きょうだい児 レイ(3)
三十分も経たないうちに、お姉ちゃんとナツコさんが戻ってきた。玄関まで迎えに出ると、車椅子に乗ったお姉ちゃんは、まるでだるまみたいにぐるぐる丸く巻かれていた。出て行くときは気づかなかったけれど、ナツコさんはお姉ちゃんが身体を冷やしてはいけないというところまで理解ってくれているようだった。筋強直性ジストロフィーは、冷えると症状が悪化するのだ。向こうに住んでいた頃と比べてそこまで寒くはないとはいえ、防寒をしっかりしてもらえるに越したことはない。話したこともないのに、頭が下がる──。
お姉ちゃんは上半身にはマフラーと膝掛け、下半身には膝掛け二枚を巻いていた。それがずり落ちてしまわないようにか、車椅子と膝掛けで巻かれた身体の隙間に──、何これ、かまぼこ──?
なぜか、店のシールが貼られたスーパーのかまぼこが挟まれていた。
「あ、これですか?」
レイの視線に気づいたのか、ナツコさんはかまぼこを指差して微笑んだ。それから聞いてもいないのに、
「今のうちにかまぼこを買っとかないと、三十日近くになったら一気に倍ぐらいの値段になるんです。しかも、ちょっと立ち寄ったスーパーが思いの外安くて! 今年はちょっと奮発して、おせちを作ろうと思っているんです」
と、言ってる途中から喜びの笑みを漏らしていた。
「へえ、いいですね──」
ナツコさんを見ながら、レイはそれしか言えなかった。誰と食べるのかとか、今買ったのかとか、そんなことが気になったけれど、それを口に出してわざわざ聞くということが、昔からレイは苦手だった。
「レイちゃん、おかえり!」
お姉ちゃんが無邪気に笑ってレイを見上げた。
「おかえりじゃなくて、ただいまでしょう?」
ナツコさんにそう言われて、お姉ちゃんは、
「そうですね!」
と言って、またチンパンジーみたいに歯をむき出しにして笑った。
「さっきお姉さん、すずめが膨らんで並んでいるのを見て、とても喜んでいましたよ。すずめ、すずめって言いながら」
「すずめ、かわいかったです! すずめ!」
「へえ、すずめ──」
笑顔の二人を目の前に、レイは気後れしてほんの少し後ずさりした。明るくなければいけないみたいな、そんな圧を、微かに感じたような気がしたのだった。
というか──、昔から明るい人があまり得意ではなかった。明るい人はとにかくプライバシーを侵害してくるというイメージが先行してしまっているというか──、閉鎖的な町で多感な時期を過ごしたせいなのかもしれないけれど、いわゆる健常者で明るい人というのがすこぶる苦手で仕方なかった。ナツコさんがそんな人ではないとわかっていても、信頼できると思っていても、ちょっと怖気付いてしまうことが度々あった。
「ナツコさん、オシッコ! オシッコ!」
お姉ちゃんはそう言って、また股間を押さえつけていた。
「あら、冷えちゃった? じゃあ急いでトイレに行きましょうね!」
ナツコさんは慌ててお姉ちゃんから布類を巻き取り、手際よくお姉ちゃんをトイレまで誘導していった。
チョロ、チョロ。
ハアー。
チョロ。
ハアー。
やっぱりオシッコの切れが悪い。
玄関先で立ったままにそれを傾聴していたら、途中ナツコさんが「あれ?」と言ったのが聞こえた。なんだろうと思ったのも束の間、続けて、
「レイさーん。お姉さん、生理来ちゃったみたいですー。もうこのままお風呂に連れていっちゃうので、脱衣所に着替え一式とナプキンお願いしてもいいですかー」
と声を高くしてナツコさんは言った。
レイは軋む冷たい廊下をそろりそろりと歩き、居間の物干しの角ハンガーからお姉ちゃんの着替えをパチパチと取った。
ええとそれと、ナプキンだべ?
は、ナプキン?
どごさ、あっぺが?
レイはしばらくフリーズした。
そういえば、おらァいづから生理が来てねっけな。
は? ナプキンなんて、どごさもねえ。
あれ、やんた──。買いにいがねばねえごどね──。
とりあえず、物置状態になっている二階まで上がって家の中あちこち探したけれど、やっぱりナプキンはどこにもなかった。
ジャッジャッジャッ、シャッ──。
仕方なしに、浴室でお姉ちゃんを洗っているナツコさんに相談する。
「あの、すみません」
「はい、どうしました?」
ナツコさんは、こちらを振り返ることなしに、お姉ちゃんの背中をゴシゴシ洗いながらに返事をした。かがんでいるせいで、頭のてっぺんに白髪が三本生えているのが見えた。レイはその若白髪をじっと見ながら、
「ナプキン切らしてだはんで、買ってこないどいげないんだげども」
といい、それから続けて、
「今急いで買いに行ってもいいですか」
と遠慮ぎみにして言った。
「ああ、それなら私のナプキン三つぐらい置いていきますよ! 一応多い日用なので、大丈夫と思いますよー」
「でも──」
「遠慮しなくていいですよ。ただ、百円ショップで買ってるものなのでかぶれなければいいんですけどね。ちょっとガサガサしているんです」
ナツコさんはそう言って笑いながら、お姉ちゃんの背中に浴槽の湯を掬ってかけた。お姉ちゃんはというと、くもった鏡に映るナツコさんに向かって、
「ナツコさんもお風呂入りましょう! 脱いで、脱いで」
と話しかけていた。ナツコさんは、「入りませんよー」と言って、姉をひょいと立ち上がらせて、そのまま浴槽の中にゆっくり浸からせた。
ナツコさんは、ふうっと一息吐き、それからすぐに、
「じゃあナプキン持ってきますね。ちょっと見ていてもらえますか」
と言って、玄関のほうに向かって行った。
「すみません──」
そのやりとりを見て、お姉ちゃんはやっぱりニカァと笑った。
レイは、お姉ちゃんから目を逸らし、風呂場の様子をじっと見た。タイルや壁、床、天井のあちこちがカビだらけ。黒だけじゃなしに、桃色や緑色、黄色や橙色、様々な色のカビがある。シャンプーや石鹸置きも、カビと湯垢に塗れていた。
掃除をする余裕もなかった。ここに越してきたときは、古い家とはいえもっと綺麗でピカピカしていた。叔父さんがもし来たら、きっとびっくりするだろう。
曇った磨り硝子の窓の向こうで、葉のない木が大きく揺れ、時々窓を叩いているのが見えた。それを見て、レイはたまらず肩を竦めた。
「レイちゃんも、おふろ! おふろ!」
お姉ちゃんの声が浴室内に高く響く。湯船には経血が浮き滲み、花が咲くようにして水面に散った。
ナツコさんからナプキン二つ受け取り、居間に戻ってテーブル前に正座した。申し訳ないなと思いつつ、実はすごく助かった。レイはそっと、それをジャージズボンのポケットにしまった。思えばこのジャージも、ナツコさんにもらったものだった。
「私、断捨離が趣味なんですよ。よかったらもらってください」
「え、でも──」
どうしてか、ナツコさんから物をもらうのは嬉しかった。自分のことを冷やかしで見ているわけじゃないと思えるからだろうか。わからない。
地元の人たちの善意には、どうしたって愚弄のようなものを感じた。あの町は、自分を呪っているとさえ思っていた。いや、今もなお、その思いは変わらない。誰かの優しさにさえ傷つく自分が、愚かで無様で醜いみたいで仕方なかった。だけどこの町に来てからは違う。誰も自分なんか見ていない。たまに触れる優しさも、棘がなくて温かい。
居間を一周、ぐるりと見渡す。家具も家電も置いて出て行った元の住人は、今は一体どこにいるのだろうか。一体どんな人だったのだろうか。売りに出された経緯や、叔父さんが購入した経緯は知らないけれど、それは別にどうでもよかった。ともかくレイはこの家が居心地よかった。
あと一週間で一人暮らしになるんだなあ。
一人で暮らしていぐには、ちょっと広すぎる気がするげども、まあでも別に、何も問題はねえべえなー。
ただこの先、どうやって生ぎでいぐがが問題なだげ。それだげ。
お風呂から上がったお姉ちゃんを誘導して、ナツコさんが居間に入ってきた。
「お風呂上がりましたー」
それから一人がけソファーにお姉ちゃんをゆっくりと座らせ、ナツコさんは左手を前にし腕時計をチラッと見た。それにつられてレイも壁の時計を見上げる。時刻は九時五十五分。ああ、もうすぐナツコさんが帰ってしまうごどーね。寂し。
「これ、写真ですか?」
テーブルの上に置きっ放しにしていた写真を、ナツコさんが指差した。
「あ、はい」
「へえー。ちょっと見てもいいですか?」
「まあ、はい」
ナツコさんはいたずらな笑顔を浮かべたかと思うと、サッとお姉ちゃんの脇に座って、二人で一緒に見れるようにポジショニングし、写真を一枚一枚めくり始めた。お姉ちゃんは嬉しそうな恥ずかしそうなこんがらがった表情を浮かべていた。レイはただ、その二人の姿をじっと見ていた。
ナツコさんはニコニコと頬を緩ませ「これは誰ですか?」「これはどこですか?」などとお姉ちゃんに質問していた。お姉ちゃんは「学校」「先生」「レイちゃん」「お母さん」「お父さん」と返事をしていた。
「じゃあ、これは?」
同じようにして、ナツコさんは次の写真を指を差した。
「あー、わからない。わからない!」
