きょうだい児 レイ(2)

「おはようございまーす。胡桃の森の粕壁でーす。失礼しまーす」

「ナツコさん、きた! あはははは!」

 チャイムが鳴ると同時に、ヘルパーのナツコさんが家に上がってきた。時計を見ると、ちょうど午前九時だった。

 玄関の鍵はいつも開けたままにしていた。だから、出迎える前にナツコさんはいつも勝手に入ってきていた。そのことについて断りを入れられたわけではなかったが、レイは嫌に思わなかった。近所の人がそれをやったら嫌だけれど、ナツコさんはお姉ちゃんを世話する仕事の人だ。だからまったくもって抵抗がない。そう──、これは干渉のソレとは違うのだ。

 ふと、しょっちゅう勝手に家に入ってきていた近所のおっさんを思い出す──。

「なんだや、家の中さ居だのが。物音しないすけえ、出かげでだがど思った」

 勝手に入ってきてこれだもの。

 やんたくせえ──。

 おげげー。思い出したぐねえのナッス。

「どうもー。今日も冷えますねー」

「冷えます! 冷えます!」

 ナツコさんと目が合ったのか、ソファーに座っていたお姉ちゃんは、チンパンジーのように歯茎をむき出しにして笑った。黒い歯石がびっしりと歯茎に貼りついている。歯医者に連れて行ったほうがいいのかもしれないが、お姉ちゃんは歯医者に近づいただけでも泣いてしまうから、つい億劫で連れて行けない。というより、神経科に通うだけでも大変だから、そこまで手が回らないし、何より一度、連れて行った歯医者で「他を当たってください」と言われてしまい、益々面倒になってしまった。

 お姉ちゃんは、ナツコさんの姿を見るやいなや、一生懸命になって動きづらい両手をバタバタと振った。人懐っこくて天真爛漫。無邪気で純朴、嘘がない。

「ナツコさん! ナツコさん! こんにちは!」

「こんにちはー。今日も相変わらず元気ですねー」

 ナツコさんはそう言って、お姉ちゃんの両手をぎゅっと握り、握手するようにして上下に振った。お姉ちゃんはキャッキャと喜び、頭をグラグラと回していた。それはわざとというわけではなく、首の筋力が少しずつ弱くなってきているからだった。

 大きく揺らしていた頭も、次第に鎮まっていき、それから夕の萎れたたんぽぽみたいに頭をしょげた。お姉ちゃんは、そのままにして、ナツコさんを上目遣いで見つめていた。

「今日もよろしぐおねがいします」

 レイはペコッと頭を下げて、無表情にナツコさんを見た。ナツコさんは「はい!」と切れよく返事し、ニコッと笑顔を返してきた。それから続けて、

「今日は入浴介助とお散歩ですね。じゃあさっそく、どうしようかな──。先にお散歩のほうがいいですよね」

と言いながらメモ帳を取り出した。いったい何が書かれているのかわからないが、このメモ帳に、ナツコさんは時々メモをしている。何を読んでいるのかはわからないけれど、うん、うんと頷きながら、メモをじっくり読んでいる。

 レイはその様子をじとっと見ながら、

「んですね。はい」

と返事をし、両手をカサカサとこすり合わせた。

「わかりましたー。じゃあ、準備しましょうね」

 おお、また笑顔。レイはナツコさんを凝視した。

 こんなに寒い日だって、ナツコさんは晴れやかだった。いや、いつも元気な人だけど、今日はいつも以上に覇気があるようにレイには見えた。

 何か、いいことでもあったのだろうか。

 なんだべなあ──。

 レイはしばらく考えた。

 こないだのクリスマスに、プロポーズでもされたんだべが?

 それとも宝くじにでも当たったべが?

 いや、宝くじの当選発表は年明けだっけが?

 なんだべ、なんだべ、なんだべなー。

 そうこうしているうちに、ナツコさんは手早く姉に上着を着せ、

「じゃあ、行ってきますね」

と行って、車椅子を押し玄関先から出て行ってしまった。

「あ、はい」

「レイちゃん、いってきます!」

 お姉ちゃんの声が全部聞こえる前に、玄関のドアがバタンと締まった。

 家の中にはレイ、ひとりになった。


   *

 

 寝床に戻り、また箪笥から必要そうなものを探した。ズボンも半分はこの中から持って行こう。下着は全部買い揃えたほうがいいだろうか──。

 レイは、箪笥の引き出しという引き出しを全部開けて中を覗いた。実のところ、普段、箪笥なんて滅多に開けることがなんてなかった。というのも、着たのを洗って干して、また着て洗って──。そんな感じでルーティーンを組んでいるから、なかなか箪笥を開ける機会なんてなかったのだ。衣替えらしい衣替えもほとんどせず、夏服の上に羽織もの、といった具合に、姉妹そろってかなり適当に服をチョイスし身につけていた。

 いくつか引き出しの中を覗いたあと、レイは一番上の小さな引き出しを開けてみた。そういえば、いつからここを開けていないかわからなかった。

 踏み台にのぼり、中を弄る。入っていたのは小中高の通知表と、幼い頃の写真の数々だった。

 あや? こったもの持ってきてだったが?

 覚えでねえ──。

 一応つって、あっちの家を出るとぎさ持ってきたったんだべがな。

 卒業アルバムは全部置いてきたったけどもなあ──。

 レイは入所準備の手を止めて、封筒に入った写真を見ることにした。ざっと見て、五十枚はあるようだった。幼稚園行事の写真、姉が養護学校に通っていたときの写真、家族写真──。

 一枚、一枚と写真をめくっていった。そのうち、レイが写っている写真は、どれを見ても仏頂面だった。

 レイは子供の頃からずっと笑わない子だと言われていた。あまりにも無口で笑わないから、幼稚園でやった“金のがちょう”という劇で、“生まれてから一度も笑ったことのないお姫様”の役に抜擢された。年中の頃の劇だったが、なぜか年少と年長の先生にも「お似合い!」といって喜ばれていた。いや、今思うと、あれは揶揄われていただけか──。

 だけど父と母は、その役決めに正真正銘に喜んでいた。

「レイ、すごいな。お姫様つったらヒロインだごどね」

「んだねえ。お母さん鼻高々だよ!」

 その発表会のときに、父か母が撮ったであろう写真。それをレイはじっと見る。

 みんなでお姫様を笑わせてハッピーエンド、チャンチャン、ってところの写真だった。金のガチョウを持った子がガッツポーズをしていて、その周りの子達も万歳をしているのが写っている。しかしレイは一切笑わず、ただただドレス姿で突っ立っていた。どこを見ているのかさえわからない顔で、ただ本当に突っ立っているだけで写っていた。

 ああ、なーしておらァ、笑うこどが苦手だんだべ。

 生まれてこのかた、ずっと笑うのが難しい。

 また一枚、また一枚と写真をめくっていく。養護学校の行事が多かったからか、ほとんどお姉ちゃんの写真だった。

 途中、蟹の殻の写真が出てきた。

 家族の誰が写っているでもない、ただの蟹の殻の写真。しかもピンボケしている。

 あん? なんだべ、これ──。

 右下に表示された撮影日を見ると、レイが六歳の頃のものだった。

 蟹、蟹、蟹──。

 あ、んだ──。

 うっすらと、ぼんやりと、なんとなしに記憶が徐々に蘇ってくる──。


   *


 幼稚園の卒園式を間近に控えた、三月の夕。

 砂利の庭に軽トラが止まり、玄関が開く音がした。それからすぐ、ドスンと重い何かが置かれる音がして、家が微かに縦に揺れた。

「おーい。これ、台所に持って行ってけろ」

 大きく嗄れた父の呼声が、レイの耳の奥を引っ掻く。と同時に、こたつで寝ていたふとっちょの母が、ハッと目を開き飛び上がった。

「なんだやー!」

 母がドカドカと起き上がった拍子で、コタツの天板が数センチ浮いた。母の向かいに座り、野口英世を読んでいたレイは、その不可抗力で本の下っ角が頬にグスッと刺さった。

「いでえ──」

 レイは母を睨みつけた。しかし母が気づくことはなかった。というよりも、レイはわざと聞こえるか聞こえないかの小さな声で言っていた。

 つけっぱなしのテレビでは、相撲が放送されていた。音声の乱れを謝罪する解説の人の声の向こうで、紫の座布団が何枚も空中を舞っていた。

 トドみたいな身体を素早く起こした母は、小走りぎみに玄関に向かった。そんな母の、下着やゴムウエストのスウェットパンツ、色々食い込んだハムみたいな後ろ姿を、レイは冷ややかに、ただ冷ややかに、横目で追った。

 レイは本を閉じて立ち上がり、角がぶつかった左頬を窓に映した。西日が落ち、外が暗くなりかけた窓は、レイの顔をはっきりと映した。外に雪はもうなかった。

 痛みの部分を注意深く確かめる。しかし、ほんの一ミリさえ痣はできていなかった。赤くも青くもなっていない。白に近い普通の肌の色だった。指先で触れてみる。血も一滴だって出ていなかった。レイは「残念だあ」と思いながら、頬を強く擦り舌打ちをした。

「何だや、今忙しいのさな」

 母は溜息を吐きながら廊下を歩いていた。ドスン、ドスンという足音の奥に、ミシ、ギシ、と床の軋む音がした。起きて茶の間を出るまでは嬉々とした顔をしていたくせに、廊下に出た途端に気怠く忙しいフリをする母のそれが、レイにはまるで理解できなかった。

「ほらこれ、今夜のメシ。六時半に風呂、七時には晩酌できるようさ準備しといでけで。今日はパーティーだんだ」

 父の声は弾んでいた。もうすでに出来上がっているのかと思うほどだった。普段は低くて弾力のない声をしているのに、この日は玄関を開けるなり、やたらと陽気な様子だった。

「あっという間に三月十日だが。一ヶ月経つのが早いごど。んで? 今日はいったい何だんだや?」

「ジャジャーン」

「はで?」

「待ってけで──。ジャジャーン」

 発泡スチロールがミシミシと擦れ、スポンと蓋が開く音が聞こえた。

「じゃっじゃっじゃ! 何だやこったさ! ちょっと、レーイ! こっちさこー!」

 最初はかったるそうにしていた母だったが、だんだんに父と同じように声を弾ませていった。三Kのボロくて小さな平屋だから、玄関先での父と母とのやりとりは、嫌でも茶の間にすべて聞こえた。

