ホームヘルパー ナツコ(3)

「ただいま。遅くなってごめんね!」

 スーパーからアパートの階段まで急いで走ってきたナツコは、息を切らして玄関を開けた。トシアキがいつも使っている制汗剤の匂いと、温められた部屋の空気が、ナツコの頬を嫋やかに包んだ。寒さで硬くなった顔の筋肉が、一気に柔くなるのを感じた。

 明かりのついた部屋に帰ってくる──。ドアを開くと誰かが「おかえり」と言ってくれる──。ナツコにとって、これほど幸せに思えることは他になかった。

 築三十二年、ワンルームの木造アパート。ナツコは十八歳の頃からここに住んでいる。玄関から見てすぐ右側にミニキッチンがあり、左側にユニットバスがある。その向こうに六畳のフローリングが広がっている。家具や家電は必要最低限しか置いていない。部屋に常に出ているのは、パイプベッド、テレビ台、電子レンジ、冷蔵庫のみだった。それ以外の折りたたみのテーブルや炊飯器、鍋や食器などは、使うときだけ出すようにしていた。

「七、八、九、十──。おかえり!」

 トシアキは、ボクサーパンツ一枚で全身鏡の前に立ち、坊主頭の後ろで手を組みスクワットをしていた。それはいつものことだった。合鍵を持っているトシアキは、毎週金曜、夕方四時にはこの部屋に着き、ナツコの帰宅を待ちながら、時間つぶしに筋トレをしていた。ナツコは上着のボタンを外しながら、トシアキの身体を上から下へ、下から上へと舐めるように熟視した。

「トシアキ、また筋肉ついたんじゃない?」

「まあね。今週、訓練が厳しかったからさ」

 トシアキは得意げに胸を張り、右手で左胸を叩きながら、ナツコに触るよう合図した。「うん」と頷きながら買い物袋と鞄を床に置く。ナツコは刻み足でトシアキに近寄り、彼の膨らむ胸を触った。

「わあ! すごい。先週より硬くて大きい!」

 ナツコは大げさに喜んで見せた。トシアキはまんざらでもない顔でニヤリと右の口端を上げた。それから何も答えないまま、押し当てられたナツコの冷たい手を握り、

「ナツ──。なんで手袋しないの? 外、寒いじゃん」

とナツコの瞳の奥を見つめた。トシアキは胸からそっとナツコの手を剥がす。それを両手で大事そうに挟み、ゆっくり摩って温めた。ナツコは嬉しい気持ちを隠しきれず、頬を緩ませながらに答えた。

「だって、仕事中はずっとポリ手袋しているでしょう。退勤後も手袋するなんて、なんだかまだ仕事に拘束されている感じがしちゃうから嫌なのよ」

「ええ、変なの。こんなに冷たくなっているのに」

 トシアキはそう言って首を傾げた。ナツコはクスッと笑って「そう?」と言った。つられてトシアキもクシャッと笑った。ナツコはトシアキのその笑顔が、愛しくてたまらなかった。

 そっと手を伸ばし、トシアキの頭を優しく撫でた──。先週より少し伸びた短い髪が、冷たい掌にジョリジョリと触れた。指先で髪をつまんでみる。荒れて乾いた指紋の溝奥に、毛先が刺さる感触があった。何度かチョン、チョンと触れていると、彼のDNAが指先から侵入し、ナツコの中を巡っている気がして、不思議に心が安らいだ。

 いくら仕事で疲れていても、トシアキに会えばすごく幸せな気分になれる──。

「ねえ、キスして」

「帰ってくるなり、随分いきなりだね」

 ナツコはトシアキにキスをせがんだ。それから強く抱きついて、トシアキの背中に爪を立てた。

「お腹空いているでしょう? すぐにご飯の準備をするね」

「うん。楽しみ」

 しばらく抱きついたあと、ナツコはキッチンに向かおうと、サッと後ろを振り返った。

「ちょっと待って」

「ん? なに?」

 もう一度トシアキのほうに振り返る。ナツコの両肩にトシアキの手が触れた。それからトシアキはそっとナツコの上着を脱がした。

「なによ、自分で脱ぐのに」

 ナツコは小さくはにかんだ。

「だって、今日はどんな服を着ているのか気になったんだ」

「普通のセーターよ」

 柴犬みたいに愛くるしい表情を向けるトシアキに我慢できず、ナツコは背伸びし、再び彼の唇に自分の唇を強く押し当てた。


   *


「学校、そんなにきついの?」

「まあね。今日は一人ヘマしたやつのせいで、連帯責任で無限スクワット地獄だったよ。教官も教官でさ──」

 トシアキは坊主頭を掻きながら、キッチンのナツコに向かって、今日の出来事についてペラペラと話し始めた。折りたたみのテーブルを出し、ナツコがゲットしてきたアジフライを食べていた。ナツコはほうれん草を沸騰した湯の中に入れて茹でていた。

「それにさ、ちょっと髪が伸びてるやつがいたんだけど、それにも教官が弛んでいるっていってさあ──」

「──何それ。馬鹿みたいだね」

 トシアキが頭を丸めたのは九月だった。元々はツーブロックヘアだったけれど、十月入校の消防学校の規則で、入学当日には丸刈りにしなければならなかった。消防学校の卒業は三月。それまでずっと坊主でいなければいけないらしい。

 最初その頭を見たときは、たまらず吹き出してしまったナツコだったが、今ではもうすっかりそのヘアスタイルに見慣れていた。

 一通り愚痴を言い終えトシアキは、立ち上がって冷蔵庫の中から缶を取り出した。

「それ、お酒?」

 ナツコは茹で上がったほうれん草をザルに移しながら、チラリとトシアキのほうを見た。

「うん。飲まないとやっていられないよ」

「そっかあ」

 ザルの下にボウルを当て、蛇口を捻る。ほうれん草を水で冷やしながら、再びトシアキに視線を戻した。トシアキは金色の缶を開け、一気に腹の中に注いでいた。それからカーッと大きく息を吐き、缶に書かれた文字を読み始めた。

「それビール? 可愛い缶だね。初めて見た」

「クラフトビールだよ。軽井沢の水で作っているんだって」

「へえ──」

 ザルの水を切りながら、ナツコは心の中で「高そう」とつぶやいた。

 ほうれん草を包丁で切り、お皿に盛りつけた。これでお浸しの完成。材料費は三十円也。しかも湯気で加湿もできた。

 次は豚の生姜焼きをつくるか。そう思ったところで、なんだか部屋の温度が高いことにナツコは気づいた。

 帰宅してすぐはただ暖かいなあと思ったけれど、身体の冷えが落ち着いてくると、どうもいつもと比べて明らかに暑い。

 ナツコは部屋に戻り、ベッドの上からエアコンのリモコンを手にとった。画面には設定温度が二十四度と表示されていた。ナツコは慌てて、

「ちょっと、勝手に設定温度変えないで。びっくりした」

とトシアキに言った。

「ええ、だって寒かったんだもん」

「パンツ一丁でいるからでしょう。服、着なよ」

「それもそうだね」

 ナツコは急いで設定を十八度に設定を戻した。トシアキはニヤつきながら、ナツコの尻に手を伸ばして撫で回した。ナツコもニヤけながら「やめてよ、もう」と言って、トシアキの手を払いのけた。それから床に直座りのトシアキに、薄い座布団をクローゼットから出して渡した。

「ありがとう」

 トシアキは“NEW YORK HERO”と書かれた緑色のTシャツを着た。下はボクサーパンツのままにテレビをつけ、いくつかチャンネルを替えたあと、適当なニュースを見始めた。

 ナツコはキッチンに戻り、料理を再開しようとした。そのとき、どうも腰の辺りが重だるいような感じがした。もしかして、と思い、振り返ってユニットバスの中に入った。デニムと下着を一緒に下ろし、便座に座り、下着を確認する。しかし、血はついていない。

 トイレットペーパーを巻き取り、陰部を拭いてみた。絶対に来ている──。

「ほら、やっぱり──」

 案の定、月の出血イベントは、たった今から営業を開始したようだった。ナツコは一気に気持ちも身体も重くなるのを感じた。

 取り急ぎ、下着は変えずにナプキンだけ装着してキッチンに戻った。トシアキは二本目のビールを取り出し飲んでいた。おそらくそれも、高いクラフトビールだった。

 トシアキはもう酔っ払ったのか、テレビに向かって何かぶつくさ言っていた。

「どうしたのよ」

 玉ねぎを右手に持ちながら、ナツコはトシアキの様子を伺った。

「公務員のボーナスがアップしたって今ニュースでやっていたんだよ」

「へえ、そうなんだ──」

 テレビの画面を観ると、もうそのニュースは終わっていた。どこかの動物園で生まれたらしいカワウソの赤ちゃんの映像に切り替わっていた。

「公務員っていっても国家公務員の話だけどね。俺は地方公務員だから関係ないっちゃないかもしれないけれど、なんか腹が立ってさあ」

「どんな内容だったの?」

「それがさあ、ボーナスアップについてどう思いますかって、街の人にインタビューしていてさあ──」

 トシアキは顔を紅くしながら、文句を垂れ始めた。

 まだ消防学校の学生といえど、トシアキは既に公務員として給料をもらっていた。冬のボーナスも満額ではないが出るという話は以前にしていた。こういった類のニュースに敏感になってしまうのも無理もないかもしれない。

 トシアキは続けた。

「国の借金が膨れ上がっているのに公務員の給料を上げるのか、とか言って怒っているオッサンが映ったんだよ。そうやって公務員叩きする人、めちゃくちゃ多いんだ」

「そうだね。利用者さんでも結構そういう人いるもの」

「税金を無駄遣いしやがってって言いたいんでしょ? 公務員の給料が無駄遣い? はあ? 意味がわからないよね。ていうかさ、税金だったら公務員だって払っているっつうの。そういうこという人ってさあ、じゃあどれだけ税金を納めているのって話だよ。どうせ大して納めていないだろうが。そういう人が、俺の血税ヲーとか言って公務員に食ってかかるのはさあ、頭イカれているとしか言い様がないよ」

 ナツコは、ただ黙って聞く他なかった。

「だいたい、民間に合わせて設定している給料なんだけどね。そんなに言うならお前が公務員になればいいだろう。なれなかったからそうやって言っているんだろう? 嫉妬だよね、正直言って」

 トシアキは、目まで真っ赤にして興奮していた。それからさらに、ヒートアップして何か愚痴愚痴と言っていたけれど、ナツコはただ「うん、うん」と頷くだけの人形みたいになってしまっていた。

 ナツコは、消防官は立派な仕事だと本気で思っていた。要救助者を助ける重要な仕事で、尊い仕事であることは間違いない。反面、要介護者を介護している介護職という自分自身の仕事が、トシアキと付き合いだした頃から、本当に必要なものであるのか悩むことが時々出てきた。

 消防官は人の命を助ける高貴な仕事だ。それはきっと、間違いない。火事、救護、災害時にもいなくてはならない存在で、だからそれ相応のお給料がもらえるのだ。だけど、介護職は──。未来のない、死にゆく命ばかりを世話している薄給の介護職ってどうなの? 本当は、必要ないんじゃないの?

「ねえ、トシアキ──」

「ん?」

 ナツコは、手に持ったままの玉ねぎをまな板置き、トシアキの隣に静かに座った。

「私のこと、好き?」

 ナツコは不安になると、こうやってトシアキに確認する。気持ちを落ち着かせるために。

「そりゃ、好きだからこうやって毎週会いに来ているんじゃないか」

 その言葉に安堵し小さく微笑む。安心したいがためにこんな質問をしてしまう。もうここ最近、毎週のことだ。

「私のこと、必要?」

「必要に決まっているよ。ナツがいなくなったら俺、どうしていいかわからない」

 ナツコはそれからただ黙った。何分黙ったかわからない。そんなナツコを気にかけ、トシアキは優しくナツコの髪を撫でて抱き寄せた。ここ最近の乾燥のせいで、ナツコの髪の毛先は値引きの万能ネギみたいにパサパサとしていた。だけどそれはどうしようもなかった。以前に自分で切って失敗したからそれは無理だし、美容院に行くのだって、結構お金がかかるんだ──。春まで我慢する。春になったら、三センチ切る──。

 カワウソの映像からラッコの赤ちゃんの映像に切り替わった。白いタオルの上にチョコンと乗ったラッコの赤ちゃんは、まんまるで、毛がホワホワで、目がつぶらで、どことなくトシアキに似ているような気がした。

「可愛いね」

「そうだね」

 ナツコはトシアキの肩に頭をもたれ掛け体重をかけた。それからゆっくりボクサーパンツの中に手を入れた。トシアキの僅かにしか生えていない薄い陰毛に優しく触れる。

「なんだよ、くすぐったいよ」

 トシアキはナツコの手を退けようとしたが、ナツコは絶対に退けてなるものかと腕に力を入れ、そのまま陰毛を触り続けた。

「どうしたの、急に──。エッチしたくなっちゃった?」

 トシアキは身を捩りながら笑って言った。

「無理だよ。生理だもの」

 トシアキの下腹部のラッコは、むくりむくりと段階を踏んで大きくなっていった。トシアキは最初「やめてよ」と言っていたけれど、だんだんに全身に力を入れるようになり、しばらくして息を荒げ始めた。

 ──要介護の老人の、萎びて力ない身体とはまったく違うトシアキの身体。強くて逞しくて、ハリがあるトシアキの身体──。

 ナツコは少なからず焦りがあった。今どき三十までに結婚したいなんて考えは古いのかもわからない。だけど、ナツコは早く温かな家庭を築きたかった。それが子供の頃からずっと変わらない夢であった。

 陰毛を撫でながら考える。ホームヘルパーなんか、もう辞めてしまったほうがいいのではないだろうか。子供を産んで、未来ある若い命を世話しているほうがよっぽど社会のためになるのではないだろうか。

「ねえ、ちゃんと、触ってよ──」

 トシアキは段々に小さな喘ぎ声を漏らし出していた。

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