第10話 惑いし者、影を追う
咄嗟に顔面を庇った私の手首を、明らかに人間の物と思われる手が掴んだ。
「いやっ」
私が手を振りほどくと、影はひるんだように後ずさった。私は弾かれたように駆け出すと、ビルの通用口を背にした。ほんの数メートルの所に蹲っている影は獣のように四つん這いではあったが、そのシルエットは紛れもなく人間のそれだった。
「ううう……」
影は低く唸ると、光る目をこちらに向けた。獣ではない。かといってまともな人間でもない。出逢ったことのない恐怖が私の背筋を駆け上った。
「……があっ」
影が吠え、跳躍した。私は姿勢を低くすると、影の鼻先目がけてポーチを投げつけた。
「ぎゃっ」
影がひるんだことを確かめると、私は身を翻して通用口から再び建物の中に飛び込んだ。
薄い扉越しに聞こえてくる唸り声が消えるまで、私は暗い廊下で息を潜め続けた。
やがて耳が痛くなるような静寂があたりを支配し、私はそっと通用口から外に出た。
――まだ、その辺にいるのではないだろうか。
私は携帯の灯りだけを頼りに、そろそろと歩を進めていった。やがて表通りから漏れる光りで周囲が明るくなり、不穏な影が去ったことがわかった。私はふらふらとさまようように往来に戻ると、いつもの倍の速さになっていた鼓動を宥めた。
駅はどっちだったろう、そう思いながら近くの交差点に向かって進んで行くと、斜向かいのコンビニの前にたたずむ人影に目が吸い寄せられた。ひょろりと細いシルエットは、どこか疲れ切ってるようにも見えた。
――ケン坊?
私は駆け出し、押しボタン式の信号機が変わるのを待った。人影はふらりとコンビニの前を離れると、そのまま角を曲がって薄暗い路地へと吸い込まれていった。
――待って、ケン坊!
信号が変わるのももどかしく交差点を早足で渡ると、私は人影の消えた路地を一心に目指した。暗がりの奥に汚れたアロハらしき背がかすかに見えたと思った直後、人影はまたも向きを変え、さらに細い裏道へと入りこんでいった。
――一体どこに行くの、ケン坊?
再び速まった鼓動を持て余しながら人影の消えた角にたどり着いた、その時だった。
「ぎゃああっ」
闇の奥で、男性の物と思しき悲鳴がこだました。私は恐怖を呑みこんで声のした方に走った。少し走ると前方に黒い影が横たわっているのが見え、私は徐々に歩調を緩めた。
「ううう……」
私が近づくと黒い影は身体を起こし、荒い息をしながら地面に這いつくばった。
「誰か……誰か警察を……獣みたいな奴がいきなり……」
人影は、中年の男性らしかった。シャツの袖が破れ、二の腕に血が滲んでいた。
「大丈夫ですか?」
私が声をかけると男性は安心したのか、近くの電柱に凭れるような形でしゃがみこんだ。
「私はこういう者です。……今、助けを呼ぶのでじっとしていて下さい」
私は手帳を見せると、携帯で最寄りの警察署に通報した。ほどなくサイレンの音が聞こえ、曲がり角に赤い回転灯が見えた。
「どうしました」
近づいてき若い警官は私が手帳を示すと一瞬、目を瞬かせた。
「何かの事件ですか」
うわずった口調で問い質す警官に、私は首を振り、肩をすくめてみせた。
「いいえ、偶然、通りかかっただけよ。私が知っていることと言えば、誰かに襲われたらしいことくらい……」
そこまで口にして、私は押し黙った。その少し前に同僚とよく似た男性がこの路地に入ったこと……だ。だがそれを口にするのはなぜかためらわれた。
「わかりました。後でまたお話をうかがいます」
若い警官は一礼すると、ぐったりとしゃがみこんでいる男性の方に近づいていった。
私は今、この場でどこまで話すべきかを考え始めていた。確かに興味深い話はいくつか耳にしている。が、現状では事件性があるのかないのかわからない断片ばかりだった。
――ケン坊。これというのも、あなたが思わせぶりな足跡ばかり残すからよ。
私は闇の中にひょろりとしたシルエットを思い描くと、胸に秘めた鬱憤をぶちまけた。
〈第十一回に続く〉
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