 母はさらに声を弾ませ、

「でもお父さん。これ、さすがに多すぎだべや」

と言った。

「すったごどね」

「んだべがな」

「文句言うなじゃ、せっかく仕入れだんだのさ」

「文句じゃねくて。こったさ贅沢できるだなんて、お父さんと結婚すて、お母さん幸せだって言ってんのさ」

「あん? ハァ──」

「幸せすぎで、こええ。助けでけろ」

「やめろ、気持ちわりいな」

 ピンポンのラリーのように、父と母の弾む声が、ボロの家に響いていた。

「レーイ! 早ぐこっつさこー!」

 母のキンキンとした呼声が響いたかと思うと、茶の間の壁がピシ、ピシと鳴るのが聞こえた。レイは小さく溜息を吐いたあと、

「いまいぐ」

と答えた──。

 母からの返事を待ってみたけれど、何も返ってはこなかった。


 茶の間から一歩廊下に出ると、切れかけた棒状の蛍光灯が、チカチカと黄色く点滅しているのが気になった。といっても、この時初めて気になったというわけではなかった。本当は、もっとずっと前から気になっていた。こんな風に点滅するようになってから、随分月日が経過していた。

 そのチカチカの周りを編むようにして、蜘蛛の巣なのかホコリなのかわからない、謎のふわふわした犬の抜け毛みたいなのも絡まっていた。天井からもいくつか、それと同じふわふわのものが、垂れてビロンと伸びていた。それは前に見たときよりも、二つか三つ増えている気がした。

 玄関に向かってまっすぐに伸びる、三メートル弱の冷たい廊下──。壁は真鱈に黒ずんで小汚ないし、床もあちらこちら木が剥がれていた。さらには、雨漏りしているわけでもないのに、黒カビが生えている箇所もあった。なぜそうなっているのかはわからなかった。犬も猫も飼っていないから、動物の糞尿というわけでは絶対になかった。鼠かもしれないけれど、鼠が家にいるのを見たことはなかった。

「レイ、何突っ立ってだのや。変なわらしだな」

 廊下を歩き、母のすぐ後ろに立った。母は発泡スチロール箱を覗きながら、キャッキャと嬉しそうにはしゃいでいた。

「蟹だよ。うまそうだねえ」

 そう言って無邪気に揺れる母の肉厚な背を見つめ、レイはキュッと唇を噛んだ。

「ほら、レイも見でみい」

 母はおかめのようにニコリと笑い、こちらを振り返った。レイは小さく頷き、一歩前に出て箱の中を覗いた。

「蟹だ」

 母のテンションに逆行するように、わざと力なくレイは答えた。

「なんだやレイ、それだけが! せっかぐ俺ァ仕入れできたのさな」

 父はそれから風船が弾ける勢いで、大きな声でガハハと笑った。

「蟹だ」

 レイはさっきと同じ抑揚で同じことを口にした。それを聞き、父と母は顔を見合わせ笑っていた。

「本当、レイって変なわらすだ」

「レイにはまだ、蟹が贅沢品だってわがんねんだ」

「虫の観察はよぐしてっけのにな。蟹には興味ねえってが? 変なの」

 父と母が「変だ変だ」というものだから、仕方なしに蟹を観察した。なんでこのとき興味を持てなかったのかはわからない。本を読んでいるところを邪魔されたから、少しイライラしていたのかもしれない。

 手足を輪ゴムで括られ、十数匹で重なり合う蟹たちは、どこを目指すわけでもなしにただウゴウゴと蠢動していた。胴体から斜めに飛び出た目がみんな薄茶色にくすんでいた。みんなどこを見ているのかわからなかった。目が合うわけでもなかったし、瞳に何が映っているわけでもなかった。

 ズワイガニの胴体の下で、泡を吹いているケガニを見つけた。レイはそれを見て、

「何これ、変なわらす

とつぶやいた。それから続けて、

「ねえお母さん。そういえばさ、なんで私は変なわらすで、お姉ちゃんは天使だの?」

と聞いていた。

「何だや急に」

「だっていつも言ってるごどね。お姉ちゃんは天使だって。だげども私のことはいっつも変なわらすっていうごどね。それが急に気になった」

 母の表情が一瞬、曇ったような気がした。だけどすぐにおかめの顔に戻って、

「そういうこどを言うがらあんたは変だんだよ。でも、変ってのはめんこいって意味だがらね? 勘違いしないでけろよ?」

と言って笑った。

「ふうん。んだのが」


   *


 この写真は、きっとあのときのものだろう。

 確かレイは、このあと急に熱を出して、蟹を食べないままに食パンの真ん中だけを食べて休んだ。

 翌日、蟹を全部食べられてしまったことに気づいて、ゴミ袋から蟹の殻を出し、腹いせのつもりでそれカメラで撮影したのだった。

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