お姉ちゃんはそれを見て、嫌がるようにして目を背けた。なんだろうと思い、レイは二人に近寄った。写真を見ると、遊園地に遊びに行ったときの写真だった。だけど、遊園地の写真はそれしかなくて、しかも、お姉ちゃんが泣き顔で写っているものだった。レイは案の定、仏頂面。珍しく家族で出かけたときの写真だけど、そこに両親は写っていなかった。
「どうして泣いているんですか」
「あー、わからない! わからない!」
お姉ちゃんは半泣きになりながら、写真を見ることに抵抗した。楽しいことは楽しい、嫌なものは嫌、全力で感情を表現する。まさに二歳児。これがもし、お姉ちゃんじゃなくて自分の子供だったのなら、レイもお姉ちゃんを“天使”だって思えただろうか──。
ナツコさんと目が合った。レイはとっさに、
「たしか、お漏らししたんだと思います」
と答えた。
「あらまあ。でも、それもいい思い出ですよね」
「わからない! 見たくない! いやだー!」
*
レイ、八歳──。雲ひとつない青く晴れた秋の空だった。あの日、突然父が思い立って「M市の遊園地に行ぐびゃあ」と車を出した。レイはとても嬉しかった。家族で出かけるなんて滅多にないのに、たまたま父の気まぐれで、車で三時間かけて、M市の遊園地に行くことができた。
到着してすぐ、家族全員で乗れるアトラクションが、ひとまず観覧車だということで、四人で一緒に観覧車に乗った。
レイは高いところから景色を観るのが初めてだった。葛はエレベーターがある建物が一つもないような田舎だった。小学校の屋上も閉鎖されていたし、高いところに登る機会なんてまるでなかった。普段無口なレイも、
「こっちが葛のほうで、あっちさ見えるのはなんだろね?」
「こわいげど、楽しいね」
「次はメリーゴーランドさ乗ってもいい?」
と言ってはしゃいだ。それを見て、父も母もニコニコしていた。レイはとても幸せだった。
だけどちょうど天辺に来たところで、お姉ちゃんが黙ったままにお漏らしをしたことがわかった。観覧車内にアンモニア臭が充満して、姉の座る座席の面がぐっしょりと濡れているのに、両親もレイも同時に気づいた。
「おめえ、漏らしたのが!」
「はい。あはははははは!」
母はそれから、お姉ちゃんを叱り続けた。
「どうしてオシッコ出る前に言わないのさ!」
「なんでそうやってお母さんを困らせるんのや!」
「せっかく来たのさ、もうやんた。どうしてオラホばっかし!」
観覧車が降りていくのに、すごく長い時間がかかった。母がそうやって怒っているあいだ、レイも父も何も言うことはできなかった。お姉ちゃんは、怒られているということを理解できず、歯をむき出しにして笑っていた。あの頃からお姉ちゃんはずっと変わらない。そしてこれからも、ずっと二歳のままなのだ。
観覧車から降りると、家族四人で少し歩いた。レイはメリーゴーランドに乗りたかったけれど、それを言い出すことはできなかった。ただ両親の後ろを、黙ってついて歩くことしかできなかった。
少しして、フードコート前で父が足を止めた。
「レイ、何が食べるか?」
父はレイに気を遣っているようだった。レイは一通り店舗を見渡し、ファストフード店“バーガージャック”の看板に目を留めた。
「食べなくていい! というより、こんなビショビショな状態で椅子さ座れるわげもねえべさ」
母は父を睨みながらにそう言った。
「でも、せっかく来たんだごどね。葛で食えないものもいっぱい此処さあるわげだし」
「座れないっつってっぺさ! こんなオシッコで着替えもなしに! 食事なんて家さ帰って食えばいいべや」
「でもレイ、お腹空いでだんでね? 朝あんまし食ってながったべ?」
「うーん。ちょっと空いでだかな──」
レイは遠慮ぎみにそう答えた。レイはハンバーガーを食べたことがなかった。CMやアニメで見ていたそれに、レイは強い憧れを抱いていた。食べてみたい。
「なに? ハンバーガー食いたいのが?」
「うーん。ちょっと──」
「ハンバーガーなんて身体さ悪いもの食わなくていい。家さ帰ってたまごかけご飯でも食ってだほうがまだマシだ」
「レイ、アメリカンドッグもあるぞ。半分こすっぺし」
父はそう言って、レイの手を引っ張った。
「そうやってレイにばっかし甘いんだもの! お姉ちゃんと私は他人のフリだ! レイばっかしずるい! なんで私ばっかしこった思いしねえばなんねえのさ!」
テラス席で食事している人がチラホラいる中、母は怒声を撒き散らしていた。レイはそれが恥ずかしかった。お姉ちゃんは笑って父と母の顔を交互に見ていた。
*
「じゃあ、今日はこれで失礼します。明々後日でもう、最後ですね」
「そうですね。寂しぐなります」
「え! ──レイさんからそんな言葉が出るなんて、びっくり」
そう言われて、レイはハッと我に返った。思ったことが、そのまま口から出てしまうなんて、これまでのレイでは考えられないことだった。
「ナツコさん、ばいばい」
お姉ちゃんはそう言って、小さく両手を振っていた。
「はい。じゃあまた、次は二十九日ですね。それでは失礼します」
「ありがとうございました──」
ナツコさんは居間から出て、そのまませっせと玄関から出て帰っていった。
今度が最後だすけえ、どうしたら明るくなれるが聞いでみっかな──。おらァもナツコさんみたいにして、介護の仕事を探せばいいんだべがな──。
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