スーパーの店員 アキ(2)

「電車、好きなんですか」

 アキはタバコの灰を落としながら、そう尋ねた。

「ええ、好きです。こう見えて、ついこの間まで車掌でした」

 老人は煙の向こうに線路を見ながら、にっこりと微笑んでいた。

「つい、この間まで?」

「ええ。ここを患っていると知るまでは」

 老人は左の脇腹を摩りながら、アキの顔をじっと見た。老人の目は、曇った夜空の満月みたいに輪郭がぼやけて霞んでいた。中心は複雑で、渦潮が巻いているような輪形に見えた。奥行きはなかった。汚れた海のように藻や泥で淀んだみたいな表面は、光を通さず何も語りはしない。目も合わない。合わないというより、ピントをアキに合わせられないといったほうが正しいような気がした。

 アキはその目に見つめられるうちに、いつか見た『カラスのいる麦畑』というゴッホの晩年の絵を思い出した。そう、老人の目は不安定なタッチをしているのだ。孤独と死を象徴したかのようなその目は、斧を振り下ろせない弱い死神のようにも感じた。

 いや、わからない──。少年のようで死神のようで、ただの老人のようで祖父にも似ているこの人が、なぜ今ここで自分に話しかけてきているのか──。それがだんだん不思議、いや、不気味に思えた。偶然だろうことはわかっていた。しかし、なぜだろう。何者かが意図的に、アキの前に誂えたように思えたのだった。

 アキはタバコの煙を大きく吹いたあと、

「車掌の仕事は、楽しかったですか」

と老人に聞いた。老人は掠れた笑い声を漏らした。

「私、変なこと聞きました?」

「いえいえ──」

 老人は口を窄めてタバコを吸い、それから皺くちゃの瞼を微かに持ち上げ、遠くの空を見上げた。

「楽しかったか──。どうでしょうねえ。わかりません。ただ毎日、時間に合わせて電車を動かし、時間に合わせて人を詰め込みました。遅れることもありました。コンマ一秒遅れただけの人を置いて行くこともありましたねえ。罵声も毎日浴びていました。感謝の言葉もいただきました。それはだいたい、身体の不自由な方からいただいていました。それから──」

 老人は答えている途中で痰が絡まり、それから大きく咳き込んだ。顔を顰めて、腹を抑えてしばらくしてから、「ああ」と大きく溜息を漏らした。

「癌の部分を切り取りましてね。それから胃と腸をバイパス手術したのですよ。その傷のところが痛くてねえ」

 アキはそれを聞いて、この人も死んだ祖父と同じ大腸ガンだと察しがついた。祖父は抗がん剤治療で一気に老け込んだ。本当は六十代だったのに、治療開始から半年も経たないうちに八〇歳ぐらいに見えるようになった。もしかしたら、この人も老人に見えているだけで、老人ではないのかもしれなかった。現に、ついこの間まで車掌の仕事をしていたと言っている。七十代に見えるけれど、もしかしたら五十歳ぐらいかもしれなかった。

「タバコなんか吸って大丈夫なんですか」

「いいんですよ。どうせもうすぐ死ぬ身ですから。好きに生きようと決めたのですよ」

「そうですか」

 アキはそう言って、老人と同じに空を見上げた。祖父がガン治療をするとき、同意書にサインをしたのはアキだった。祖母はもう亡くなっていたし、実の息子である父は絶対にサインをしなかった。母も同じだった。

 アキの両親は冷たいとか、極悪非道だとか、そんな風なわけではなかった。むしろその逆だった。優しくて清らかで、困っている人がいれば手助けする、いわゆる立派な、なんというか聖人的な大人だった。

 しかし、サインを拒んだ理由は今ならわかる。

 アキは三ヶ月前、自分の母子手帳を箪笥の奥から見つけた。興味本位でそれを見ると、ワクチンの接種歴が何もないことに気づいた。メモ書きには「娘が高熱でうなされていたが、キャベツ湿布のおかげで翌朝には熱が下がった。自然の力は素晴らしい」などといったものが、いくつも書かれていた。

 思い起こせばアキは病院にかかったことがなかった。それは、病院にかかるほどの病気にかかったことがないからだと思っていた。しかしそういうわけでもないらしい。父母は二人揃って医療を否定している節があった。そんなことに大人になって初めて気づく。なぜ今まで気づかなかったのか不思議だった。だけど、家族なんて案外そんなものかもしれない。

 空は少しずつ夜の色が滲んできて、風もさっきより少し冷たくなっていた。

「この辺りの電車はいいですね。少し、余裕があります。引っ越してきてよかったです。そう、私は電車や地下鉄は好きなのですよ。線路も、複雑に絡まる地下の鉄路も。過密に入り組んでいるのに、乗客数は毎日違うのに、絶対と言っていいほど事故は起きない。不思議でしょう。なぜでしょう。寸分たりとも狂ってはいけない。狂わないのです。狂ってはいけない。それが電車なのですよ。それを考えると、人間とはなんてちっぽけな存在かと思いますね。狂ってこうして、ガンでもタバコを吸うわけですから」

 その人はそれから、「さて」と言ってタバコを消した。

「ありがとうね、お話をしてくれて。癒されました」

 アキは「いえいえ」と言って小さく微笑んだ。その人は、ゆっくりとした足取りで喫煙所を後にした。アキは後ろ姿を目で追った。どんどん小さくなっていくその曲がった背中を、アキはただ眺め続けた。

 人懐っこく喋るところも、じいちゃんにそっくりだった。

 じいちゃんは、ガン発覚時は死ぬのは怖くないと言っていたのに、終末期医療に入ったところで「やっぱりまだ、死にたくないんだなあ。死ぬのがこわい」と漏らすようになっていった。それはアキの前だけだった。他の人がお見舞いに来たときは、あの人みたいにして会話を楽しんでいた。あの人も、本当は死ぬのがこわいだろうか。

 途中、知り合いらしき人に声をかけられ立ち止まったのが見えた。相手はマタニティーマークをカバンにつけた妊婦だった。

 タバコがなくなった。

 よし、帰ろう──。

 父も母も、信仰の座談会で家にいないはずだった。だからアキは、途中でコンビニに寄って、発泡酒とつまみを買って帰ろうと思った。父母が信仰している宗教は、禁欲主義のものだった。酒もタバコも、性の乱れも豪遊も禁止。質素の慎ましく生きるのを善とするものだった。アキはその宗教に所属しているわけではない。強要もされていない。だけどなんとなく、両親がいるのに酒を飲むのは抵抗があった。

 布教の成績がいい父母に連れ立ち、アキは東日本のあちこちを何度も何度も転校した。アキも何度か座談会に連れて行かれた。父母はまるで神様みたいに周りの人から扱われていた。そんな幼少期を経て、今は地元の所山に住んでいる。もう五年になるだろうか。

 田舎でも都会でもない平べったいこの町が、アキは案外好きだった。

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