ホームヘルパー ナツコ(2)
ナツコは回れ右をした。BGMに合わせ、あわてんぼうのサンタクロースを口ずさむ。そうすることで、心の中のざわつきが和らぐ気がした。事実、思い出す必要のない、記憶の奥底に沈めた“アレ”を思い出さずに済んでいた──。
訪問介護の現場では、本当に色々なことがある──。利用者の死に直面することだって珍しいことではなかった。例えばほんの三十分前まで生きていたという、九十二歳女性の、まだ微かに残る布団の中の体温。眠ったまま朝に息を引き取った、大腸癌ステージⅣの六十五歳男性の安らかな死に顔。認知症で子供返りしていた八十三歳女性の、目の前での心疾患突然死。
これまで出くわした利用者の死──。看取ることになったのもあれば、そうでないものもある。ナツコはクリスマスソングのおかげで、死に顔を見た利用者四名のうち、三名を思い出しただけに止めることができた──。
いつかの真夏に訪問した屋敷の──、ドロドロに腐り原型を止めていない遺体の強烈な甘酸臭──、体液が滲み畳が黒ずんだ上を大量に飛ぶ蝿や蛆──、ご家族がご遺体に向かって放った心無い酷い言葉──、あの夏の日の“ソレ”を、一切思い出さずに済んでいた。
必死で歌って、接合しかかった記憶と記憶をドン、ドンと断ち切ることができていた──。
“あわてんぼうのサンタクロース えんとつのぞいて落っこちた
あいたたドンドンドン あいたたドンドンドン
まっくろくろけのお顔 ドンドンドン ドンドンドン ドンドンドン”
ナツコの歌声は、鼻歌にしては少し大きめだったかもわからない。しかしそれでよかった。恥ずかしいなんてことはない。この街で誰が自分に注目するわけでもない。ここはナツコの地元ではない。それに──、そうすることがナツコに今できる最善の選択だった。
ナツコの手には、じとりと汗が滲んでいた。
何も知らない。私は何も見ていない。
何も、何も、何もなかった──。
私は何も思い出さない──。
ほら、思い出さないでしょう──。
私はもう、大丈夫──。
湿る指先をこすり合わせながら、急ぎ早に青果コーナーに向かって歩いた。本当なら、入店したらすぐに青果コーナーを回るのが普段の買い物の順路だった。だけどこの日は金曜日で、彼氏のトシアキがアパートに泊まりに来る曜日だった。トシアキからLINEでアジフライを買ってくるように頼まれていたため、特別にこの日は惣菜コーナーを先に見ていたのだった。
レジに並ぶ客の列を避けながら進むと、煌びやかにライトアップされた数種のいちごが並ぶのが見えた。とちおとめ、さがほのか、紅ほっぺ、あまおう。最安値は五九八円、一番高価なのは九八〇円だった。先月までこの辺りは、白菜やきのこ、ねぎや春菊が並んでいたのに、十二月になった途端に紅色一色にすり替えられた。
ナツコはいちごコーナーを視界に入れはしたものの、足を止めることなく、さらに奥のおつとめ品コーナーに向かった。
フルーツなんて、最安値でさえ手が出ない。月に一回バナナを買うのが関の山だ。これはきっと仕方がないのだ。だってフルーツは、家族で分けあって食べるものだもの。普通の家族が食べられる、普通という名の特権階級の食べ物なんだ。そう思って諦めるほうがずっとラクよ──。
一パック三九八円のアメリカ産ぶどうの値札を、通りすがりに横目で睨む。例えば普通の四人家族で分けて食べたら一人百円。一人で食べたら四百円。
無駄、無駄、無理! 絶対に無理!
食べたいとは思うけれど、そんな大金を出すことと秤にかけたら、トシアキとのデート代に回したほうが断然いいわ!
新鮮な果物や野菜の前では一切足を止めることのないまま、ナツコはおつとめ品コーナーに到着した。青果コーナーの店員出入り口前に設置されているワゴン。その中の野菜たちは、ライトを浴びることもなければ、綺麗に並べられることもなく、ただ雑に放り投げられていた。
一通り目を通す。黒ずんだ椎茸、先っちょが枯れた万能ネギ、熟れすぎて弾かれた高級柿、大根の先のしっぽの部分、袋の隅に水が溜まった半分溶けたもやしが置かれていた。中をかき分けると、萎びたほうれん草と小さめの玉ねぎが目に入った。よし、ええと、これを買うかな。
ナツコは大根と玉ねぎを手に取った。何を作るかは決めていない。というか、何を作るか決めてから買い物に来ると、元値の食材を買わざるを得なくなるからバカバカしいと思っている。
「買うものをメモして、それしか買わないと決めて買い物に行きましょう。そうすれば無駄なものを買わずに済みます」
そうテレビでおっしゃっていた節約家は、本当に節約生活しているのだろうか。ナツコはこの間テレビでやっていた「節約生活で年間十万円楽々貯金スペシャル」を思い出していた。それに出ていた節約家を自称する小綺麗な四十代の女性。その人は、少なくとも節約に迫られている雰囲気ではなく見えた。ナツコの目には、ただの趣味で節約しているだけに見えていた。買うものなんか決めてスーパーに出たら、物価の高さに絶望するだけではないか。アホ。
ああいう番組は、参考になると見せかけて──、参考になる情報がひどく少ない。タイトルで期待させて、最終的にいつもナツコは裏切られている。今回も、子供騙しもいいところのひどい内容だった。
だって──、伝線したストッキングで年末の窓掃除って? そんな使い古された豆知識、いったいいつまでやり続けるわけ? スポンジに切り込みを入れて窓のサッシをキレイにお手入れ? おいおい、番組のタイトルからズレるんじゃねえよ。食材まとめ買いで大幅節約? 節約に迫られている人はまとめ買いするお金がないんだけど。無駄なものを買わずに済みます? だから、おい! 無駄なものを買ってる余裕なんてないんだよ!
