きょうだい児 レイ(1)
この先おらァ、どうやって生ぎでげばいいんだべが。
高校を卒業してすぐ、岩手の
シャッシャッシャッ──。
月に一回か二回がそごら、見舞いのためさ連田さ行がねばなんねども、それ以外はどうしたらいんだべが。稼げばいいのが? どうやってさ?
働ぎ方もわがんねっけじゃあ、シャッ、シャッ、シャッ──。
そもそもだ──、生ぎる術ぁわがんねえ。今までお姉ちゃんの世話ばっかしてだっけで、それ以外に何をすっぺが、とにもかぐにもわがんねえのだ──。
*
レイはこれから先の未来に対し、漠然とした不安を抱えていた。とにかく、お世話以外の生き方がわからない。探しても探しても見当たらない。自分に何ができるかわからない。
朝方の布団の中から、隣に眠る六歳上のお姉ちゃんの寝顔をじっと見つめる。一週間後に医療施設の入所を控えていることを、お姉ちゃんは理解していない。
最重度知的障害のお姉ちゃんは、IQ二〇以下とされていて、年齢で言えば二歳程度の知能らしい。さらには筋強直性ジストロフィーとの診断も出ていた。筋力低下の進行は緩やかだけど、去年から移動は車椅子を使うようになった。そんなお姉ちゃんの面倒を、レイは高校を卒業してからずっと独りで看てきていた。
レイには、父も母もいなかった。いや──、いたことはいたけれど、レイが十歳の頃に母は心筋梗塞で突然倒れて亡くなった。父はその三年後、自営業の経営不振が理由だろう。失踪して姿を消した。
母の死因は
ここ最近、母方の叔母さんも筋ジストロフィーであることがわかった。だからレイも、同じく遺伝しているかもしれなかった。どうやら二分の一の確率で遺伝しているらしい。しかし発症前診断は断っていた。医師も勧めはしなかったし、レイもわざわざ一万円という高額を支払ってまで知りたいとは思わなかった。
今日も施設入所の準備を進めなくては──。
レイはさっと布団から出た。お姉ちゃんが寝ている間に、さっさと進められるところまで進めたかった。
裾にカビの生えたカーテンを三分の一開け、ささくれた畳の寝床に朝日を入れる。お姉ちゃんの布団に光が当たって起こしてしまわないように、開き幅を微かに調整したりする。
窓の結露を見て、いい季節だなとレイは思った。
レイは冬が好きだった。地元では、冬は人が干渉してこなかった。みんな、出不精になって家にずっと篭るから。
春が一番きらいだった。
「レイちゃん、大丈夫だ?」
「レイちゃん、何か手伝うこどぁあっか?」
「お父さんはまだ帰ってこねえのが?」
「かわいそうになあ──」
そう言って、近隣住民が盛んに干渉してくる季節だがら。しかも腐ったカレーライスを毎日持ってくる呆け婆も沸く季節。
殺す気か!
すっぺえかまり!
おらァ、一応死ぬ気はねえぞ?
あの町はトラウマ。今でも時々幻聴がする。シャッシャッシャッ──。
レイはストーブに火を点け、寝巻きのままに便所も行かず、箪笥の引き出しを引っ張った。いつからか、きつくて中々開かなくなったこの桐箪笥は、父のお兄さんから譲り受けたものだった。というよりも、この家具付のおんぼろハウスは、まるごとすべて、叔父さんからいただいたものだった。売りに出ていた残留物ありの一軒家を安く買ったと言っていた。
東所山駅から徒歩十五分の鶏沼にある築四十五年、二階建ての四DK。お姉ちゃんと二人暮らしするには充分すぎる広さだった。すぐ近くに食用鶏を大量飼育しているブロイラー工場があるせいで、臭いがきついときもあるけれど、地元の缶詰工場の汚水と比べて同程度だからすぐ慣れた。
「せめて、償いをさせてほしい。今の自分は謝ることしかできることはない。本当にヨシオが──、申し訳なくて何も言えない。謝って済むことではないのはわかっている。どうしたらいいものか──」
叔父さんはそう言って、レイとお姉ちゃんに深々と土下座をした。実弟が我が子を置いて失踪──、それに重い責任を感じているらしかった。叔父さんには全然関係ないはずなのに、しかも叔父さんは東京の人なのに、冷たいどころか優しかった。地元では「都会の人は冷たい」と聞かされ続けていたから、レイはそれが不思議に感じた。わざわざ土下座をするためだけに、地元の葛まで来る人が、本当に冷たい人なのだろうか。電車と新幹線とバスとタクシーを使って、八時間かけて来るだろうか。
「そういえば叔父さんって、どった仕事しでだのさ?」
「わかりやすく言えば、生活に困っている人を助ける仕事だよ」
「よぐ、わがんねえ──」
叔父さんが頭を下げに来たのは、レイが中学三年に上がる頃だった。それから時々連絡を取りあって、高校を卒業してすぐに、所山に呼び寄せられた。
「古い家だけれど、これで勘弁してくれなんて言えないけれど、あの町に住んでいるよりはいいだろう。レイちゃんも、葛に住み続けるのが辛いっていつも言っていたから、良かれと思って──。どうかな──」
「ああ、おらァ、ともかぐあの町がら出ったいがら、ハアもう急いでこごさ住みたい。本当さいいのが?」
「ああ。そう言ってもらえると、叔父さんも救われるよ」
それから間もなく、お姉ちゃんと一緒にレイはこの家に越してきた。とにかくレイは、地元が嫌いで仕方なかった。父子家庭、母子家庭はそれなりにいる地域だったけれど、子子家庭なんて他になかった。しかもお姉ちゃんが障害者ときたら、恰好の近所のネタだった。近所どころか父が自営業で市内全体駆け回るような人だったから、町全体のネタだった。役所もスーパーも、どこに行ってもジロジロ見られる。お姉ちゃんを面白がって、ちょっかい出してくる子供も沸く。
家にいたらいたで、
「たまには布団を干したらいいべじゃあ」
「草取りしてけっか? 大変だべ?」
「カレー、つぐってきたよ」
これだもの。
うるせえ! 消えろ! こっつさくんな!
あ──。
また、幻聴──。
箪笥から比較的新し目のポロシャツを三枚出した。棚の上から油性マジックを取り、タグの部分にお姉ちゃんの名前を書いていく。上下各七枚、下着類上下十枚、靴下七足、靴一足、それとあとは何に名前を書けばいいんだっけ?
ポロシャツに名前を書き終えてから、レイは持ち物リストを見直した。ああ、他にもティッシュとタオルと毛布と──、まだまだ準備するものがある。一週間前じゃなくて、もっと早くに持ち物リストを送ってくれればいいのさよ。
レイは買い物の際は車椅子のお姉ちゃんと一緒だった。運転免許も自動車も持っていないから、いつも徒歩移動で店に行って、お姉ちゃんを押して買い物をしていた。だから、大きな荷物を買っても、持って帰るのは難儀だった。どうしよう。毛布は、家にあるこれでいいべがな──。
しばらくして、お姉ちゃんが目を覚ました。
「レイちゃん、おはよ」
「ああ、おはよう」
「レイちゃん、おはよ」
「はいはい、おはよう」
「おはよ、おはよ、あはははは!」
お姉ちゃんは明るかった。希望もなければ不安もないから、とにかく明るいのかもしれなかった。まるでレイとは正反対で、それが時々羨ましくもあった。
「ナツコさんは? ナツコさんは来ますか?」
レイは壁の時計を見た。
「ああ、もうこっただ時間だが。もうすぐ来るごったあよ」
「ナツコさん! ナツコさん、来る! オシッコ!」
「ああ、はいはい」
寝転がったまま股間を押さえるお姉ちゃんを起こし、両脇を支えてトイレに連れて行った。冷たく軋む廊下をゆっくり一歩ずつ歩く。膝から下の筋肉がほとんどなくなってしまったお姉ちゃんは、身体を支えてやらないと歩けない。
ゆっくり、ゆっくり、砂壁の廊下を十センチずつ前に進む。お姉ちゃんが小柄でよかった。レイは身長一五二センチ、お姉ちゃんは一四三センチ。もしこれが逆だったら、もっと大変だったに違いない。
寝床から数メートルしか離れていないトイレに、三分かけてやっとたどり着く。ドアを開け、お姉ちゃんのズボンとパンツをおろし便座に座らせる。
ジョボジョボジョボ。
ハアー。
ジョボ。
ハアー。
当初、ここは和式水洗のトイレだった。しかし、引っ越してすぐに叔父さんにお金を出してもらって洋式のスタイルに替えた。そうでなければ、お姉ちゃんが用を足せないからだ。地元の家では和式のボットン便所に洋式変換便座を被せていた。それが時々外れてズレてしまい、尿が床に漏れることが度々あって厄介だった。
ここに越してきてから幾分トイレの心配が減り、お姉ちゃんの介助のストレスも少し減った。
ジョボ。
ハアー。
お姉ちゃん、ずいぶん髪が伸びたな。そういやいつから髪切ってないっけな。
お姉ちゃんは、しかめっ面で用を足していた。なかなか全部出しきれない。
チロ、チロ。
「ナツコさんは?」
お姉ちゃんはしかめっ面のままにレイに聞く。
「もうすぐ、くっこったーよ」
チロ、チロ。
ここ最近、尿のキレも悪くなってきている。膀胱の筋力も少しずつ低下が進行しているんだべな──。
チロ。
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