キワモノM嬢 ポニー(3)
なんでここに、チュウノシンがいるの──。
ポニーは固まった。固まったままに動くことができなかった。口元を拘束され、目にたっぷりの涙を浮かべる全裸のポニーは、もはやトラックに積まれた牛以外の何者でもなかった。
「ママ、今助けるからね!」
「ええ、あええお、いいお──」
ポニーは首を横に振った。状況を理解するまでに時間がかかった。
なぜここに、チュウノシンがいるの──。
実母のところに預けたはずだった。しばらく会わないと決めたはずだった。
夢でも、見ているのだろうか。そう思おうとしたけれど、尻にはヒリヒリとした痛みが確かにあった。これは現実。夢なんかじゃない。
「ママ、ママ、ママ、ママ、ママ!」
チュウノシンは大声で叫び泣きながら胴体に抱きついていた。それから、震える小さな手で、必死になって口枷を外した。それから窓に向かって振りかぶり、強くそれをぶん投げた。口枷は、カーテンにぶつかりヨタリと床に落っこちた。
チュウノシンは、言葉にならない叫びを撒き散らし、捕獲された猿のようにキーキーと甲高く鳴き吃逆った。頭を床にガンガンと、何度も何度も打ちつけた。「ママ、ママ、ママ!」と叫び続けた。それ以外にも何か言っていたが、聞き取ることはできなかった。
パニックになっているのはクニオも同じだった。頭を掻き毟りながら下を向き、発作のような大声で「畜生! 畜生! 畜生! 畜生! 畜生!」と繰り返し叫んだ。ここで初めて、クニオも息子と同じように、何か障害を持っているのではないかと疑った。
息子の甲高い悲鳴とクニオの低い怒号が混じった不協和音が、リビングを縦にも横んも揺らしていた。四分休符みたいな腹でポニーは、体育すわりになって左右にそれを聞くしかなかった。
これは、なんだろうねー。
きっと、お母さんが私のことを追跡してきたんだろうねー。
またかー。お母さん、心配性だからなー。
でも、バスには乗っていなかったよねー。なんでここがわかったんだろー?
「服を、着ようかな」
ポニーはそう言って、畳んだ服の前に膝で移動した。血の気が引いたせいか、気分もずいぶん冷静になっている気がした。もう涙は出なかった。立ち上がり、腹まで覆うデカいショーツを履く。それから、幼稚園帽が二つくっついたような巨大なブラジャーを、カポ、カポと胸に着けてフックをかけた。ロングスカート、ババシャツ、スウェットを順に着た。
着替えが終わる頃には、クニオの叫びは収まっていた。鬼の形相でポニーを睨んでいるのに気づく。ポニーはお決まりの口癖、
「ごめんねー」
を言ったあと、
「なんでだろうねー」
と小さく言った。
「ママ! ママ! ママ! ママ! ママ!」
チュウノシンはずっと叫び続けていた。ポニーの声は、おそらくこの声にかき消され、クニオの耳には届いていなかった。クニオはただ、息を荒げたままにポニーを凄まじい顔で睨み続けるだけだった。
「ごめんください──」
か細い女性の声が、玄関から聞こえてきた。それを聞き、クニオはビクッと肩と腹と陰茎を揺らした。
「おい、誰だ」
「多分ねー、私のお母さん」
「ハァ! なんでおまえの母親が来るんだよ!」
「ごめんね──」
「ふざけやがれ、この畜生めが! 何が起こっているのかさっぱりわからねえ。俺は親子丼なんて注文した覚えはねえよ! しかもてめえ、プラスアルファーで小僧つきとは前代未聞、未曾有の風俗嬢じゃねえかい。だいたい──、せがれもせがれでうるっせえなあ! いい加減に泣きやめや! おいポニ坊。聞け、おい。これはなあ、いじめじゃねえんだ──。ママをいじめるな、じゃねえんだよ。これはプレイだ。あんたの母ちゃんはM嬢なんだよ! 俺を犯罪者みたいに言うんじゃねえ!」
クニオの呼びかけに、一瞬泣き止んだチュウノシンだったが、「母ちゃんはM嬢」という言葉を聞いて、また暴れ泣きが再開した。意味など絶対わかっていないはずだけど、それが蔑称のようなものであることは理解したようだった。
「ママはママだもん! ママはママだもん! ママはママだもん!」
床に頭を打ちすぎて、額は真っ赤に腫れていた。少し血も滲んでいるように見えた。
チュウノシンの自虐行為は、一歳半を過ぎたあたりから始まった。何度止めようとしても、やめなさいと言っても、血が出るまでやめなかった。あるいは疲れ果てるまでやめなかった。ある程度やり続けないと止まらなかった。こうなると、時間しか解決してくれない。時間が経てば、電池が切れたようにして止まる。チュウノシンは、そういう子だった──。
「すみません、ごめんくださいませ──」
