スーパーの店員 アキ(1)

 クレームすべてに対応したところで、クレーマーを消滅させるなんてできやしない。ひとつのクレームを解消したら、今度はそれに文句を言う人が必ず出てくる。クレームは二つに増えて、余計にややこしいことになる。

 客のすべてにいい顔なんて出来やしない。だからアキは、機械的に惣菜を作り、それを機械的に並べるのみに徹底していた。客に話しかけられても基本は知らない顔をする。それで腹を立てる人はいるけれど、とにかく気にしないようにしていた。

 与えられた仕事は、惣菜を作って並べる、値引きの時間になったらシールを貼る、調理場を掃除する、それだけ。それだけやっていればいいと思う。それ以外にやる必要なんて、ないと思う。

 今日もまた、あのガマガエルみたいなクレーマーが来た。バックヤードから出てくるのを見張っているのだろうか。しょっちゅうあの人に出くわすのが不思議だった。何がしたいのかわからないが、別にわかったところで何になるというわけじゃない。ただそういう人がいる、それだけのことでしかない。

 毎度毎度、そのクレーマーに「兄ちゃん」とか「西村殿」と呼ばれるが、アキは生物学上、“女”だった。身長が高いため、これまで何度も男に見間違えられた。だからといって、別に不快は感じなかった。そんなことは、アキにとってはどうでもいいことだった。

 アキは自分が男でも女でもよかった。恋愛感情というものも、二十六年の人生で一度も抱いたことがない。性別なんてどうでもいいのだ。性別なんて要らないのだ。


   *


 仕事を終えたアキは、店を出てすぐ、駅前の喫煙所でタバコを吸っていた。雨上がりの夕空に桜の花びらが舞っているのを見上げながら、烟と一緒に溜息を漏らした。空気が湿っているせいで、吐いた煙がしばらく視界を半透明にした。

 バスが一台、通って行った。水たまりに散った花びらがタイヤにまとわりついて、道路に花弁の文目をつけた。その軌跡を、白の猫が歩いていく。うどんみたいな足をぬるつかせ、尻尾をふらふらと揺らしながら、ゆっくりと力なく、うつむきながら一歩、また一歩と前に進む。

 猫のゆくえを目で追うと、笠を目深に被って鈴を鳴らす修行僧と、キリスト系の冊子を配る二人組の女性の間を通り、それから向こうの交差点に入った。信号が青に変わるのを、通行人に混じって待っている。アキはしばらくそれを眺めた。だけど、信号が変わったところで、猫の姿は人波に浚われ消えてしまった。

 交番前では、警察官が警棒を持って立っていて、首をゆっくり左右に振って辺りを見渡していた。すぐ近くで女性がナンパされ困っているようだったけど、警官はそれを黙殺した。

 人は多かった。四月始めの夕方っていうのは、所山駅前はいつだって人に溢れている。多分冬の倍以上。なぜかはわからないが人が増える。

 駅の中に吸い込まれていく人と、吐き出される人の割合はちょうど半々で、そのうち二割ぐらいの人は、不安や緊張を誤魔化すように、連れ合いと笑いあっている。

 吹いている風は暖かかった。さすがに初夏とまでは言えないけれど、春の夕方にも関わらず、半袖で歩いている人もちらほらといた。桜の花はもうほとんど散っていて、葉桜から新緑の空に変わる頃だった。

 灰皿に灰を落としたところで、隣にいた老人に声をかけられた。

「火をお借りしてもよろしいかな?」

 七十代後半ぐらいの男性だった。やせ細った杖をついている。いつからいたのかわからなかったが、なんとなくずっと隣にいたような気がした。確証はない。だけど、とにかく、そんな気がアキにはしていた。

「ええ、いいですよ」

 アキはそう言って、ライターを渡した。すると老人は「ええと」と言ったあと、

「すみませんが、火をつけてもらえますかな? 指に力が入らなくて、押せないもので」

と言って、親指を力なく上下に動かした。それを見てアキは小さく微笑み、

「そうですか。どうぞ」

と言って、老人の咥えたタバコに火をつけた。

「ありがとうね」

 老人は少年のように無邪気に微笑み、ぷっかりとした小さな輪っかを顔の前に浮かばせた。それから、駅の向こうの隙間から発車していく電車をしみじみと眺めていた。その眼は、白く靄が霞んでいた。あまり良く見えていないようだ。

 アキはもう一本吸って帰ろうと思って、二本目のタバコに火をつけた。

 老人が、

「お姉さん、電車は好きかな?」

と言った。また顔をクシャクシャにして笑っていた。痩せ細ってハリのない肌なのに、なぜ子供のように見えるのか不思議な人だとアキは感じた。

「電車ですか? 別に好きでも嫌いでもないですよ」

 アキの答えに老人は、声を出さず、うん、うんと首を小さく縦に振った。

「今日は暖かいですね。桜がもう、明日か明後日で散っちゃいますね」

 アキはそう言って、煙を吐いた。なかなか立ち上っていかない煙ごしに電車を見ながら、祖父が死んだときのことをうっすら思い出していた。

 そうか──。この老人は、どことなく祖父に似ているのだ──。

「そうですか。桜は、もう散ってしまいますか」

「ええ」

 桜の花びらの旋風が、また来たバスの後ろを追いかけていた。

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