ホームヘルパー ナツコ(4)

 トシアキは目を潤ませていた。息はさらに荒々しくなり、喘ぐ声も高く震え始めた。身躯と似合わぬ女のような悶え声を聞く。

 トシアキの子供がほしい──。

 よがるトシアキを見ていると、だんだんにナツコも興奮し始めた。トシアキの喘ぎ声に呼応するようにして、ナツコも細かく吐息が漏れた。

 ボクサーパンツから手を抜き、黙って緑のTシャツを脱がした。トシアキの美しく逞しい上半身が剥き出しになる──。毎日仕事で触れる、老人の萎れた身体とはまるで違う、耽美で強靭な若い肉体──。

 ナツコは右手の五本の指を少し強めにトシアキの胸に押し当ててみた。弾力のある皮膚の奥に、硬くしこった大きな筋肉を感じる。トシアキはピクッと胸筋を動かした。反動でナツコの指はほんの一ミリ胸から離れ、空気の層に軽く触れた。

「ねえナツ。下を、触ってよ──」

 トシアキは上擦った声でナツコに懇願した。ナツコは横に首を振ったあと、

「ダメ。今はこの身体に触れていたいの」

と答えた。それからすぐ、まだ何か言って強請ろうと開くトシアキの唇に、舌を奥まで強くねじ込み、高圧的に封じてみせた。

 先週、駅の改札で消防学校に戻っていくトシアキを見送ってから六日が経った。この六日間、ただひたすらに長く感じた。この温もりに、ナツコは触れたくて触れたくてたまらなかった。

 ナツコはトシアキの身体を、味わうようにゆっくりと撫で回した。

 これほど完璧なものがこの世に存在するのだろうか──。

 トシアキの存在しない世界なんてものは、有り得るだろうか──。

 そんな世界なら、存在しなくていいのではないか──。

 そもそも、世界は存在しているのか──。

 世界とはなんなのか──。

 もう、何もわからない──。

 ナツコは自ら着ている服を脱いだ。白のセーター、黒のヒートテック、水色のブラジャーを気早に脱ぎ、上半身裸になった。トシアキに強く抱きつき、首筋に軽く噛みついた。頭の中は、まるで雪が深々と積もるように、ゆっくり白くぼやけていった。

 恋をするとナツコはいつもこうだった。それで幾度と失敗しても、学習することはできなかった。いや、わかっていても恋愛に依存してしまうのだ。治したいと思っても治らないのだ。

 トシアキがいなければ冷静でいられるのに、客観的に物事を観れるのに、合理的な判断を心がけることができるのに──、トシアキが目の前にいるとバカになる。トシアキに会えると思うとアホになる。トシアキに会いたいと思えば思うほど、自分がどんどんマヌケになる。

 恋をすると、苦しさと気持ちよさの違いさえわからなくなる。ボーナスが入る公務員のトシアキに、どうして月給十六万円ボーナスゼロのナツコが全額自腹で料理を提供しなければならないのか。火曜あたりはそんなことを考えたりするけれど、水曜木曜になるとただトシアキに会いたい、会いたい、会いたい。それだけ思っているうちに時間が過ぎてしまう。

 金銭的には苦しい。でも、こうやってトシアキに触れるのは気持ちいい。愛することが気持ちいい。愛されていると感じることが何よりも心地よい。全ての不安が消滅する。お金なんてどうでもよくなる。先のことを考えられなくなる。永遠にこの時間が続いてくれればいい。それ以外のことなど、本気で何も考えられなくなる──。

「ねえ、ナツ。まだ? 俺もう、限界」

「まだ──」

 きっと母も同じだったのだろう──。

 ナツコの白くぼやけた脳内に、ほんのうっすら母の記憶が過る。

 ナツコの母は、幼いナツコを家に置いて、恋人の元に何日も行って戻らないことが度々あった。たった千円をテーブルの上に置いて、一週間帰ってこないなんてこともザラだった。母も同様、恋をすると他に何もできなくなる人だったのだろう。

 ナツコの中には、母と同じ血が流れている。ナツコは今、かろうじて仕事はしている。食っていくためには働かなくてはならないから。だけど、今勤めている事業所はこの十年働いてるうちで十三ヶ所目だ。恋で落ち込むたびに、それで頭がいっぱいになって、仕事をとにかくリセットしたくなって、勤めている事業所を辞めてしまう。

 母もスナックやパブを転々としていた。恋に傷ついて涙を流すたびに、どんどん自宅から離れた飲み屋で働くようになっていった──。


 体勢を整えるため、ナツコはトシアキから身体を離した。カーテンの隙間から窓の外が見えた。もうすっかり、空は夜の色に変わっていた。一滴の雫が結露の硝子に一筋の線を引く。さらにもう一滴、もう一滴と、窓にかかった薄っぺらな結露を、削り取るようにして水滴が堕ちていく。ナツコはそれをぼんやりと眺めた。

「ナツ?」

「ん?」

「まだ?」

「んん」

 ナツコはトシアキの胸筋と胸筋の間の筋を、そっと人差し指で縦になぞった。トシアキはビクッと身体を震わせ身を捩った。瞳を閉じる。トシアキを、ただトシアキを感じるために──。

 しかし瞼の裏に浮かんだのは、スーパーで壁中に貼られていたクリスマスチキンの予約広告だった。

 煌びやかに照る若鶏のローストチキン!

 一九八〇円!(税抜)

 なぜ浮かんだのかはわからなかった。考えようともしなかった。どうでもいい。もうなんでもいい。トシアキ、トシアキ、トシアキ、トシアキ、トシアキ!

「お願い、舐めて──もう本気で無理。出そう──」

 トシアキはそう言って、ナツコが許諾の意思を表してないうちに、片腕で身体を支えながらボクサーパンツを脱ぎ始めた。脱ぐ寸前で、パンツの上から先の皮を剥くのがトシアキがよくする仕草だった。ナツコはそれを目を虚ろにしてただ見つめていた。

 ぐしゃっと丸められたボクサーパンツは、テレビのほうへと放っぽられた。ナツコは手元にあったリモコンで、黙って電源を切った。

 トシアキは座布団に正座で座りなおしていた。ナツコがなかなか陰茎に触れないものだから、もう自分で揉み擦りだしていた。

 ナツコはトシアキの乳首を爪で弾きながら、トシアキのオナニーの姿をうっとりとした眼で観察していた。筋肉が浮き出た太く逞しい腕とは裏腹に、華奢な茎が愛らしかった。太ももの膨らみに反してあまりにも小さいから、虚弱でひ弱にさえ感じてしまう。ピンと天を向き、フルサイズになっていてるけれど、ハツカネズミより少し小さい。しかし問題でもなんでもない。初めて見たときは少し驚いたが、挿入自体、別に好きでもないナツコは、そんなことはどうでもよかった。トシアキは気にしていたが、それはナツコにとって、本当に本当に、まったくまったく問題でない──。

 トシアキは激しくペニスを擦り続けていた。喘ぎ、呻くたびに、腹筋と胸筋が上下にポンプした。

「もうダメだ、出る!」

 トシアキは顔を真っ赤にし、切なげな表情で言った。ナツコはその声を聞いて反射的に身体を伏せ、尻を高くあげた体勢でトシアキの先っぽを口の中に含めた。意志や思考、そんなものが身体を動かしたわけではない気がした。その瞬間、まるで何者かにハッキングされたような感覚だった。本能、あるいは遺伝子からの指令によって動かされている不思議な感覚──。とにかくナツコは、その瞬間は何も考えてはいなかった。ただ動いている、動かされている、システムの中に組み込まれ、流れに身を任すしかない──。そんな感覚だった。

 トシアキのペニスを頬の内側を潰して真空に吸い上げ、舌を右に左に回旋させた。上唇と下唇を左右にバラバラにスライドさせて根元を擦りながら上下に頭を動かし続けた。

 どのぐらいの時間、それを続けたのかはわからない。ほんの十秒かもしれないし、もしかしたら十五分や二十分かもわからない。

 トシアキは「イク」と小さく言って果てた。それからしばらく大きく吐息を漏らしていたが、呼吸が落ち着いてきた頃に正座を崩し、そのまま床に横たわった。

 ナツコはそれをじっと見て何もしゃべらなかった。それから黙って、そっと冷蔵庫のほうに向かった。

 扉を開けて、空の製氷皿を取り出す。口の中に溜まった、たっぷりの精液をそれの中に吐き出した。二つ分の窪みに白濁したそれがたぷたぷと揺れるのをナツコはじっとしばらく見た。

 後ろを振り返る。トシアキはナツコを気にする様子もなく、ただ冷凍マグロのように、横たわっているだけだった。

 スマホのバイブが、ナツコの鞄の中で鳴っている音がした。

 ナツコは鞄からスマホを取り出した。母からメッセージが入ったところだった。


《お給料はもう入った? 今月はちょっと多めにほしいです。できれば月曜日の午前中に下ろしたいので振り込み予約をしてもらえれば助かります》


 ナツコは返信しないまま、スマホを鞄に戻した。

 トシアキに抱きつく──。

「私のこと、好き?」

「当たり前でしょ──」

「本当に?」

「決まっているじゃないか──」

「ずっと好き?」

「うん」

 トシアキの体温を感じながら、ナツコもただ横たわった。脳の奥の底のほうから、ジーという単調な音だけが耳に響く。それを聞きながら考える。

 再来週、排卵日か──。

 クローゼットのほうを見る。衣装ケースの中に、まだ三つコンドームがあったことを思い出した。

「再来週はクリスマスだね」

「うん?」

「プレゼント、何がいい?」

「ええ、なんだろう──」

 ナツコはトシアキに強く胸を押しつけ、泣いてしまわないように歌を歌った。泣きたくなったのは、お金がないからなのだろうか。泣きたくなったのは、トシアキと自分の差のせいだろうか。

 何も考えたくなかった。だから歌う。ただ、歌う。


 “あわてんぼうのサンタクロース クリスマス前にやってきた”


 ナツコの震えた歌声に、トシアキも呼吸を合わせて歌を歌った。


 “いそいでリンリンリン いそいでリンリンリン

 ならしておくれよ鐘を リンリンリン リンリンリン リンリンリン” 


 歌の続きが見当たらない、シンと物音が消えた一室。子供の頃に耳を澄まして聞いていた、母の鍵についた鈴の音が蘇るようにして聴こえた気がした。玄関の向こうに母はいない。サンタもトナカイもいやしない。


   *


 “Nobody realizes that some people expend tremendous energy merely to be normal.” − Albert Camus

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