母の声が再び聞こえた。今度はさっきより少し大きな声だった。
「ああっ! ったく!」
クニオは四股を踏むみたいに床を蹴って怒りをぶつけた。それから急いでカーテンレールにぶら下がったスーツ一式を全裸に着た。チュウノシンの声はだんだん小さく弱くなってきていた。もうそろそろ、電池が切れる頃かもしれない。
*
リビングには、クニオ、母、チュウノシン、ポニーがいた。チュウノシンは電池が切れたおもちゃのように、横になって静かな眠りについていた。ポニーが着てきたジャンパーを布団代わりに掛け、スースーと微かな寝息を立てている。
空気は、鉛のように重かった。母が此処に上がってきてから、誰も口を開かなかった。三人とも、何を言っていいのかわからなかったのかもしれない。いや、わからなかったというより、声を出すのが恐ろしかったのだ。全員、ただ黙って俯いていた。
「ごめんなさいね──。ただ通っただけっていうか──。チュウくんが突撃しちゃって、中に入っちゃって、もう、どうしたらいいかと──」
沈黙を切り開いたのは、まごつく母の声だった。いや──、切り開いたというより、耐えられなかったといったほうが正しかった。母はいつもそうだった。家族の沈黙が怖いという理由で、いつもテレビをつけていたし、とにかく──、沈黙が苦手な人だった。
母の言葉を頭の中でリフレインする。
ただ、通っただけ?
そんなの嘘だということは、さすがのポニーでもわかっていた。だけど、それを責めることはできなかった。クニオもクニオで、さっきまで「畜生」だの「ふざけるな」だの言ってた割に、母と対面してからは大人しくなり、親指のささくれをカリカリといじりながら下を向いていた。
ポニーは何か答えようと言葉を探した。しかし、何を言っていいのかわからない。下手なことを言うと、チュウノシンが自分のところに戻ってきてしまう。それは避けたかった。もう面倒をみることはできない。ごめんなさいだけど、できない。
「えーと──」
ポニーが何を言おうか迷ってるうちに、先に母が静寂に切り込みを入れた。母はまごついた顔をキリッとした顔にわざとらしくし、クルリとクニオに体を向けた。
「娘がお世話になっているみたいで、ありがとうございます。あの、どうか、娘と孫をよろしくお願いします」
それから大袈裟になって土下座の姿勢を取った。
ポニーは慌てて、
「ええ、お母さん。ちがうよー。この人は、彼氏とかそういうのじゃなくてー」
そう言ったが、そんなことは絶対聞かないとまるで遮るようにして、母は、
「よろしくお願いします。不束なようでも、本当はすごく優しい子なんです。ちょっと鈍臭いけれど、根は真面目なんです。この子とチュウを、大切にしてあげてください」
と言い、再び深く土下座をした。しばらくの間、額を床にくっつけたまま離さなかった。
クニオはささくれいじりをやめ、ポニーのほうを見た。ポニーは首を横にブンブンと振った。クニオはしばらく空中を眺めたあと、
「いいっすよ」
と言って、母の元まで擦り寄り、肩をポンと叩いてニコリと笑った。
何か裏に策がある、そんな笑みにポニーには見えた。
しかしクニオが何を考えているのかはわからなかった。
チュウノシンは、安心したような顔でスヤスヤとずっと眠り続けていた。
母は「ありがとうございます」と言って、涙を流さず泣いていた。
「それって、結婚するっていうこと?」
ポニーはクニオにそう聞いた。声は少し震えていた。
「そうだよ」
クニオはそう言って大きな大きなため息を吐いた。それから少し考えたようにして、再び口を開きこう言った。
「よく考えたら、俺たちは結婚したほうが色々とメリットがある」
「ありがとうございます。ありがとうございます。娘と孫を、何卒、何卒よろしくお願いします。本当に、ありがとうございます!」
現実感が遠のいて、仮想世界に引っ張られていくような感覚がポニーを襲った。酸素が薄くなってきて、くるくるくると目が回る。逃げられない。どうして逃げることができないの。逃げたいのに、逃げたいのに、逃げたいのに──。
*
“All human errors are impatience, a premature breaking off of methodical procedure, an apparent fencing-in of what is apparently at issue.”−Franz Kafka
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます