平にとってもうなんの関係もないよね、翔平のこと、もう前みたいに想えないよ。なのに、どうしてこんなに苦しくなるの……? わかんなくなる、もう、自分の気持ちさえはっきりしなくなってくる。


 早くどこか行ってよ。


 そんな言葉が喉元まで出かかったけど、口の中に引っ掛かったみたいになって出て来なかった。もうどこかに行ってほしいのに、この場から立ち去ってほしいのに、全部拒絶してしまいたいのに、どうしてもできなかった。だから、翔平もずっとわたしと慶吾けいごくんのそばにいる。きっと、わたしが「大丈夫だからどこか行って」とか言えばどこかに行くかもしれないのに……。

 けど、それを口に出すのが怖かった。

 これ以上、わたしたちのいる場所を揺らしたくなかった。だって、揺れるとまた苦しくなる。今だって苦しいけど、たぶん、もっと。逃げ出したいくらいに、それでも逃げられなくなるくらいに、苦しくなってしまうから。


 だから、わたしは何も言いたくない。

 でも、そういう気持ちは伝わってくれない。伝わらなくていいようなことはたくさん伝わってしまうのに、どうしてこういう伝わってほしいことは伝わってくれないんだろう?

 そういうところが我慢できなくなってしまっていたのに、どうしてわたしは翔平を拒むことを考えると苦しくなってしまうんだろう?

 もがく手足も出せなくなってしまうような沈黙を破ったのは、慶吾くんだった。

「あの……、どうかしましたか?」

「――――、」

 慶吾くんがそう声をかけたときに思わずひるんだような息を漏らしてしまったのは、たぶん翔平だけじゃない。わたしも……初めて聞くような声。


 慶吾くんは、わたしが虐められたりとかしたときには怒ってくれた。仲裁に入ったりしたせいで慶吾くんまでひどい言われ方をしたりすることもあったのに、それでもわたしを庇うのをやめずに、わたしを守ってくれていた。

 そのときの慶吾くんからは優しさみたいなものを感じていた。わたしだけじゃなく、たぶんいろんな人に対して優しいからこその怒りなんだろうな……って。そんなことを思っていた。

 けど、今は――少し怖かった。

 いつも通りの顔をしているはずの慶吾くんの話し方が、慶吾くんから出ているんだってすぐには信じられないくらい、厳しかった。こんな険しい声の慶吾くんなんて、知らないっていうくらい。


「あのさ、俺言いたいことがあって、」

「今ちょっと話をしてるんだ、待ってもらってもいいかな?」


 雨が降っている重苦しい空の下だから?

 今にも落ちてきそうな雨空の下だから?

 慶吾くんの声が、すごく怖く聞こえた。

 目の前にいる相手を押し潰すような声。

 そんなの、慶吾くんから聞きたくない。


 たぶん、慶吾くんにはわかってるんだ。

 翔平がわたしの彼氏だっていうことを。

 わたしが泣きながら愚痴を言った彼氏。

 慶吾くんの気持ちを押した、きっかけ。


 慶吾くんは、今までにないくらい怒っているんだ、きっと。

 怒っているというより、もっと違う感情が見えたような気がした。それはきっと、慶吾くんからは見たくなかったものだった。わたしの中で慶吾くんはもっと特別で、どこか別の世界の人みたいで……。

 誰かに対して、わたしみたいに誰かを庇うとかじゃない、何も混ざらない敵意を向けるような人じゃないって、心のどこかで思ってしまっていたから。

 だから、わたしは。


「もしかして君が光莉ちゃんの、」

「いいよ。もういいよ、慶吾くん、やめて……、もうやめてよ」


 泣きそうになりながら、彼を止めるしかなかった。唖然とした様子の翔平にも「わたしはいいから、帰ってて」と言うことしかできなかった。翔平はどんな顔をしてわたしを見ていたのだろう? それも見ることができないまま、ただ翔平がいなくなるまで待つことしかできなかった。

 雨が降る景色のなかを遠ざかる翔平に、未練じみたものはないはずだった。それなのに、どこかへ去っていく翔平を見ていると胸が痛くて。


 もう、わからない。

 自分の気持ちに正直に、とかよく言うけど。そんなことだけ言われて放り出されたって苦しいだけ。


「ごめん、光莉ちゃん。我慢できなかったんだ、どうしても」

「ううん……、わたしも、ごめん……」


 きっと、わたしが悪いんだ。

 慶吾くんのことがこんなに怖く見えたのも、翔平のことで胸がざわつくのも、結局誰のなかにも嫌な気持ちばかりが積もってしまうように感じるのも。

 足下から水に浸かっていくみたいに、身動きがとれなくなっていく感覚。

 誰か……、誰か……。


「光莉ちゃんの気持ちなんだし、僕がどうこうするものじゃないもんね。だから、光莉ちゃんの気持ちが落ち着くまで、無理して焦らなくてもいいから」

「――――――っ、」


 京香きょうかの言葉が、不意に重なる。


『大丈夫だよ、光莉。光莉が話せるタイミングで話してくれたらいいからさ』


 ……やめてよ。

 なんでみんなそんなこと言うの?

 そんな風に、突き放さないでよ。

 自力で浮かび上がれるほど、わたしは強くないよ。

 引っ張り上げてよ、強引にだっていいから。


「送っていくよ」

 そう言って背を向けた慶吾くんの上着の黒いすそが離れていくのを、思わず掴んでしまう。

 立ち止まった慶吾くんの震える吐息と、わたしの袖を濡らして徐々に染みて広がっていく雨粒の冷たさ。冷たいのに、はずみで踏み出した足からよくわからない熱が込み上げてくるような気がした。

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