第8話 春から冬へ

翔平しょうへい……、どうかしたの?」

「いや……」


 そう返事をして渡り廊下に出てきた翔平は、「寒っ!」と声を出してわたしのそばに近付いてきた。それから、当たり前のようにわたしの手を握ってきた。


「わぁ、冷た。ねぇ光莉ひかり、教室戻んねぇ?」

「別にいいよ、わたしこういうとこ好きだし」


 直接『翔平は戻ってれば?』と言わなかったのは、たぶんわたしのなかでまだなんの結論も出ていないから。何がになってしまうかわからないから、答えの出ないうちは何もしたくなかった。

「どうしたの? いつも寒いって言って渡り廊下ここ来たがらないのに」

 だから、わたしがしたことといえばそんなことを訊くのくらい。ただ、翔平はいつも部屋とかお風呂とかを、一緒にいると汗ばんでしまうくらいの温度に設定している。そんな彼が、まだ冷たい風の吹く渡り廊下に来ることなんてないと思っていたから、ちょっと不思議になった。

 現に今だって、ちょっと寒そうに震えている。普段なら誘ったって来てくれない彼にしては、珍しいことだった。


「ん、なんかさ……、今日様子おかしかったじゃん? ぼーっとしてたっていうか」

「えっ、やっぱりそうだった?」

「当たり前だよ、だって俺どんだけ光莉のこと見てると思ってんの? 黒板見てるよりずっと楽しいし、幸せになるし」

「なに言ってんの……」

「だから、今日どうしたのかな、って思ってさ」


 不意に、握られた手に力が込められるのを感じた。どこか緊張したようなその様子に、空気までも春から冬に戻ったみたいに強張こわばったような気がしたのは、わたし自身がそうだから? なんとなくその変化に対する心の準備ができていなかったわたしにかまうことなく、翔平は口を開いた。


「昨日さ、せっかく会えるかもってなってたのに、会えなかったじゃん」

「――――――っ、」


 胸が、ぎゅっ、と掴まれたみたいに苦しくなる。やめてよ、その話はしたくないよ。握る力を強めたそれを伝えようとしたけど、翔平は気付いてくれない。そのまま、話を続けられてしまう。


「俺も、できれば会いたかったんだけどさ。でも、部活の練習はやっぱり出とかないとまずいっていうか……」


 その言葉が、聞こえなければよかったのかも知れない。

 翔平がわたしの細かいところを察してくれないのはいつものことだから、まだ我慢していられたかもしれないのに。そのことだけは、言ってほしくなかった。

「昨日って、どういうメニューの練習だったの?」

「えっと、昨日はさ……」

 そうやって口ごもるところに、引っ掛かる。

 どうしてすぐに答えられないの? 思わずそう訊きたくなってしまう。

 答えられるはずがないよね、という嫌な言葉が喉の手前まで出てくる。

 きっとわたしは今、翔平から出てくるどんな言葉も受け入れられない。

 だって、そうやって考えてる時点で本当の言葉は出てこないでしょう?


「昨日は、さ……、昨日は……」

「部活じゃなかったんじゃないの?」

「――へ?」

「昨日、部活の練習じゃなかったんじゃないの?」


 あぁあ、言っちゃった。

 わかってたよ、こんな風に気まずくなるよね。

 だけど、どうしても我慢できなくなってしまった。それで思わず口を挟んでしまってから、わたしはようやく自覚した。


 わたしは、昨日久しぶりにふたりで会うってことになって、たぶんそれなりに楽しみにしていたんだ。確かに惰性で付き合っているようなところがあった。夏休み中みたいにいつでも一緒にいたいとか、全部知りたいし全部知ってほしいとかそんなことはもう思わない。

 けど、誘っても会えなかったり、予定が合わなくて一緒に帰れなかったりするのが残念じゃないわけではなかった。なんだかんだ言ったって、全然好きじゃなかったら関係を続けてなんていられなかったと思う。


「わたしさ、昨日……ちょっと待ってから駅前に行ったんだよね」

「……うん」

「あの辺ってさ、外からけっこうちゃんと見える場所にプリ機あるゲーセンあるでしょ」

「…………」


 そこまで言ったところで、翔平は黙り込んでしまった。もう、わたしが何を言おうとしているのか、何を見たのか、わかったに違いない。さっきまでわたしの気分に構わず話を続けたりしていたのが嘘みたいに、静かだ。

 握られた手にも、じっとりと汗がにじんでくるのがわかる。


 どちらからなのかはわからない。けど、ぎゅっ、と握られていた手は、いつの間にか離れていた。


 汗ばんでいた手のひらに、渡り廊下を吹き渡る風が冷たかった。

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