第6話 まっくら、まっくろ

「――だめっ!」

 怖くて、怖くて、どうしようもなくなって。強く力を入れたら、慶吾けいごくんの腕は思ったより簡単に振りほどけた。振り返ると、慶吾くんは呆然とした様子で自分の手を見つめていた。なにか、すごく怖いものを見ているみたい。


「ぁ、あ――、」

 しゃべる言葉を忘れてしまったみたいにボーっとした顔の慶吾くんが、何かを言おうとしているのはわかった。でも、怖かった。


 何を言おうとしてるんだろう?

 どんなことを言われるんだろう?

 嫌なことを言われるかもしれない。

 今までのとは程遠いことを、言われてしまうかも。


 そう思ったら、とても言葉を待っていられなかった。動揺したように目を見開いて、今にも泣き出しそうに見えたけれど、もうそんな慶吾くんに何かを言う気持ちになんてなれなくて、逃げるように慶吾くんの家から飛び出した。

 気持ちを落ち着けるにはあまりにも短すぎる帰り道を、できるだけゆっくり歩きながら、そっと家のドアを開ける。

「ただいま」

「おかえりー、あっ、ちょうどお風呂空いたけど、入っちゃう?」

「うん、入る」

 リビングから、いつもと変わらないお母さんの声が聞こえてくる。もしかしたら、ちょっと変に思われたかも知れない。お母さんは昔から、『光莉ひかりって何かあると喋り方に出るからすぐにわかっちゃうんだよね~』と明るい声で言っているから。


 だから、何かを訊かれたりする前にお風呂に入ってしまうことにした。

 今は、とにかくひとりになりたかった。何も言われず、何も言わず、ほんとにひとりっきり。たぶん、いま誰かの顔を見たりしたら、本格的におかしくなる。


 湯船にかって、照明の柔らかくて暖かい色に染まった天井を見つめる。それから、ちょっと身じろぎするたびにゆら、と波のできる水面。


『僕なら、そんな風に無理させないようにする』


 水面の波紋から響いてくるように、慶吾くんの声が頭のなかで甦ってくる。あんな風に想われてたんだ――そう思ったわたしの胸に訪れるのは、自分自身でもよくわからない感情だった。


 怖いだけならよかった。

 悲しいだけならよかった。

 寂しいだけならよかった。


 そういう嫌な気持ちだけだったら、わたしだってちゃんとこの気持ちに答えを見つけられるのに。そこから目を背けなきゃいけない。じゃなきゃ、わたしは本当に自分がわからなくなる。

 とにかく、苦しかった。

 小さいトゲみたいなものでチクチクと胸を突かれているような気分。心の中のどこかが、警鐘を鳴らしていたのかも知れない。


『僕なら、そんな風に光莉ちゃんを不安にさせたりしない』

 これ以上は、思い出さない方がいい。


『あんな風に泣かせたりしない』

 だめだ、考えちゃ、だめ。


 どこかに飛んで行ってしまいそうな心をどこかに沈めてしまいたくて、頭ごと湯船に沈める。鼻に水が入ったときのちょっとだけツン、とする感覚と、熱いお湯の中に顔を沈めている息苦しさで、紛らわせられたらよかったのに。

 ちょっとして本当に苦しくなって、水面に顔を上げてしまう。かなり大きな音がしたからか、お母さんが『ちょっと長いんじゃない? 大丈夫?』と脱衣所の入口から声をかけてきた。


「うん、へーき!」

『そう? 熱めにしてあるから、あんまり浸かってるとのぼせちゃうよ?』


 安心するくらいいつも通りの声だけ残して、お母さんはまたどこかへ行った。その足音を聞きながら、急に現実に引き戻されたような気分の中でお風呂から上がることにした。

「はぁ……」

 考えても、答えが出ない。

 ほんとに、今更……。もうあの頃のような気持ちはないけど、どうしよう、こんなにも苦しいのに。


 髪を乾かそうとドライヤーを前に鏡の前に立ったわたしの口元は、ちょっとだけゆるんでいた。

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