ホームヘルパー ナツコ(1)

「兄さん! これ、半額にならないのかい!」

「ああ──、揚げ物はまだですね」

 五十代のスーツ姿の男性が、二十四、五の背高男性店員に絡んでいる。店員は新しくつくられた菜っばやゴボウのおかずを並べに、店の奥から出てきたところだ。

 店員は、男の顔を見なかった。男が手に持つアジのフライのパックだけ、ちょろっと一瞬見ただけだった。その態度にムッとした様子で、男はフライを店員の顔前に突き出し声を荒げた。

「わかった。半額は無理なんだね! じゃあ二割引で勘弁してやるよ──なあ? って、あれ? おい! 待てよ兄さん!」

 男は、店員に無視された。

 店員は気怠げに四段のカゴ荷台を押しながら、奥の方へと向かっていった。

「なんだお前、ふざけた態度を取りやがって」

 男はそう言って店員を追いかけようとした。しかし、自分が履いてる尖った靴の先っぽに躓き、危うく転びそうになって止まった。男は、ガマガエルが四股を踏んでいるような体勢で、

「何だよ──ったく」

と言いながら、罪無き床を睨みつけて地団駄を踏んだ。そうこうしているうちに、店員は奥へ奥へと進んでいってしまった。

「いらっしゃいませー」

「あ、すみません」

「いらっしゃいませー」

「おお、びっくりした。ごめんなさいね」

 今夜のおかず探しに夢中な主婦らは、基本、商品のことしか見ていない。そんなものだから、店員が押す大きな荷台が藪ヘビ的に現れて、驚き反射で身を縮める。それから間もなく一歩ずれ、通路を譲って品定めに戻る。それはスーパーではよく見る光景だった。

 ナツコは思う──。

 店員という生き物は、絶対に客に「退いてください」とは言わない。「いらっしゃいませ」あるいは「すみません」「失礼します」と言って、客に察してもらうのが常だ。それはスーパーだろうが服屋だろうが、レンタルDVDの店だろうが、日本全国どこの店員もみんな同じだ。いや、店員だけじゃない。社会に溶け込む大半の大人は、本当の望みは口には出さない。出すことなんて、きっと、たぶん、できないのだ。本心はいつも隠される。都合のいい、聞こえのいい、別の何かで覆い隠す。社会はそうやって成立している。世界はそういう風にできている──。


 ホームヘルパーのナツコの口癖は「介護の仕事は観察力が大事なの」だった。子供の頃から、ナツコは観察力に自信があった。例えば小学校の担任が、馬鹿にされて、授業中にクラスの男子からベランダに締め出されたとき「もうこの人は限界だ。明日から学校に来ないかもしれない」と思った。そしたら本当に、翌日から休職してしまった。他にも、中学の頃のバレー部の先輩がいきなり金髪にして、間もなく学校に来なくなったとき、「やばい人と付き合っているな。孕まされて子供産んでたりして」と思った。そしたら本当に妊娠していた──。

 そんなものだから、十四歳かそこらの頃は、ナツコは本気で占い師にでもなれるのではないかと思っていた。しかし、なる方法がわからなかったし、高校を卒業する頃にはそんなことはさすがに考えなくなっていたから、普通に高校に求人が出ていた介護の仕事の職についた。

 

 ナツコはスーツ男に注意を払いつつ、店内をぐるりと見渡した。

 照明がいつもより明るいのは、クリスマスシーズンだからだろう。先月とは打って変わって、チキンやケーキの予約のポップが、あちらこちらに貼られまくってる。ここまでくると、もはや狂気だ。壁を全面埋めるばかりか、天井にまで貼られている。店のひどい悪ノリに、ナツコは思わず苦笑を浮かべた。先月オープンした、近くのライバル店に負けじと頑張っているのだろうか。だとしたら、こんな学生のお祭りみたいな販促のしかた、この街でやったところで裏目に出るのでは──。まあ別に、どうでもいいのだけれど──。

 スーツの男に視線を戻す。固めた髪が崩れてないか、心配する仕草を見せていた。触らなければよかったものを、さっきまでバッチリだった髪型に指がひっかかって一部崩れてしまった。ビタッと頭皮に張りついたオールバック。それの左のこめかみ近くから、ピヨッと毛束が一本飛び出たのだ。

「ああ、ったく──クソ野郎が」

 男が水商売関係の者だというのは、ナツコは最初から気づいていた。普段であれば、こんな風に大声を出している客を見かけたら、職業柄、認知症か精神障害者の方だろうかと思って観察するのだが、風貌がそれとは明らかに違っていたし、だいたい、誰がどう見ても水商売以外の何者でもない姿形だった。

 男はきっと、買った惣菜や弁当を憩いの広場で食べてから出勤するつもりなのだろう。憩いの広場とは、出入り口のすぐ脇にある休憩コーナーのことだ。水や緑茶はセルフサービスで無料で飲める。飲酒は禁止だと貼り紙があるのに、この夕方の時間帯、水商売の人が、よくそこで酒を飲んでいるのを、幾度とナツコは目撃していた。

「おいおい、待ちなよ! 兄さんよ!」

 髪を手ぐしで直しながら、男は声を上げ、がに股走りで店員を追った。ひどく不格好に見えるのは、短足だからか、それともスーツに着られてるからか──。

 ナツコは心の中で「待って! アジフライ!」と唱えながら、男の手に握られたアジフライを追いかけた。

 ナツコは自慢の観察眼で、男がアジフライを手放すことを確信していた。あの人は、ただ怒りたいから怒っているだけ、そう思ったのだ。本当はアジフライなんかほしくないに決まっている。どこか寂しげなオーラ、とにかく誰かにイチャモンをつけなければ気が済まない、そんなオーラ。ナツコはその男に、ただワガママを言いたいだけの、訪問介護利用者と同じニオイを感じていた。


 最後のアジフライ、私の、私の、アジフライ!


「兄さん、ほらこれ! 衣がベチャベチャだよ。本当に午後四時以降に揚げたのかい?」

「はい」

「本当かねえ? 怪しいものだよ」

「そうですか」

「なんだい、そうですかって」

「あの、値引きは無理ですよ。決まりですから」

 少し離れた場所から、男と店員のやりとりをナツコは伺った。そのとき、店内のBGMが恋人たちのクリスマスからあわてんぼうのサンタクロースに切り替わったことにナツコは気づいた。その瞬間、心なしか周りの客たちの歩く速度が上がったような気がした。

 私だって早く帰りたい、ナツコもだんだん気早になっていく。

 立ち止まるナツコの目の前には、枝豆や焼き鳥が並んでいた。そんなものにはまったく興味はなかったが、一応それらを選ぶフリをしつつ、男がアジフライを手放す瞬間を待った。早くしてよ、もう──。

 店員は、まるで野良猫でもあしらうような態度で男に接していた。さすがに「シッシ」とか「あっち行け」とは言わないものの、言っているも同然の態度だった。まず、男の方には見向きもしない。長い腕をダランダラーンと動かしながら、気だるげに惣菜を並べていた。細くて背が高い店員だからか、動きがやたらスローリーで、なんだかナマケモノのように見えた。なんなら、男を煽っているようにさえ見えた。

 案の定、男は腹を立てた様子で、

「あのさあ、お前、やる気あんの?」

と店員に噛みついた。ナツコは枝豆を見つめながら息を飲む。というより、いい加減にしてほしかった。ナツコには、そのアジフライを急いで買って帰らなければ理由があった。

 男は続けた。

「俺、この店に三十年以上は通ってるんだけど、ここまで落ちぶれて悲しいね。店員の元気もないし、あっちのサービスカウンターのやつらはいつもおしゃべりしている。しまいにはなんだ? この時間にはとっくに値引きしていたくせに、最近は何をトチ狂ったのか、割引の代わりに午後四時以降につくったシールだ? 客単価をあげようって魂胆か? ふざけるのもいい加減にしろよ? つくりたてなんてそんなもん、客は求めていないんだよ。安さがウリの店だろうがここは。揚げたてが食べたかったらそこらの定食屋に行くんだよ、少なくとも俺はそうだ!」

 思いっきり唾を飛ばしながら、男は罵声を飛ばし続けた。──本当に、早いところ消え失せてほしい。どうせそのアジフライは半額にも二割引にもならないんですけど。どうせ買わないんでしょ? イライラしているからって、それを店員さんに当り散らさないでほしい。早くそれをそこに置きなさいよ。早く帰らないと、トシアキが家で待っているんだから。早くトシアキに会いたいんだから!

 ナツコは小さく溜息を吐いた。

 男は──、再び店員に無視されていた。そうこうしているうちに、男と店員の周りを、夕飯を買いに来た主婦たちが囲み始めていた。

 それもそのはずだった。彼らが立っているのは“今夜のおかずにもう一品!”と描かれたポップの目の前だったのだ。

 男はこれ以上、店員に噛みついても無駄だと判断したのだろう。ただ一言、デカい声で、

「この底辺が! いつまでも此処で、値引きシールを貼りながら生きてろ! 夢もなしにダラダラと、ただ呆然と半額シールを貼って生き続けろ! 生き続けやがれ!」

と言い放ち、アジフライを店員に突き出した。それからサッと踵を返し、こちらに向かって歩いてきた。

 主婦たちは一斉に男のほうをチラリと見ていた。ナツコは「やりい!」と思っていた。と同時に、急いで枝豆を手にとった。あたかも観察なんかしていませんよ、あらまあ今日は枝豆が安い、とでも考えている風な態度を示した。

 スーツの男は、レジの脇を通過し店の外に出て行くようだった。このまま何も食わずに出勤、というわけだろうか──。まあ、そんなこどうでもいい。それよりも急いで買い物をして帰らなくては──。

ナツコは、店員がカゴ荷台に乗せたアジフライを手に取って、

「すみません、これください」

と言いながら店員に会釈した。

「ああ、はい──」

 覇気のない声、血の気のない真っ白な肌、尖って飛び出た頬骨と喉仏、鬼太郎みたい片目が隠れるほど伸びた髪──。

 ナツコは笑顔でアジフライを受け取ったけれど、店員と目が合ったとき背筋がゾクッとするのを感じた。近くで見ると、店員がまるで生きた屍体に見えたのだった。屍体が動いているようにしか見えなかったのだ。

 ナツコは──、これまで、四人の要介護者のご遺体を見たことがあった。そのうち三人は、血の気が引いて顔が白く、唇から色が無くなり、全身の骨が浮き出ていた。店員はまるでそれと同じに見えてしまったのだった。

 ナツコは今月三十歳になる。店員はおそらく四つか五つ年下だ。それはきっと当たっている──。だけど、八十歳や九十歳で亡くなっていった訪問介護の利用者の遺体にそっくりに見えてしまった。悍ましくて仕方なかった。

 ナツコは「ダメダメ」と心の中でつぶやき、首を小さく横に振った。

「さて、と」

 変なことを考えている暇なんて、今のナツコにはなかった。大好きなトシアキが家で待っているのだから。

 早いところ買い物を済まして、家に帰ってご飯をつくらないといけないのだから。

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