ナツコは大豆製品コーナーを通り過ぎながら、頭の中でこう叫んだ。
「何が節約家だ。こちとら貧困家だ、舐めないでちょうだい!」
それから大きく溜息を吐いた。腹が立ったせいか、贅沢とは思いつつも三十九円のいつもの絹豆腐ではなく百二十八円が半額になった国産大豆の絹豆腐をカゴに入れていた。自分の矛盾が気持ち悪い。頭の中で貧困家だと叫んでいながら、たまには高い豆腐を食べたいと思う──。だけど、それを許せない自分はもっと気持ち悪い。少しは緩く生きることを覚えないと──。たまには──、いいんだ。いいんだ──。
このところ、ナツコは怒ったり悲しんだりすることが多くなった。どうしてこうなってしまったのだろうか──。
今月、ナツコは三十歳になる。ホルモンバランスのせいだろうかと考えるも、わからない。まだ認知症の方みたいに前頭葉が萎縮するような年齢でもないのに、一体どうして──。
考えながらも早足で鮮魚コーナーを通り過ぎる。それから精肉コーナーに急いだ。
カナダ産の豚肩切り落としが全品二割引だった。ナツコは、一番小さいサイズのものを探し出しカゴの中に入れた。それから牛肉コーナーに移動し“ご自由にどうぞ”と書かれた無料の牛脂を手に取りカゴに入れた。最後に、卵が並ぶワゴンの奥を覗き込み、賞味期限が一番先のものに手を伸ばした。これで買い物は終わり。後はお会計をするだけだ。
「四百三十二円になります」
「カードでお願いします」
「お支払い回数は一回でよろしいですか」
「はい」
会計を終え、ナツコは慌ただしく袋詰めを終えた。それからトシアキに「もうちょっとで帰るね」とLINEを送り、急いで出口に向かった。
自動ドアの前にご意見箱のコーナーが設置されている。そこに、さっきの五十代の水商売男がいるのにナツコは気づいた。男は記載台の上でペンを持ち、“お客様の声”の紙に顔を思いっきり近づけ何かを書いていた。書き損じてぐちゃぐちゃに丸めた紙が二つ、台の右上に置かれているのが見えた。
ナツコは気づかれないようにそっと近づき、何を書いているのか覗きながら通り過ぎることにした。この男は、アジフライを持っていたという理由以外にも、なんだか気になる存在だった。理由はわからない。ただ、とにかく気になる男であることには違いなかった。
あと一メートル、五十センチ、三十センチ──。ほんの一瞬見えたのは“西村という店員”と書かれた文字だった。罫線の幅いっぱいに広がる、大きく汚い文字だった。それ以外は何も見えなかった。
西村というのは、惣菜を並べていたあの色白の背高の店員のことだろう、とナツコは察した。ここの掲示板にクレームが張り出されているのは知っていたけれど、実際に書いている人を見るのは初めてだった。どんな人が書いているのかと思っていたけれど、こういう人だったんだ──。へえ、ちょっと意外──。
ナツコは自動ドアを出ようとした。と同時に、男児を引っ張って連れる太った母親が、冷たい風と一緒に入ってきた。先にその親子を中に入れる。母親のほうは小さくはにかみ、軽く会釈をしていた。ナツコもつられて会釈をし、それから急いで外に出た。
五時に仕事を終えスーパーに入ったときは、ただ青だけの空だったのに、二十分もしない間に、青と橙と濃紺色が入り混じった、カワセミ色の空に変わっていた。
ああ、もうすっかり冬だ──。
ナツコはこの複雑な色の空が昔から好きだった。理由はわからないけれど、この色の空を見るとすごく気分が落ち着くのだった。
トシアキからLINEの返事が返ってきている。
「うん。待ってるね」
寂しそうに潤ませた目のウサギのスタンプが、同時に送られてきている。
「あと十分だよ」
ナツコも目を潤ませたクマのスタンプを送り、小走りぎみで家路を急いだ。
所山駅東口。スナックやお触りパブ、ガールズバーやデリヘル待機所の並びを抜けたすぐ先に、ナツコの住んでるアパートがある。
トシアキが待っている。トシアキに早く会いたい──。トシアキ、トシアキ、トシアキ、トシアキ、トシアキ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます