第7話 吐き出す土曜日
あっさりと負けてしまった秋和は戦いが終わってからもしばらく、その場にぺたん、と座り込んでいた。泣きもせず、嘆きもせず、ただ呆然と座り込んで。
「悪いことしちゃった」
悪びれていなさそうに明るく、背後から積雲に声を掛けられた。
「今のは“晴れ”の人格か?」
「あれ、すごい何で分かったの?」
いや、テンション高いから。積雲のテンション高い所なんて、“晴れ”以外にまだ知らないから。
「神様になったばかりなのに、彼女はよくやったと思うよ」
後は慣れと、戦術を磨けば完璧だよ、と軽く言う積雲。
「ラッキーだったもん、私が勝てたのなんて。彼女が私が戦略をたてる以外に歯向かう術が無いことを知らなかった、だけだから」
戦略が封じられていたら私は確実に負けてたよ、と笑いながら言う。
「だから、悪いことしちゃったなあ。ごめんね、今度プリンおごる、って言っといて」
じゃーね! と明るく言って、小走りに帰ろうとする積雲に。俺も何か言わなければ、と思わず、呼び止めてしまった。
「待て、積雲!」
「ん、どうかした?」
復讐なのに、そんなのでよかったのか。そう言いたかった。でも、鬼負も言ったけれど復讐なんてしない方がいい。そもそも積雲は、こうして見ても感慨もなさそうだったから。
結局俺は、軽く頭を振った。
「……何でプリンなんだ?」
「なんだそんなこと?」
分かりきったことでしょう、と輝かんばかりの、それこそ“晴れ”に相応しい、太陽のようなまぶしい笑顔で。
「プリンは世界を救うんだよ!」
ビシッ、と何故か人差し指を天高く突き上げるポーズをとって、スキップで積雲は帰っていった。なんつーかその、どんだけプリン好きなんだ。
「真っ先に雨月ちゃんに話しかけるなんて、いいの?」
「鬼負……秋和は今、放心状態って感じですし」
それに励ましは、俺なんかからよりも凪からしてもらいたいだろうから。そんな俺の思いもお見通しなのだろうか、“偶然”タイミングよく、鬼負のケータイがなった。オレンジ色の、ガラケー。鬼負が使うと、何だか鬼負が遠い世界の人のように思える。
事実、遠いのだけれど。女神様と人間との間は、遠い。
「ん、そうだね」
スマホをポケットにすべりこませながら、鬼負は思わせ振りなことを言う。
「これで女神様の業務は終了、明日からは私はこれまで通りだから、ビビんないでね」
からかうように俺を見て笑って、ぴっ、と片手を上げた。
「邪魔者は退散するよ、じゃあね」
「ああ……じゃあな、鬼負」
積雲が帰り、鬼負が帰り。
俺たちだけが、俺と秋和だけが屋上に残る。
「…………」
特に何を言うわけでもなく、沈黙が続く。ただ一点を見つめたまま微動だにしない秋和を視界の隅に捉える。秋和が満足するまでここにいようか、とも思ったけれど、風も強くなってきた。
少し空を見上げて、果たして今日の本当の天候は何だっただろうか、コンクリートの地面と目を合わせて言った。
「そろそろ帰るか」
「………うん」
返ってきた声は、幼いあの日の秋和のそれに、とても似ていた。
翌日、土曜日は分厚い雲が空を覆って、黒い雫を落としていた。
積雲は恥ずかしがり屋になってしまっているのだろうか、会う予定がないから分からないけれど。とにかく土曜日―――俺は凪の家に向かっていた。
ことの発端は先日の秋和の一言である。昨日は、秋和が積雲と戦って。負けた秋和は帰り道、俺に照れながらも言ったのだ。
「私このまま、凪の家に行く。行きたい。終わったら行くって、約束したし」
恋する彼らを止めるほどの野暮などするまい、傷ついた彼女を送り届け、俺はひとまず気をきかせて退散したのだ。……今考えてみれば、いくら幼馴染みだからといってこの年で異性の家に泊まるなんて暴挙が何故許されたのだろうか。母さんたちの感覚が心配になる。
「何だか、久しぶりだよな」
「昨日からそればっかりじゃんかよ、梨夢」
ともかく雑談。他にも何か言えよー、と凪にどつかれるけれど言葉が思い付かない。昨日は、まだイザコザがあったから。こうして何もないのに会って話すことが、妙に嬉しく感じられる。
「そうだ秋和、風の女神様になったんだろ? 具体的にどんなことができるんだ?」
復讐というか、戦いというか。昨日のアレを見ていない凪は興味津々、といった面持ちで目を輝かせて問う。秋和も秋和で楽しそうに笑う。
「アイオロスの力を使うんだけどね、まあ基本的には風向と風力を決めるだけだよ」
「いや何が『だけ』なんだよ、全然イレギュラーだよ」
いつもボケてる凪でさえもが驚いていた。ノロケにしか見えないのは俺だけだろうか。ああ何故だろう、早くも邪魔者のような気がしてならない。
「えっとね、このかんざしを使うの」
えい、とポニーテールのどこに差していたのだろうか、透明感溢れる小振りの、青色のかんざしをすっ、と手に取る秋和。そういえば積雲はサイコロだったな、とどうでもよく思い出す。階段の踊り場で脅されたのは、記憶に新しい。
「ウサギが付いてるでしょ、ホラ」
「おう、これがどうかしたのか?」
丸い先端からチェーンに繋がれた青のウサギ。ガラスで出来ているのだろうか、薄く精密なソレは蛍光灯越しに見たくなる。
「このかんざしを倒して、ウサギの倒れた向きで風向が。倒れるまでの時間で風力が決まるんだって!」
そんな仕組みなのか。感心する凪だけれど、俺はアレ? と頭を抱える。では昨日の、風を操り浮いたりしていたのは一体何だったのだというのか。
「梨夢、昨日のは特別だよ。負けたくないからって、力を乱用したの。要はズルに近いことしてたのよ」
まあ積雲だって天候を何もせずに変えてたし、おあいこだけど。俺の目を見て、見抜くように秋和は言う。
「すべきことを終えたし、病気も治ったし!世の中捨てたもんじゃないね!」
鬼負や凪とは違い、儚げな印象を残す秋和の笑み。確かに彼女は、復讐のために戦うことが義務で、治る見込みのない病におかされていた。五体満足に、生きていて、普通に暮らせるようになったのだから、喜ぶのも当たり前だ。
「そうかあ? まだ俺ら受験も終わってねえし……」
「凪! そんなこと言わないでよ!」
まあ事実だから仕方ないけど。二人のそんな様子を端から見ていて、何となしに思う。高校も、同じところに行けたらいいのに、と。
「あ! そういえばね、昨日メールが着て」
思い出したのか脈絡もなしに秋和はケータイを取り出す。俺がケータイを持ってないこと、まだ凪に言ってない……メルアド交換しよ!とか言われたらどうしよう。刹那、不安が頭をよぎったが、それは無駄な心配だったようで。
「受験終わったら、出雲大社に来いって言われたの……雨月も一緒に」
「出雲大社? ああ、何て言うか、さすがだな」
日本最大と謳われる出雲大社だ、きっと神様の交流の場なのだろう。
「初めて行くから緊張するんだ。ねえ二人とも、付いてきてくれない?」
秋和からのそんなワガママは初めてだと思う。出雲大社に一緒に行く、それくらいは何ともないことだろう。ワガママとも言えないな。
「ダメ?」
「行く! 付いて行くに決まってんだろ。秋和がそう言うなら」
にっ、と笑いながら言う凪に、ピクッと体を強張らせて赤面する秋和。邪魔者すぎるだろ俺。
「もちろん梨夢も来るだろ?」
勝手に決めつけるな! 凪の態度にムカついたけど付いて行く気だったから、否定しきれずにうなずいた。
これ以上ここにいれば無意識リア充からの『俺は邪魔者』感に押し潰されそうなので、早々においとまさせていただいて、雨音が傘を弾き響くのを聞きながら帰る。
ザーザー降る雨は正直、強くてどんどん靴を濡らしていって不快だ。
「はー……勉強、しなきゃな」
公立狙いでも滑り止めで私立も受ける。来週は私立の入試だ……何の対策もしていないから少し不安だ。
びちゃり。水溜まりに誤って入り、靴下まで濡れたのが分かる。と、そんなとき視界の端に動く影をとらえた。
「あれは……?」
近づいてくる人影。傘はさしておらず、レインコートでも着ているのだろうか、くすんだ青色の姿。俺より背の低い誰かは、俺の前で立ち止まった。
「……野分くん」
顔を伏せたままに、そいつは俺の名を呼んだ。誰なんだ、こいつは。不信感と不安であとずさりそうになるのをグッとこらえて、無表情であろうと努める。
「来て、あなたに用事」
「積雲!?」
顔を上げた彼女は、説明を一切せずに俺の手首をガシリとつかんで走り出した。
「何だよ、どうしたんだよっ……!」
用事とは何なのだろうか。答えない、俺の手を引く小さな背中を見ながら、走ったら傘が上手くさせないから濡れてしまうや、と他人事のように思いながら雨に打たれた。
連れてこられた先は、何故か学校だった。先生は知らないであろう、低木に隠された破れたフェンスから侵入する。傘をたたまなければならなくて、さらに濡れた。
だけれどある意味では、積雲の判断も間違っていない。大雨が降り、荒れていて危険な海に近づくのは愚行だから。避難場所にも設定されているくらいの高台にある学校は、その点まず危険はないだろうから。
体育館の屋根に入る。中に入れないものか、体育館の扉を引っ張ったが生憎開かなかった。いや、施錠がきちんとできているのはいいことだが。さてはて、こんなところに来て積雲は何の話をするつもりだろうか。
「で、何だよ」
「間髪入れずに聞かないでよ、こっちは日頃の運動不足がたたっててキツいんだから……」
悪い、とうわべだけ謝り、積雲の呼吸が整い始め出してから再度尋ねた。
「君にだけなんだよ、相談できるの」
そんなフラグが立ちそうなことを照れもせずに言い切る積雲。刺さる視線が辛い。
「無くしちゃったの」
そこではじめて、罰が悪そうに目を伏せた。うめくように小さな声で、ぶっきらぼうに告げる。
「サイコロ。……落とした、みたいで」
照れもせずに目を合わせてきたくせに恥ずかしいのか、首をすくめる積雲。
「とりあえずは昨日の反動でっ……雲が戻ってきたから、雨が降ってるけど! 私がサイコロ振らなきゃ、天気がずっと変わらない……」
「あ、だからなのか」
モヤモヤしていたものが取れたような。思わず口に出してしまうと、積雲は一体何が? と言うかのごとく眉をひそめていた。
「性格。雨が降ってるのに照れ屋じゃないから」
「ああ……今はね、昨日の“全部”でも無いんだ」
秋和の影響で天候が変化したならば“全部”じゃないのか? 法則性が不明すぎて理解できない。
「今はね、そもそも私がサイコロ振ってないから、影響もされないの。私の元々の性格……あそこまでじゃないけど、元から照れ屋」
そうなのか、そうは見えないけど。積雲はそこで懐かしむかのように、微笑んだ。
「おばあちゃんがね、言ってくれたの。『雨月は天候の女神様だけど、雨の性格が元の性格だから、雨の女神様ね』って」
「雨の女神様、ねえ」
何とも心なごむ話だが、サイコロを探さなければ。
でもなんで俺を連れてきたんだろう、鬼負に頼めば、すぐに見つかったと思うのに。
「校内に落としたのか?」
「うん、昨日の、五限目には確かにあったんだけど……」
昨日の5限といえば、美術だ。となると美術室にある可能性が高いか。
「どうやって校内に入る?」
「窓、開いてたよ?」
積雲が指差す先には、確かに隅に開いた窓があった。不用心な……しかし、タイミングよく開いていてラッキーだ。
いささかご都合主義すぎるかもしれない展開に、鬼負あたりが一枚噛んでいそうな気がして憂鬱になる。この先、どう転ぶことになるのやら。
ついた息は白色で、雨と共に地面を叩いた。
無事侵入に成功した俺たちは、薄暗い廊下を土足で歩くわけにもいかず、上靴に履き替えた。電気を点けたらバレるかもしれないので明かりもないなか、小さなサイコロを探す。
「さっき言ってたけど」
黙りこくって進むには、何も知らない仲でもないわけだし話さないわけにいかない。話題を選びながら、隣の積雲を盗み見る。
「俺以外にはサイコロのこと、本当に言ってないんだな」
「当たり前だよ、アレ盗られたら神様の権利を剥奪されるし」
「……お前、そんな大事なもの落としたのか」
うっさいわね、と暴言を吐かれてしまった。図星なのかツンデレなのか、プイッと反対側を向いてしまう。探す気あるのか。
「美術室に行くにしても、鍵がないだろ。職員室に入るしかないけど、職員室も開いてるのか?」
「開いてないなら扉を、野分くんが壊せばいいじゃん」
「意外と暴力的だな」
知らなくていい一面だった。天気に左右されなくとも、積雲は元からそんな思考回路の持ち主なのか。今後何をしでかすか分からない。
「暴力的でも仕方ないでしょう、そうでもしないとこの地域は、明日も明後日も雨だよ?」
「秋和に頼めばいいんじゃないのか?」
昨日、雲を飛ばしたみたいに。そう告げると、積雲は鼻で笑った。鼻で笑うなよ、鼻で!
「野分くん、昨日は特別だったんだよ。今日は普通の何もない日だ。力の乱用なんて、できるわけないよ。現に彼女も、制限されてるだろうし」
「制限? 何をだよ」
職員室に向かう歩みを止めないままに、積雲は前を見ているようでどこも見ていないように、言葉を吐いた。
「女神様だからって、何をしても許されるわけじゃない。崇められたり、迫害されるしね。それを防ぐために、力を制限するんだよ。私はサイコロ振らなきゃ、天候を司る神様なのに天候を変えられないし」
ごめん私、説明下手だから上手く伝えられないけど。目を少し伏せて積雲は言うけれど、何となくなら理解できた。
共存するには、神様は力を持ちすぎている。万能過ぎる、から、制限をつける。それは人間でも神でもない彼らにとっては、ただの枷にしかならないのではないだろうか。
「ん、閉まってる。さあ野分くん日頃のうっぷんを扉にぶつけてはくれないかな?」
「うっぷんとか言うな、俺が望んでやるみたいになるだろ」
結局、俺が考えたって仕方ないことか。職員室のドアの前で不敵に笑う積雲に、俺は彼女らを理解できる日がくるのか、考えるのを放棄した。
えいやっ、なんて感じには扉が壊せるはずもなく、相当見苦しく時間をかけてやっと扉は原型を失った。積雲からの冷ややかな視線に逃げ出したくなる……男だからってそういうのができるわけじゃない。俺は長距離走者だ、しかも草食系だ、多分。
いいわけも不満も心の中にだけ留めて、残骸を越えて室内に入った。
「月曜に学校に行きたくなくなってきたよ、俺……」
「だったら休めば?」
「直接手を下していないからといって同罪のはずなのに、度胸あるな積雲」
「でも野分くんのおかげで、のねなが絡んでいないことがハッキリしたね」
「話を反らすな、まあそれもそうだが」
しかし自称『女神様』の三人は仲がいいのか悪いのか判断しかねる。名前を呼び捨てしあったり秘密を知りあっているのに、心を開ききらなかったり。
「むしろ休みなんかした方が、やましいことをしたと疑われそうじゃないかな」
「完璧に他人事だな……」
休む気もしてないから行くけれども。罪は職員室の扉を破壊したことだが、職員室には美術室の鍵を取りに来ただけだ。これ以上罪を重ねても無意味なので、鍵置き場に無造作に掛けられた鍵を取る。
この学校には防犯設備を取り付けるべきだと思う。俺らがこんなことやらかしてからじゃ、後の祭りだろうけど。
「野分くんって偉いんだね」
鍵を手に入れ、美術室に向かう道中、思い出したかのようにフッと笑いながら告げられる。
「何が?」
「義理難いっていうの? 転校してきてばっかの、あんまり話したことない私だよ? しかも前、殴ったし。そんな私の探し物を、一緒になって探してくれるんだ。扉を壊してまで、ね」
「俺以外に頼れないんだろ? 俺が手伝う以外にないじゃないか」
「ほら、その言葉だって嘘かもしれないんだよ? 信じて手伝うなんて今どき珍しい」
君のようになれたらいいのに。どういう意図があってか、積雲は自嘲気味に笑った。
「……嘘なのか?」
「さあ、どうでしょう」
何だか狐や狸に化かされているようで、不毛な会話だ。目指していた場所に到達して、長かった道中は終わりを告げた。
土曜日に、私服で美術室へ侵入。もしかしなくとも、警察の前につき出されたら言いわけできない状況下だ。見つからない内に、急いでサイコロを探す。
「どこくらいで落としたか、心当たりは無いのか?」
「分からない……席かな、そんなに動かなかったから」
積雲は転校生のため、番号順に座らされる美術室では席は最後尾となる。周辺の地面や引き出しを見て回るが―――見つからない。
「本当にこの辺りか?」
「ごめん、だけど私にも分からないんだ」
しばらく探したが、全く見つかる気配もない。諦めようと、背後の彼女を説得させようとした刹那。
「あ、あった!!」
俺の肩と積雲の体が、触れた。
「あ、ご、ごめんっ!!」
無駄にドキドキする心音に我ながらびくつく。同じように顔を赤くしてダッと後ずさり肩で息する積雲。……そんなに?
びっくりしたけれど、そこまで過剰なリアクションをされると冷静に戻った気がした。
「どうし、たんだ?」
「あ……うん、机と机の、隙間。挟まってる」
変に意識してしまい、視線を合わせられずに会話が進む。何なんだこのラブコメのような展開は、と思うものの、こうなったのも別に悪いわけじゃないし……ドギマギしてしまうけれども。
積雲の気持ちが気になるような気がするのは、何故だろうか。
「本当だ、床ばかり見ていて気付かなかった」
当たり障りない言葉をつぶやいて、サイコロを手に取る。前回見せてもらったときと変わりはない、これで侵入事件も終了か。
「はい」
サイコロを手渡す。さっきのことがあるから、いつもなら気にしないけれど手が触れないように気を遣って。触れなかったことにホッとした。
「……ありがと、ね」
これで終わり。しかし、トンズラしたいのも山々なのだが。
「鍵、返しに行かないとな……」
破壊した扉をまた越えるのは、精神的に辛いが仕方ない。行きがあるなら帰りもある。俺たちは美術室を後にした。
階段を下る間、何を俺たちは話していたのだろうか。全く記憶に残っていない。恥ずかしいことを口走っていなければいいが……。終わったことを蒸し返しても仕方ない、俺は潔く会話についてスルーすることにして職員室の扉の、残骸を越える。
鍵を返せばミッションコンプリート、つまり帰れるのである。一応は教職員から「真面目」という評価をいただいている俺だ、後ろめたいことは早く終わらせたい。しかも最上級生、受験生でもある。家に帰って勉強しなきゃ、という気持ちが強いのだ。
「積雲、鍵、返したぞ」
「ありがとう」
さっきから積雲には礼を言われてばかりだ。これで終わり、と思うと安心した―――だから、というわけでもないだろうけれど。
「誰だ!?」
「「!!!」」
薄暗闇の廊下から、慌てたような男の声。靴音を響かせて、懐中電灯か何かを持っているのか明かりで照らされる職員室。まずい、と理解しきれない脳内で緊急事態を認識した。
脊髄反射で声を聞いた刹那から、積雲の手首を強引につかむ。走り出して、俺が破壊したのとは別の職員室の扉へと直行する。駆けつけたのは警備員か誰かだろうか。こんな窓の鍵がかかっていなかったような学校にも警備員はいたのか。
不要の心配だったかな、と思うが今はいない方がよかった。むしろいたのなら、何故もっと早くに現れないんだ!現れていたらサイコロも見つからなかっただろうし困るんだけれども……ああもう、とにかく!
ぐちゃぐちゃになる思考を無理矢理、一時停止して扉の錠をはずす。がしゃん、と簡単に内側からなら開く扉に嫌悪のようなものを感じつつ、走る。
入れ違いに丁度“偶然”、警備員が職員室に入ったようだ、室内からの怒声に怯えながら走る。走る。学校の廊下をこんなふうに、全力で駆け抜けるのは生まれて初めてだ。
靴を履き替えるために、土間にようやくたどり着いて、その時になって呼吸困難に陥りかけている積雲に気づいた。やっちまった。
素人に、ウォーミングアップもなしにいきなり全力疾走を強要させてしまうとは。しかも女子だ。見るからにインドア派の女子だ。俺の人間度的な何が下がった気がした。むしろだだ下がりすぎて回復の見込みがないような気がした。
何と声をかけるべきだろうか、迷う内にも積雲は懸命に靴に履き替えている。あ、俺も履き替えなければ。よもや迷う暇も意味もない、履き替えると、少し呼吸の整った積雲に声をかける。
「さっきはその、すまん。だけど、早くしないと警備員に追い付かれるかもしれない。走れる?」
一瞬、積雲の目に絶望が浮かんだ。逃走は諦めて校内に隠れることにシフトチェンジして尽力を尽くすべきか。
だがそんな俺の考えを読んだかのように、ふるふると首を振る彼女。
「追い付かれたら、ダメ……逃げよう、私は、大丈、夫…………だか、ら……」
ぜえぜえと荒く息を吐く合間に、必死に伝えてくる。全然大丈夫そうじゃないんだが、この場は積雲の虚勢に騙されたフリをする他に策が無い。
俺たちは女神様だろうが何だろうが、普通の一介の、中学生に過ぎないのだから。万策尽きた、後は策もなくみっともなく走るだけ。
職員室から出て、俺たちの姿に気づいたのか警備員が走る足音が、廊下に響く。ついでに怒鳴り声も。当たり前だろう、職員室の扉を破壊して逃走を試みているのだから。
「行くぞ!」
返事も聞かずに、また積雲の手首をつかんで走り出す。懐中電灯で照らし出される俺たち。これで入試に支障がでなきゃいいけど。
バレないことを祈りつつ、光を避けながらジグザグに走る。もう隠れる意味もない、校門を飛び越えて、俺たちはやっとのことで学校から脱出した。
雨にうたれて濡れるのもご愛嬌。
「っはあ……だ、い丈夫か?」
「うん……」
もうずぶ濡れであまり意味を成さないけれど、傘をさす。坂道を駆け降りたせいかズボンのすそに泥がたくさん跳ねていた。母さんに何ていいわけをしよう。
積雲のレインコートもびしょ濡れで、見ていて不憫だったので傘に入れてやる。相合い傘とか頭に浮かんだけれど、必死に気にしないようにした。気の持ちようだ。
「ああ、あああ、ありがとね。本当に! 超絶すっごく助かったわ!」
「大丈夫か積雲、キャラがいつも以上に不安定なことになってるぞ!?」
アワアワとする姿に心配になる。顔が赤いのだが、風邪をひいたのか?
「天気! これで、変えられるよ。重ね重ねありがとう」
「礼ばっかり言うなよ」
言葉は続かない。照れるからさ、なんて臭い台詞は自分には絶対に吐けない。この場に、この世界に積雲と2人きりになったように錯覚する、雨の中。歩く度に積雲のどこかしらに触れてしまいそう。そういえば走っているときに、手首をつかんでしまったっけか。
思い出して、ぶわっと頬に血が集まる。とっさとはいえ、何をしているんだ。
いたたまれないような気持ちになった。困るというか、何なんだろう。説明できない気持ちに、自分でもほとほと嫌気がさしてしまう。決して、積雲と歩くのが嫌なわけでもないのに。
積雲をこのまま家に送るべき、なのだろう。いや、自分でも分かっている、分かっているけれど自分にはハードルが高すぎる。無理。黙ったままとりあえず前に進む。
積雲は見るからに辛いのか真っ赤で、話しかけてこない。これまでの流れを考えて、こいつが話を振ってきた回数の少なさから、これがデフォルトなのかもしれないから、考えすぎかもしれない。でも、雨にうたれてそのまま放置はいけないはずだ。体が冷えきってしまうし、本格的に風邪をひきかねない。
仕方ない。深呼吸をここで一つ。積雲に何事かと見られているけど気にしない。仕方がないから、覚悟を決めて口を開いた。
「積雲」
「な、何かな? 野分くん」
「じゃあな!」
「え、ちょっと待っ、え!?」
聞くからに明らかに戸惑っている積雲を残して。俺は傘から抜け出て走った。恥ずかしくて死にそうだ、いや今なら死ねる。
女子に傘を渡して自分は濡れて帰るだなんて! 凪や秋和に見つかったら、一生これをネタに嘲笑われることだろう。顔がほてって仕方ないのは、きっと俺も風邪をひいたからなんだ、きっと。積雲とそろって風邪をひいちゃ、傘があってもなくても意味ないかもな。
全力で駆け抜ける雨の中。不思議と後悔もなく、恥ずかしくも苦しくもなく、笑えてくる。どうして笑えるのかも分からない、笑いは止まらない。走りながら笑って、水溜まりに足をとられて、ちょっとコケたけど、それも気にならないくらい、晴れやかな気持ちだった。
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